小さい頃から転校を繰り返してきた私は、自分の立場が常に少数派、マイノリティーであることには比較的慣れている方だと思っています。
それは少数派であるというよりも、むしろ100対1くらいの力関係の中で生きている感覚です。
ところが最近、ふと気づいいたのですが、同じ100対1という僅か1%の立場であっても、分母を100ではなく1000にすると、分子は10になります。
自分と同じ立場の人間が10人もいると思うと、ちょっと気持ち悪くなるくらいです。
だいたいは、同じ考えの人間が2、3人もいれば十分なもので、もしも「七人の侍」のように、それぞれ違う能力や芸のある仲間が7人も集まれば、完璧とも言えるほど強力な集団になることと思います。
このことに気づくと、自分が常に少数派、マイノリティーの側であることは、なんらハンディーや不利につながるようなことではなく、もともと何かことを始めるときには、当たり前の立場であることに気づかされます。
多数派になれないから不利なのではないとうことです。
どんなことでも、二人目、三人目を探し出すことこそが大事な一歩であるはずです。
多数を形成するために必要なのは、この一人目、二人目の「覚悟」こそが大事で、その覚悟を持った人の周りにこそ、多数の応援者やギャラリーがつくといった感覚です。
それを抜きにいきなり「皆んなで」とか「大勢」に多くを期待したり、多数の側の「正義」を信じてしまうような勘違いは避けるべきでしょう。
時代が、行動する前に正しいかどうかを議論することよりも、まず実践して試してみて検証しながら前に進むことの方が、はるかに大事であるということがわかり出してきたような気がします。
そんな時代に、多数派でなければ始められない、勝てないといった論理は馴染みません。
細かく考えると、それにはいろいろな但し書きも必要になってきて、それにこだわりだすと、また多数決型民主主義に戻ってしまうのですが、
まずは、一刻でも早く
「やってしまえ」
あるいは、やることを「許容してもらう」ことが重視される社会になるべきで、今、世の中は着実にその方向に向かい始めているのではないかと感じています。
どんな環境にあっても、自分が1%の存在であることは、決して心細いことではなく、分母を1000にすれば、1%で十分な立場であることに気づかされました。
そもそも世の中というのは、たくさんの1%の積み重ねで成り立っているのですから。
一人、覚悟をした人間がいれば、
それは過半数だ。
トム・ピータース