「稼ぐに追いつく貧乏はなし」
と云ふけれど、
寝るほど楽があらばこそ、
浮世の馬鹿は起きて働く
これは決して皮肉ではなく、また世捨て人の戯言でもありません。
大真面目なはなしです。
世の政治家は、景気対策や雇用対策こそ大事というけれど、もう一度、働くことの意味、何のために働くのかを考えてほしい。
本物の贅沢は、知恵と時間こそを使い、お金はかからない。
ところが残念ながら多くの人は、それを「面倒くさい」という。
あるいはまた、買った方が安い、という。
と、当初はここまでの記事でしたが、タイトルのせいか妙にアクセスの多いページになってしまったので、もう少し補足することにします。
この「浮世の馬鹿は起きて働く」という皮肉表現の裏に私は、二つの意味を感じています。(あくまでも揶揄、皮肉表現としての話しですので悪しからず)
ひとつは、そもそも「働く」ということ自体が、人間の生涯生命活動の総時間から見ればほんの7%にも満たない時間であるにもかかわらず、どうしてひとは「働く」ことに生活のすべてがかくも従属させられてしまっているのか、ということです。
政府の言う働き方改革などというのは、そもそもどこを向いて議論しているのか、という話しです。
このことは
「経済活動よりも生命活動に信をおく社会」
に書きました。
「稼ぐ」時間以外の「食う」時間、「寝る」時間、暮らしの諸々を「繕う」時間そのものが、「働く」ことを補完するための時間ではなく、それら自体が生命本来の創造的な核心部分の時間であるはずです。
もうひとつは、「働く」ということの実態に関わることで、後段の
「本物の贅沢は、知恵と時間こそを使い、お金はかからない。
ところが残念ながら多くの人は、それを「面倒くさい」という。
あるいはまた、買った方が安い、という。」
部分に込められた意味です。
本来の「働く」という行為そのものは、子供を産み育てることに次いで人間の最も創造的な営みであるにもかかわらず、多くの「仕事」が、現金を稼ぐためであり
「やりたくもない仕事でありながら、それを失うことを恐れ、それにしがみついている」
仕事は楽しいかね
という矛盾を抱えているからです。
まるで労働報酬が「苦労」の対価であるかのごとく。
確かに「寝るほど楽」とまではいえないかもしれませんが、本来、創造性を発揮するべき仕事に対して、ただ組織(会社や業界)を守るためであったり、
自分のポジションを守るためであったり、 暮らしを維持するためだけの収入にしがみつくためであったり・・・・
それらをよしとしている人は少ないかもしれませんが、そこから抜け出るための一番肝心な「努力」や「思考」は、「面倒臭い」というのです。
未だに、教えられたことをそのまま学び、それをきちんとこなせる人間が高い評価を受けるような日本社会は、どんどん国際社会からは取り残されていく時代です。
こうした労働時間こそが、甚だ失礼ながら浮世の馬鹿が起きて働いている姿とつい感じてしまうのです。
こんなことを言うといろいろなツッコミも予想されますが、生命活動から切り離された経済活動に偏った現代社会文明がいかに進歩しても大自然からの圧倒的な贈与を前提にして成り立っている人間社会であることなどのことを前提に考えれば、必ずしも極論ともいえないこととは思えないでしょうか。
こうしたことを語るときによく引き合いに出す忘れられない話しをもうひとつ。
むかし永六輔があるラジオ番組で紹介したことで、正確な記憶ではありませんが、
およそ以下のようなことです。
ある母親の子どもが、もの心がつきだし世の中のことがわかってきたからなのか、
毎日、母親の手伝いをするたびに、
請求書を送りつけてくるようになった。
せいきゅうしょ。
げんかんのそうじ、100円
しょくじのあとかたづけのてつだい、100円
朝のゴミだし、100円
スーパーへのおつかい、300円
これが、毎日のように続くようになってきた。
そこで、母親はある日、その子どもに
母親から「請求書」をあらたに送りつけることにした。
せいきゅう書。
お前が生まれたときにあげた母さんのオッパイ、0円(タダ)。
お前がそだつあいだずっとあげているまいにちの食事、0円(タダ)。
お前をがっこうにやるための服やげっしゃ、0円(タダ)。
これから生きている限り、お前にそそぎつづける母さんの愛情、0円(タダ)。」
これは単なる母親の愛情や教育の仕方の問題に限ったことではありません。
世の中は、こうした親から子への贈与の連鎖が、ずっと長い歴史を通じて行われてきたわけです。
それは経済活動とは違うというかもしれませんが、こうした贈与の連鎖でこそ、人類の長い歴史は経済活動も含めて成り立ってきたのではないかと私は思うのです。
本来は「働く」ということほど尊いものはありません。
でも、現代の賃労働が当たり前かのようになってしまったこの半世紀の労働形態が、
長い人類の歴史からみればいかにに特殊な姿であるかということはもう少し考えてみたいものです。
遊びをせんとや生まれけむ
戯れせんとや生まれ生まれけん
遊ぶ子どもの声きけば
わが身さへこそゆるがるれ
『梁塵秘抄』
生命そのものが遊びであり、戯れなのです。
GDP(お金のかかった総量)でしか人間の活動を見れない社会というのは、人類の歴史で見れば、ほんの半世紀ほどの間に普及した特殊な考え方です。
大自然の厳しさもあるのは事実ですが、
花のあいだを飛び渡る蝶、
木のうえで毎日楽しげにさえずる小鳥、
彼らのように、日々、自然生命は生きていけるのです。
そして、
仕事も、遊ぶように戯れるように働いてこそ、創造性も生産性も高まるものだと思います。
念のため、ここでいう遊びとは、現代の消費に支えられた遊びではありません。
こうした世界観のもう少し客観的裏付けについては、まだ整理仕切れていませんが、
「経済活動よりも生命活動に信をおく社会」 ご参照ください。
かくして、ものぐさ太郎である私は、
言いわけに忙しく、
仕事をしているヒマなどないのです(笑)