「古代東国ロマン 伊香保万葉歌」のホームページに連動して
http://www.ikahomanyou.com
9首の歌の額装をしました。
以前、書家にお願いしてこの9首を書いてもらいましたが、わかりやすい写真バージョンも欲しかったので作成しました。
樋口秀次郎『榛名山と万葉集』に、
ともあれ、雨雲がわき、人が狂喜叫喚しだすと、まつりの第一部は終わりに入り、第一部の後半部から若い男女の間の闘歌、歌垣となります。
まつりの第二部に性が開放されmそれが神聖視され公認された歌垣神事に、まちかねたように若い男女の愛の歌かけがはじまり、ざわめきかえり、やがて結ばれた心の男女は沼べりの茂みのここかしこに消えこむわけでしょう。神のきめた男女二人の共寝、それは性を生産の象徴として神聖視した婚姻習俗のなかに公認され、祝福されていたわけです。荒々しい山岳気象の変化とともにたかぶった若者の血は燃え、それにたえかねたように直情的に荒々しく「いざ 寝しめとら」と歌いかけるわけです。
と絶妙な解説がありました。
伊香保の山(榛名山)の急斜面ぞいの、墾り原(焼畑)の刈根(かりばね)のねのように、ねんごろ(入念)に将来のことなど心配するなよ。今、こうして会えていることでよいではないか。
伊香保のやさかの堰堤にたつ虹のそれのように、おれとお前の仲がはっきりと知れわたってしまうまでも、共寝をくり返していたら、どんなに楽しいことだろう。(共寝さえこうしてできれば、後のことなどままよかまいはしない。)
上毛野の国の伊香保の沼に生えているコナギの種をとってくるけれど、そのコナギの種というわけではないが、こんなに恋にこがれようと思って恋の種を求めたのであろうか(あの人が恋しいことよ)。
この解釈不能、難解な歌。折口信夫の口訳は、次のようになっています。
伊香保に居るいとしいお方よ。これまでは、あなたをいい加減に思うていましたが、その夫なるあなたを、忘れることが出来ませんことですよ。
伊香保山に、雷神よそう鳴ってくださるな。私にとっては何んということもないけれど、こわがる私の愛人のためにお頼み申すのですよ。
伊香保おろしの吹く日、吹かない日があると言うけれど、私の恋ばかりはいつという時などなくずっと続いてやむときがないことよ。
恋しいあの娘の家のあたりは、このままでは通り過ぎ難いものだ。
伊香保山の山沿いの墾り畑に私は来ていると、(お前さんに)自然とひきつけられるよ。心ひとすじに思い慕っているので。
なかなか歌に合う写真が撮れないので、まだ間に合わせのものもあります。