かみつけ岩坊の数寄、隙き、大好き

働き方が変わる、学び方が変わる、暮らしが変わる。
 「Hoshino Parsons Project」のブログ

「雇用」より大切な「仕事」観

2018年12月28日 | これからの働き方・生業(なりわい)

地域の人たちと話をしていると、地域のどこに明るい未来があるんだ、雇用がないんだから若い人が増えるわけがない、といったようなことをしばしば耳にします。

いつも、「それは違う」と思っているのですが、単純に反論してなんとかなることではないので、その場では黙ってやり過ごすことが多いものです。

でも活字の上では、もう少しなんとか整理しておきたいと思いました。

 

まず、理屈の上での話ですが、

私は仕事や雇用に関しては、いつも次のような原則をイメージしています。

 

1000万円レベルの仕事の下には、100万円単位の様々な仕事が10個あります。

500万円レベルの仕事の下には、50万円単位の様々な仕事が10個あります。

100万円レベルの仕事の下には、10万円単位の様々な仕事が10個あります。

5万円レベルの仕事の下には、5千円単位の様々な仕事が10個あります。

1万円レベルの仕事の下には、千円単位の様々な仕事が10個あります。
 

もちろん、実際にはそう単純ではありませんが、このように捉えることができるのも間違いないと思います。
地域に仕事がないという問題を「雇用」の問題だけで捉えてしまうと、大事な仕事の内容や実態を見損ない、仕事を「参加権」や「所属権」の問題でしか捉えられなくなってしまいます。

確かに現代社会の多くの仕事は、賃労働型であるという意味で、その業種への「参加権」や「所属権」を勝ち得てこそ成り立つような仕事が多いことに間違いはありませんが、現状の仕事を改善することだけではなく、ゼロからはじめて千円の売り上げや利益を生み出すにはどうしたら良いかを考え、それがどれだけ難しいかということは、「所属」型、「参加」型の仕事に浸かっているとなかなか見えてこなくなってしまうものです。

このような意味で、年収300万、500万の仕事が得られるかどうか、起業する場合でも、年収500万、1000万のビジネスが立ち上げられるかどうかにこだわりすぎると、本当の持続可能な仕事の姿から遠ざかってしまうように思えてなりません。

ただ、悲しいかな厳しい雇用の現実は、非正規労働の増加とともに、望まずしてこうした数万から10万円程度の仕事の組み合わせで働かざるをえない労働形態を多く作ってしまいました。それも、従来の働き方を見直す良い機会になったと言えなくはありませんが、現実はとてもそんな風に褒められたものではありません。 

実態が、先の参加型・所属型の労働スタイルが分解されただけのことで、仕事を構成する小さな稼ぐ力がたくさん芽生えたわけではないからです。

 

多くの地方自治体では、大きな企業誘致に成功すれば、自治体の税収が大幅に改善されるだけでなく、まさに雇用も相当増えるかもしれませんが、ひと昔とは異なり大きな企業ほど、時代が変わっても長くその地に生き続けることは難しい時代になってきています。
大企業への依存度が高まるほど、「ある日突然」という事態に地方自治体が襲われる例は少なくありません。 

 

ですが、念のため書き足しておきますが、この逆の思考パターンも即効性だけを考えれば確かに否定はできません。
むしろ、売上を数パーセント伸ばす努力よりも、売上を2倍、3倍にするには、と考えた方が、今の延長上の思考から脱却するので、逆に容易い場合も少なくありません。
さらに、同類の低い売り上げ仲間同士の間で競い合うよりも、桁違いに事業規模の大きいところを相手に営業をかけた方が、たやすく売り上げを伸ばす確率が高いのも事実だと思います。 

 

大事なことは、1万円でも千円でも百円の仕事でもよいから、自らが稼げるネタを持てるかどうか、そのような能力や資産づくりを常日頃考えているかどうかということです。

こうした思考の欠落したまま、ただ「マジメに働く」「より多く働く」労働観が、国際水準から大きく遅れてしまった日本国民一人当たりの生産性の低さにつながっている気がします。

まさに、仕事=雇用と考えてしまうところに、ここ半世紀で浸透してしまった「賃労働偏重」の悲しい労働実態があります。

 

 

そしてこの話の先には、さらに大事なことがあります。

本来の「仕事」とは、「雇用」で語られるものよりも、自分の目の前の現実、目の前で起きている課題にこそほんとうの「仕事」は存在しているのだということです。

多くの人が、どんな仕事なら稼げるか、食っていけるか、安定した暮らしができるかを考えるのは当然ですが、会社の仕事を一生懸命、マジメに働いている人であっても、日常の目の前に起きた問題に直ちに対応することなく、それは自分の担当ではない、自分の専門ではないといって、避けてしまうことをよく見かけます。

以前「それはありません」のひと言にすべてがある に似たようなことを書いたことがあります。

 

一生懸命勉強して良い学校に進んで、資格を取って、良い会社に就職していながら、大きな組織の分業社会で働くようになると、「それは自分の専門ではない」「それは担当ではない」と思ってしまうことが、どうして多くなってしまうのでしょうか。

まさに「専門性」こそが、より高付加価値な仕事をなす条件であると。

微妙な違いかもしれませんが、現実には「専門性」を極める仕事ほど、その専門性を発揮するために「必要なことはすべてやる」という姿勢が徹底されているものです。

また現代社会は「競争社会」であるとはいいながらも、競争に勝っている組織ほど、その内部では勝つためのより多くの「協力関係」によって支えられているものです。

そこには、一貫してそれまでの経験の枠内では解決できない問題に対して、絶えず学び、調べ、試してみるというチャレンジがともなうものです。これは共通の目標に進んでいる「仲間」の間でこそなせるワザです。

そこにつながりが見えない組織間になってしまうと、「専門ではない」「担当ではない」「自分にはできない」といった言葉で、そのチャンスを排除してしまいます。

そのような例は、やはり所属・参加型の仕事をしている人ほど顕著になる傾向があるようにも思えます。

この姿勢の差が、付加価値生産力の大きな差につながっていきます。

課題に直面した個人であれば、本来逃げることができない課題が、組織が大きくなるにしたがって、解決主体が曖昧になってしまう傾向がありますが、その意味で有機的に動いている組織ほど、組織そのものが「大きな個人」として生きているとも言えるかもしれません。

かつて国民の8割近くが、農業を中心として個人商店や様々な分野の職人などの自営業者であった時代には、それぞれの事業主が自分でその時々に直面した課題に対して、程度の差こそあれ、当たり前のように自らが解決していく世の中でした。

能力があろうがなかろうが、常に自分が食っていくために必要なことは自分ですることが当たり前の当事者であたからです。

同じ構造が、今でも主婦にはあると思います。
今晩の料理をどうするか、冷蔵庫にある材料で何をつくるか、スーパーで何を買ってくるか、子どもが急に熱を出したらどうするか、反抗期にどう対処していくか・・・・等々。
無条件に自分ただひとりが、その場で解決していかなければならない課題ばかりなので、能力や資格があろうがなかろうが、その瞬間に極めてクリエイティブに自分で答えを出していかなければならないのです。

これが本来、仕事でもまったく同じはずなのに、こと会社や組織の「仕事」となると、スルーできるかのことばかりたくさん出てきてしまいます。

 

かつて、地域経済復活の切り札として「地域通貨」が流行ったことがありました。

特定の地域内でのみ通用するお金で、普通のお金のように利子がつかないため、長く持っていても得しないお金として、、より早く動く通貨として期待されましたが、なかなか普及はしませんでした。
これが普及しなかった原因は、地域通貨の意味そのものが伝わらなかったことや、地域商品券との違いがあまり理解されなかったことなどもありますが、一番の理由は、地域内で「私があなたに対して何がしてあげられるか」「あなたは私に何をしてくれるのか」といった関係の構築が不十分であったことではないかと私は思っています。

だからこそ「人材ネットワーク」のようなものを作ったというかもしれませんが、通常の経済ではその人材や能力、持っている商品やサービスを使うにはどうしたら良いか、それぞれが必死に広告・宣伝、売り込み・営業をやってやっと関係を作っているのに対して、ただ安い労働力として地域ネットワークに登録さえされればいいと安易に考えていた傾向もありました。

「仕事」や「地域経済」を担うもっとも大切なことを、まだよく理解できていなかったように思えます。

 「仕事」としてみたときにもっと大事なのは、他人から何か頼まれたときや、何か新たな問題に直面したときに、それが自分の専門でなかったり、担当ではなかったり、これまでの経験ではやったことがないことであったりしたときにこそ、能力を開発することです。

 調べ、学び、協力を得られる人を探しだすことを前提に考えれば、「それは自分の専門ではありません」といった言葉が出る前に、自分にできることを探さなければならないことに気づかなければなりません。

 

  

誰もが食べていくために背に腹は変えられないと、納得のいかないことであってもこなしていかなければならないのが「仕事」であると考えがちですが、こうした「仕事」の成り立つところの原点をもう一度考えてみれば、自分の目の前に現れた課題をそれまでの経験や能力に関わりなく解決していくことこそが基本であることに気づけるのではないでしょうか。

 

これからの時代の経済発展を、従来型労働の労働量や労働密度を上げることなく、創造的付加価値を増していくには、こうした脱所属・参加型の労働観を取り戻していくことが不可欠であるとわたしは思います。

そうした課題解決型の仕事は、まさに身の回りの地域にこそたくさん眠っているからです。

より多く稼ぐことをなんら否定するものではありませんが、ただ「より多く」「より大きく」だけを求めてマジメに働き続けると、気づかないうちに私たちの子や孫、子孫らのよって立つところのよすがを食いつぶしていってしまいます。

それは、先祖から代々受け継いできた家や土地を、子供達が「タダでも欲しくない」という社会にあらわれてきています。

これさえあれば食っていける、という構造よりも、足元の小さな稼ぎもとを一つ一つ発掘していく力の方が、一見、楽ではないかもしれませんが、子どもたちへ残せるものは、少なくとも失わずに生きていける道になるのではないでしょうか。

 

 

 

 

 

 

仕事や働き方に関連するこのブログ内の記事

①  「千回の法則」の 要点メモ 持続する仕事(2/3) 

② 経済活動よりも生命活動に「信」をおく社会

③ 「秀才」を育てる時代が終わり、誰もが「天才」の時代へ

④ 生産の基礎単位としての「家族」 再録メモ

⑤ 寝るほど楽があらばこそ、浮世のバカは起きて働く

⑥ 税の集め方・使い方が逆行した日本の公務員システム みなかみ町の場合

⑦ 地域を支える様ざまな労働スタイル

⑧ オレの仕事は、俺一代

⑨ 企画・イベントよりも、まず競争力のある商品とサービス

⑩ 異常な人口爆発の時代が終わり、適正サイズに向かう日本

   

  点と点がつながり線になっても、安易に「面」にはしない

  生涯をかけて学ばなければならない「お金」の使い方・活かし方  (準備中)  

 

 

 

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地元の鉱山開発の歴史と高橋是清の足跡 略年譜をつくりながら

2018年12月28日 | 「近代化」でくくれない人々

『古馬牧村史』に書かれていることですが、私たちの地元みなかみ町には、いくつかの鉱山跡があります。

 ところが、幸か不幸か、どこも私有地であることなどから、ほとんどの鉱山跡は地元でも意外と知られていないことを知りました。今も残る坑道跡など、私有地内ということだけでなく安全管理の問題もあり、立ち入りには慎重な姿勢が求められています。

 そのようなことから、とても興味深い産業遺産でありながらそれを周知させることはとても困難であると言われていました。しかし、もはやネットなどで廃墟マニア、鉱物マニア、鉱山マニアなどによってどんどん情報が流れ出る時代になっています。ただ地元だけでタブーにしているわけにはもはやいかなくなってきたように思えます。

 そこで、困難なことであることは承知しながらも、どのようにしたらその歴史的価値を地元に伝えうるか、その方法を時間をかけてでも模索していこうと、そうした鉱山跡のひとつについて地元の人たちが立ち上がってくれたことをきっかけに、チャレンジしてみることとなりました。

 結論から言うと、まずは地域学習内部資料を作成することになったのですが、この作業を通じて私たちはとても多くのことを学ぶことができました。

 ネットで公開できるのは、限られた内容となりますが、その一部をここに書き記しておこうと思います。

 

 

1、歴史遺産の調べ方・学び方・方法論について

以下、学習資料に書いた文を転載します。

 地方には様々な歴史的・文化的価値ある資産が埋もれています。それらの貴重な資産は、心ない興味本位の人びとによってしばしば荒らされるだけでなく、メディアや専門家の手によっても破壊され奪われていくことも珍しくありません。
 そこには、ただ「価値あるもの」だからといった名目のもとに、その土地にずっと暮らし生き続けてきた地元の人びとや自然の命に対する想像力や配慮といったものが視界に入っていないものです。
 私たちは、この鉱山の歴史や実態を学ぶとき、そうした声なき人びとに耳を傾ける心も同時に学んでいかなければならないことを知りました。
 この調査学習資料は、内容の多くは『古馬牧村史』を参照しておりますが、発行にあたっては次の本の指摘に多くを学びました。  

宮本常一・安渓遊地 『調査されるという迷惑』みずのわ出版 

 同時に、内部学習資料で有っても、簡単なレジュメやプレゼン資料にするのではなく、リーフレットや雑誌の特集記事のようなレイアウトに仕上げることで、「伝える」という作業をさらに深めることができました。

これもとても厄介な地域の人たちの理解を得る作業を、粘り強く行ってくれ方がいてくれたからこそ続けられた作業です。

そのためにも、難しい課題ほど、文章の練り込みやわかりやすさだけではなく、写真の力、タイトルの表現、ページレイアウトなども同等のこととして手間をかけることがいかに大事であるかを学ぶことができました。

 

 

2、明治から昭和の戦争に至る時代の中枢にいた高橋是清という人物

 

 高橋是清は、総理大臣としてよりも、昭和金融恐慌など財政危機を乗り越えた大蔵大臣として広く知られています。
 戦争の道へ突き進んでいく時代に是清は、軍部の圧力にも屈することなく財政再建を果たした手腕が高く評価され、ダルマさんの愛称でも親しまれています。

 経済不安や財政危機が叫ばれる現代にこのような人物がいたならばと、しばしば話題にされる人ですが、そんな高橋是清が、旧古馬牧村(現みなかみ町)と深く関わっていたことは、あまり知られていません。

 明治二十二年、是清は鉱山開発をはじめるためにペルーに渡りますが、すでに廃鉱であったことを知り帰国。その直後に天沼鉱山の経営にかかわるようになりました。
 近代化を急ぐ明治政府にとっても、資源の開発は切実なものでした。足尾銅山をはじめ江戸時代に停滞していた数々の鉱山が再び活況を呈し始めた時代です。 そのような時代に、是清が経営にあたった天沼鉱山は明治四年に鉱業法が制定されて以来、四番目の金山として操業されました。

 しかし、採掘して精錬にかけてみると、これも予期通りの成績が挙がらない。ついに数ヶ月にして廃鉱の余儀なきに至り、入れた資本はすべて損失になってしまいました。ペルー鉱山の失敗と重なり、是清は千五百坪の家屋敷も処分することとなりました。

 この時最初にこの鉱山を世話した者が、廃止するならほかに売ってやろうかと言ってきたが、我々が見損なって買込み、実地にやって見て悪かったものを、他に転売して自己の利を計ることは不道徳の極みであるとして断然断った。そうして据付けた機械その他はすべて取壊して売ってしまった。『高橋是清自伝』より

 まさに山師の感覚と清廉な是清の姿勢の違いがよくうかがえるエピソードです。

 しかし、この相次ぐ失敗は、のちに是清が日銀の役職につくときも、山師のようなものを公職につけさせて良いのかといった誹謗が付きまとうことは避けられませんでした。

 

 それでも、ペルーの鉱山開発に続く失敗で、容易には諦めきれなかったのか、同じ上州利根郡の戸倉の山中で、今度は気長に探鉱することに決めて、探鉱技師二人に長男の是賢(これかた)をつけて、山中に山ごもりをさせることにしました。

 この時、長男の是賢はまだ14歳。

 是清は、是賢に山中における心得の大要を示し書き贈っています。

       心得の大要(前文略)

一、早起きは少々午睡するとも必ず怠るべからず、人に対しては力めて温和にして言寡かるべし、実行を励み、自然と人の帰服するを楽み威力によるべからず

一、米味噌その他需要品はこれを仕入れる時予め次期の仕入れを考え置き、また平常の事務をとるにはその日その日に五、六日先のことまで方法順序を考え置き、手落または齟齬のことなき様注意すべし

一、坑内事業については能く日々の変化を記憶しまた極めて必要なる場合のほか坑夫に坑内模様の可否を問うべからず、必ず実地について視察し確定せる意見を立て得るまでは漫に喜憂の状を表すべからず

一、坑内測量図面の整調を平日に怠るべからず

一、鉱物の分析はかねて教諭せられたる旨を尊守し実行すべし

一、物品の購入及び人夫雇人等に関し好機会若くは好人物あるの故を持って他より勧誘せらるるとも実際の必要に迫られやむを得ざる場合のほか断然採用すべからず

一、日記を怠らず少くとも一ヶ月一回東京に通信すべし

 

最初の

「人に対しては力めて温和にして言寡かるべし、実行を励み、自然と人の帰服するを楽み威力によるべからず」

などの表現は、薩長にはない明治人の側の気骨の極みの様に見えます。

 

 

 (これらのことは)まだ鉄道もない時代(前橋・渋川間に鉄道馬車が開通したのが明治二十三年七月)のことです。自動車もそれほど普及はしていません。人力車などに頼りこの地に来た是清は、必然的に長期の滞在をよぎなくされたことと思われます。単なる投資目的の事業家とは異なり、高橋是清は短い間でしたが、滞在中にこの地と様々な関わりをもち、深く地域の人びとの記憶に残ることとなりました。

(以下、記載エピソードは略) 

 

 

 

 

3、一見客観的のように見える年表の個々の事実の取捨選択作業

だいぶ昔に「年表を読む面白さ」といったテーマでホームページ「かみつけの国 本のテーマ館」に書いたことがありますが、今度は年表を「読む面白さ」から、年表を「つくる面白さ」をさらに知ることができました。 

 

略  年  譜
(上記学習資料では以下の内容をさらに省略しています) 


1854(嘉永7) 幕府絵師川村庄右右衛門の私生児として生まれ、間も無く仙台藩の足軽、
        高橋覚治の養子となる


1867(慶応3) 勝海舟の息子・小鹿と渡米留学。オークランドで奴隷労働しながら勉強。

1868(明治元) 帰国。森有礼の書生となる。明治維新、戊辰戦争始まる

1869(明治2) 大学南校教官三等手伝。

1870(明治3)  放蕩生活に入り教官辞める。

1871~81(明治4~14)英語教師、通訳などをする。教え子には正岡子規、秋山真之など。

1872(明治5)  学制の発布、全国に小学校を設置。太陽暦を採用

1873(明治6)   徴兵令施行

1881~89(明治14〜22)農商務省御用掛け、専売特許所長、初代特許局長など歴任。

1889(明治22) 東京農林学校長兼任。
         11月:ペルーのカラワクラ銀山経営のためへ渡航。
        大日本帝国憲法、皇室典範公布
        町村制施行により、後閑村、師村、政所村、
真庭村、下牧村、上牧村、 大沼村、
        奈女沢村が合併し、利根郡古馬牧村が成立。

1890(明治23) 1月:カヤオ港着。
         2月:カラワクラ鉱山開坑式を行う。
         3月:ペルー鉱山が廃鉱であることわかる。
         4月:帰国の途につく。
        帰国後、天沼鉱山経営に着手。

1892(明治25) 日本銀行建築所事務主任。
        その後、日銀支配役・西武支店長、 横浜正金銀行本店支配人、副頭取など歴任

1899(明治32) 日本銀行副総裁に就任。

1904(明治37) 日露戦争始まる。戦時公債募集のため渡米英。

1905(明治38)貴族院議員に勅任。戦時公債募集のため再渡英。
                       ポーツマス条約調印。

1911(明治44) 日本銀行総裁に就任。

1913(大正2)   第一次山本内閣の大蔵大臣に就任。立憲政友会入党。

1918(大正7)   原内閣の大蔵大臣に就任(2度目)シベリア出兵開始

1920(大正9) 子爵陞爵。

1921(大正10) 原総理暗殺により後継内閣総理大臣に就任。
        大蔵大臣兼任。政友会総裁となる。

1922(大正⒒)  高橋内閣総辞職。

1924(大正13) 貴族院議員を辞職。爵位を長男に譲って「隠居」。
        岩手県盛岡市の原敬の旧選挙区から衆議院議員選挙に立候補し当選。
        加藤高明内閣の農商務大臣に就任。

1925(大正14) 兼任の農林大臣、商工大臣を依願免職。


1927(昭和2) 金融恐慌始まる。
       田中義一内閣の大蔵大臣就任(3度目)
       恐慌の沈静化に手腕を発揮し、恐慌の沈静化を節目に大蔵大臣を依願免職。

1928(昭和3) 上越線、水上駅まで開通。

1931(昭和6) 犬養内閣の大蔵大臣に就任(4度目)
        世界最長の清水トンネル開通
        柳条湖事件を発端に満州事変勃発。

1932(昭和7)犬養総理暗殺(五・一五事件)内閣総理大臣を10日間兼任。
        斉藤内閣の大蔵大臣に留任(5度目) 満州国建国

1934(昭和9)斉藤内閣総辞職。
       岡田内閣藤井大蔵大臣が肺気腫で倒れ、 後任として大蔵大臣に就任(6度目)

1936(昭和⒒)赤坂の私邸で反乱軍部隊に6発の銃弾を撃たれ暗殺される(二・二六事件)。
        享年82(満81歳没)

 

 

この略年譜は、何度も項目を加えたり削除したり訂正をしましたが、今まで

「町村制施行により、後閑村、師村、政所村、真庭村、下牧村、上牧村、 大沼村、奈女沢村が合併し、
利根郡古馬牧村が成立」
 したことのみを他の場所でも記していましたが、この年に明治憲法が制定されて、この国の法的な形が確立したのだという理解はありませんでした。 

また、1928(昭和3) 上越線、水上駅まで開通。
   1931(昭和6) 世界最長の清水トンネル開通。
とともに是清が古馬牧村に来たのが、まだ前橋・渋川間に鉄道馬車が開通したばかりの明治二十三年七月であることなど、当時の交通事情があらためて理解できました。
(個人的に昭和3年は父の生まれた年、昭和6年は母の生まれた年なので、とても覚えやすい)


大正から昭和にかけてが、鉄道時代の幕開けの時期であり、それまでの北前舟を中心とした水運が急速に消えていく時期でもありました。

また是清がペルーまで片道一ヶ月以上の長い航海を経てたどり着き、そこでカラワクラ鉱山開坑式まで行っていながら失敗して帰国していること、その直後に天沼鉱山の経営に着手していることなどから、起死回生を図ろうとする是清の力の入れようが伺われます。

 

 

きっかけは、地元の天沼鉱山の調査でしたが、『高橋是清自伝』を読むほどに、世界中が金融経済で振り回される現代のような時代こそ、経済学者ではなく、高橋是清のような課題解決型の仕事人が出てきてほしいものだと、つくづく思いました。

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