万葉集のなかで紫陽花がうたわれているのは、次の二首だけです。
あぢさゐの八重咲くごとく八つ代にを
いませわが背子 みつつ偲はむ
橘諸兄 (巻二十 4448)
あじさいが幾重にも群がって咲くように変わりなく、
いつまでもおだやかでいてください。
わたしはこの花を見るたびにあなたを思い出しましょう。(大意)
言(こと)問はぬ木すらあぢさゐ諸弟(もろと)らが
練りのむらとに詐(あざむか)えけり
大伴家持 (巻四 773)
物言わぬ木でさえ、あじさいのような移りやすいものがあります
諸弟らの巧みな占の言葉に私はだまされました。 (大意)
紫陽花の折り重なる様子、移ろいやすさをそれぞれうたっています。
「万葉集」は橘諸兄と大伴家持、このふたりの力によって編纂されたともいわれます。
紫陽花の歌で、このふたりが共演していることも面白い。
いや、万葉集編さんの中軸ふたりだけが紫陽花をうたっていることには、何か深い意味もありそうな気もしてきます・・・
百人一首が、ただ名歌を集めただけでなく、ひとつひとつの選択に深い意味が込められているのと同じく、万葉集編さんの中心人物であるこの二人だけが紫陽花という題材を選んだことは、憶測かもしれませんが、推測研究の価値は十分あるかと思います。
まして藤原氏圧政の下で、ひと際苦労を分かち合っているこの二人のことですから。
橘諸兄と紫陽花については、様々な考察ができそうですが、
以下のような興味深い仮説のサイトもありました。
http://kntryk.blog.fc2.com/blog-entry-604.html?sp
まだ、これほど目立つ花が、歴史のなかでは『源氏物語』にも『枕草子』にも、
まったく取り上げられていません。
その後、あらわれてくるのは芭蕉句(発句編・夏)でやっと現れます。
アジサイは渋川市の花ですが、この町だけはいつの時代になっても変わること
なくその魅力を伝え続けたいものです。
天皇と藤原氏を中心に律令制度を軸としたこの国のかたちがようやくできはじめた天平時代。
災害や疫病とともに、その中枢を担っていた藤原四兄弟をはじめとする多くの議政官が次つぎと亡くなってしまいました。
そんなときに藤原氏以外から聖武天皇を補佐し、大変な国分寺政策の責任者に抜擢されたのが橘諸兄です。
多くの人びとが苦しみのなかにあるときに、仏教による救済を求めて聖武天皇は、東大寺をはじめとする巨大寺院や仏像の建立に人々をかりたてたのです。
そんな無謀な計画は、決して長く続くものではありませんが、その責任を担わされた橘諸兄のこころの内はどのようなものであったでしょうか。
「万葉集」は「遷都と仏教支配に失敗した橘氏が仲麻呂勢力に対して行なった文化的戦い」(梅原猛「天平の明暗」中央公論社)との見方もある。
この史跡にたって橘諸兄の紫陽花の歌をよんでみると、
日本をおおう大きな政治のうねりと、その職務を背負ったひとりの人間の苦悩の姿、
またそこにかり出された幾多の人びとや高度な技術をもった名もなき職人たちの息吹を感じることができます。
天平一三年(741)多くの災害や政治の乱れに苦しんだ聖武天皇は、東大寺建立をはじめとする国分寺を国ごとにつくることを命じました。
上野国の国分寺は、750年頃に主な建物が完成したようです。
僧寺は東西約220メートル、南北約235メートルの広さをもち、周囲は築垣(土塀)で囲まれていました。その中央には本尊の釈迦像を祭る金堂と高さ60mにも及ぶ七重塔が建てられていました。
奈良県で一番高い興福寺の五重塔でも50.1メートル。木造日本一の高さを誇る京都の東寺五重塔でも54.8メートル。
五重と七重の違いはあるものの凄いことに変わりはありません。各地の国分寺も、ほぼ同じ設計図によってつくられていたようですが、上野国分寺は早い時期につくられたこともあり、全国でも規模ともに整ったものだったようです。
東大寺の七重塔の推定高100メートルには及びませんが、
おそらく当時は上野国のかなり広いエリアからその姿をみることができたことでしょう。
(以上、万葉紫陽花歌手作り栞普及チラシ下書きより)