前に「これをやればうまくいく」今どきそんな理屈はあてにならない http://blog.goo.ne.jp/hosinoue/e/e66f1cc5282cdcd3bb09f8e0fbe84f8a
ということを書きました。
それは、まず努力し続ける情熱のようなものが根底になければ、
どんな優れた方法論があっても意味がなくなってしまう、
といったようなことを強調するものでした。
確かに、仕事ではどんな技術や知識があっても、まず根底を貫く強い「情熱」が無ければ何事も成せません。
でも最近になって私は、どうやら「情熱」よりももっと大事なものがあるのではないかと感じています。
こんなことを意識するようになったのは、「月夜野百景」などの活動で、本来「太陽」と「月」が一対の世界観として日本人の心に根付いていたものが、いつの間にか「太陽」にばかり偏った世界観がどんどん広がってきてしまった弊害をいろいろと意識するようになったからでもあります。
「情熱」の意義を強調することは、へたをすると「太陽」や「アマテラス」ばかりを強調するのと同じ誤りを侵しているのではないでしょうか。
「太陽」が私たちに与えてくれる恩恵は、とてつもなく大きく強いものです。
にもかかわらず「太陽」の力というものは、
一方通行の強い力、光であるために強い「影」を生みます。
地球という奇跡のバランスの上にある空間を除くと、灼熱の地獄であたり、強烈な放射能にさらされる空間でもあります。
そうした実態を意識しだすと、まさに太陽の本質は「核」「核爆発」そのものです。
とうてい私たちのコントロールの及ぶものではありません。
このとてもコントロールの及ぶはずのないエネルギーが、豊かな恵みとなり得ているのは、
絶妙の距離にある地球においてのみのことです。
またそれは大気があることによって、
あるいはオゾン層があることによって、
さらには大量の「水」があることによってなど
数々の奇跡によって支えられています。
私たちの日常において「情熱」は、何よりも豊かさをもたらす最大のエネルギーであると言って間違いはないと思うのですが、その「熱」の性格を「太陽」になぞらえると、どうも無条件にたたえてしまうことは、何か大事なことを見落としてしまっているように思えてならなかったのです。
そうしたことを「陰陽」の思想や「月」の存在意義を見直すことで、わたしに気づかせてくれました。
といってそれをまだきちんと説明することは出来ませんが、
それを「熱」という表現から想像すると「遠赤外線」のようなもののイメージです。
直線的に表面から焼き尽くす熱ではなく、深い所までじわりと温めることの出来る熱のことです。
さらには、無機的な物質の間で行われる熱交換ではなくて、「生命」の間でのみおこりうる「体温の温かさ」のようなもののことです。
確かに強い「信念」や「情熱」は、岩おも貫くことができるので、現代においてその意義はどんなに強調しても強調しすぎることはないように思えます。
でも、その力を信じて成功しても、目に見えていない弊害に気づいていないことも多いのではないでしょうか。
右肩上がりの時代が終わったことで、なんとなくそんな側面にいろいろと私たちは気づきだしたように思えます。
どんなにガシガシと頑張って成功したとしても、なんとなくひとりのお婆ちゃんの優しいまなざしには勝てないような理屈が、何か世の中ではとてつもなく大事で、現実に大きな力を担っているのではないかといった感じです。
道元の『普勧坐禅儀』のなかの文言に次のようなものがあります。
回光返照の退歩を学ぶべし。自然に身心脱落して、本来の面目現前せん
「前ばまり向いて歩かずに、ときには立ち止まって後ずさりして、自然と同化し、仲良く自然と語り合う気持ちのゆとりを持ちなさい。そうすれば、身も心も抜け落ちたようになり、自然の持っている本来の実相までが見えてきますよ」(松本章男)
道元の和歌 - 春は花 夏ほととぎす (中公新書 (1807)) | |
クリエーター情報なし | |
中央公論新社 |
またそれは母親の子どもに対する無条件の愛のようなものとも言えます。
それは確かに大切なことかもしれないが、直接の仕事には関係ないと言われるかもしれません。
でもビジネスの世界であったとしても持続的な成功をおさめている人をみると、「情熱」だけではなくて、このような「温かさ」のようなものをとても大切にしています。
広く世の中全体を見渡してみると、私たちに求められているのは、「情熱」といったような突破を目的とするエネルギーよりも、むしろ「生命の温かさ」のような包み込む「熱」の方がずっと大事であると感じます。
冷静に考えてみると、この温かさの方がビジネスにおいても、より大切なことなのではないかとさえ思えてきます。
成功の目的を、個別の事案にとどめることなく、持続的な生命の再生産と考えると、灼熱のエネルギーよりも「温かさ」といった性格の熱の方が大事であることが自然にわかるかと思います。
さらにこれは、一部の人に求められる「情熱」よりも、ずっと裾野が広く多くの人に幸せをもたらすものであるといえます。
強調したいのは、どちらが大事かということではなくて、「情熱」や「太陽」のようなエネルギーにばかり偏ってしまい、そうした力ではない別の「熱」「温かさ」のようなものの意義が見えなくなってしまっていることの危険性に気づくべきだということです。
近代の歴史で「太陽」「太陽暦」「アマテラス」などの優位が強調されるばかりに、一方で存在が忘れられてきた「月」や「陰暦」の再評価を考えるほど、わたしはこんなようなことを最近しきりに感じてます。
目指すは、
「太陽のような情熱にばかり偏ることなく、
回光返照の退歩を学ぶべし」といったところでしょうか。