まずルソー『エミール』のなかの、よく引用されるらしい以下の文をご覧ください。
太陽は先ぶれの火矢を放ってすでにそのあらわれを予告している。
朝焼けはひろがり、東の方は真赤に燃えて見える。
その輝きをながめて、太陽があらわれるにはまだ間があるころから、人は期待に胸おどらせ、いまかいまかと待っている。
ついに太陽が姿を見せる。
輝かしい一点がきらめく光を放ち、たちまちのうちに空間のすべてをみたす。
闇のヴェールは消え落ちる。
人間は自分の棲処(すみか)をみとめ、大地がすっかり美しくなっているのに気がつく。
緑の野は夜のあいだに新しい生気を得ている。
それを照らす生まれいずる日、金色に染める最初の光線は、それが目に光りと色を反射して見せてくれる。
合唱隊の小鳥たちが集まってきて、一斉に生命の父へ挨拶を送る。
このとき黙している小鳥は一羽もいない。
小鳥たちのさえずりは、まだ弱々しく、一日のほかの時刻にくらべてもっとゆっくりとやさしく聞こえ、安らかな眠りから覚めたばかりのものうい感じを感じさせる。
そうしたあらゆるものが集って、感官にさわやかな印象をもたらし、それは魂にまで沁みわたっていくように思われる。
それはどんな人でもうっとりとせずにはいられない恍惚の三十分間であり、そういう壮大で、美しく、甘美な光景にはだれひとりとして無関心ではいられない。
(ネット用に見やすくするため行間をあける表記に直させていただきました)
太陽がもたらす自然の生命の息吹きを見事に美しくあらわした一文です。
ところが、酔いしれた心地に水をさして申しわけありませんが、この太陽も水爆と同じ核融合のエネルギーであることを忘れてはなりません。
そればかりか、天体に輝く満点の美しい星たちも、この太陽と同じ恒星、つまり核爆発による輝きです。
そもそも、無限に広がるこの宇宙空間は、原子の核の融合と分裂の世界であり、そのとてつもないエネルギーの放射は、およそ生命の存在とは相いれない世界です。
とてつもない熱エネルギーの場と、とてつもない闇黒の空間が広がっていて、そのような広がりのなかのある一点に一見偶然のような現象として、生命の奇跡が必然としてここに起きたのです。
わかりきったことかもしれませんが、わたしたちのいる地球とは、そのような存在であることを、原発事故後の社会は、あらためて考えさせてくれます。
核分裂や放射能といった、私たちの生命を脅かす存在は、そもそも宇宙空間では自然な姿であるということ。
もちろん、だからといって人間が作り出した放射性物質を同類のものとして、あっても当然なものと認めるわけでは決してありません。
再度強調したいのは、そうしたそもそも生命とは相いれない空間のなかに、奇跡の存在として生まれた地球生命を、今、人間自身の手によって自らの奇跡の存在を否定する、自然な宇宙空間レベルに近づけようとしている、そんな時代に直面してしまったということです。
誤解を恐れずに書きますが、原発や放射能が悪いのではなく、この奇跡の生命を自ら否定するような人間の意志の表れこそが問題なのです。
自然と生命の再生産の構造は、まさにこの宇宙空間のなかの奇跡の一点でのみ営まれているものです。
これまでの生命は、そんなこと考える必要もなくひたすら生きてこられたものが、今、それをわたしたちが判断し、行動することなしには維持できないところにまで来てしまったのです。
「人間的自然」という言葉がありますが、これまで使われていたこの言葉の解釈は、何と軽い理解であったことだろうと思わずにはいられません。
自然とは何か、この単純な問いが今までとはまったく別の次元でとらえ直すときがきています。
高木仁三郎 著 『いま自然をどうみるか』 白水社 2,000円+税
内山 節 著 『「里」という思想』 新潮選書 1,100円+税