よくいわれる「魚を与えるより魚のとり方を教えることが大切なのだ」という表現。
仕事においても、子育てや教育においても、国際援助のあり方においても、とても大事なことであるかに思えますが、少し前から私自身、自分の仕事を進めるほどにこの表現に含まれる矛盾を感じていました。
これがまるきりウソと言いきってしまっては誤解を生むことになりかねないのですが、「魚を与えるより魚のとり方を教えることが大切なのだ」とのみ思い込んでしまうことの危険性はまぎれもなく存在するので、ここに書かせていただきます。
それが、以下の伊勢崎賢治さんの『国際貢献のウソ』(ちくまプリマー新書)を読んでから、確信を持っていえるようになりました。
それは、次の表現です。
こうして見ると、NGOって、かなりあくどい中間業者のように見えます。僕が見る限り、被援助者というのは権利意識も何も持ちえないくらい知能的に劣った人たちだ、というイメージを暗に作りたがるようです。
その典型的な例が、「魚を与えるより魚のとり方を教えることが大切なのだ」という言い方です。端的に言えば、発展途上国は援助依存体質が染みついてしまっているから、自立させねばならんという考えですね。
勘違いもはなはだしいんですが、途上国の人々は、我々よりはるかによく魚のとり方を知っています。自分たちで自宅を建設したり修繕したり、コミュニティで共同して集会所なんかも自前で建設する。僕たちNGOに言われなくたてです。
現実に大概の「魚のとり方」を教えられるようなかたちになってしまった原因は、多くの途上国援助が、先に植民地支配などの歴史を通じてその国が何百年、何千年とつちかってきた在来の生産・生活体系を破壊され、生活基盤の多くを外国から購入させられる仕組みになってしまったからです。
魚のとり方を教えると言っていながら実際は、教え続けるいいお客さんであり続けることこそが、先進国の一番の利益であるわけです。
この構造は、私のこれまでの仕事でも痛感させられていました。
それは二つのことで感じていました。
ひとつは、本を売るという仕事で、もうひとつは、同業者やホテルなどの業界のサポートの仕事をするようになってからのことです。
これはまた別の長い話になってしまうので、今日はここまでにしますが、教えることこそ本業の教育の世界においてこそ、この原則は貫かれるべき問題です。
切り込み口は、斜めから入っていますが伊勢崎賢治さんの活動は、これからどんどん注目されていくことと思います。