祭りや伝統行事は、どれも長い歴史を通じてつちかわれてきたものですが、今日の姿のすべてが古来の姿であるとは限りません。
とりわけ明治から昭和にかけての間に、そのかたちを変えてきた祭りや行事は少なくありません。
黒い喪服姿で葬儀を行うようになったのは明治以降のことで、それ以前の葬儀は白装束でした。
そして多くの祭りや行事は旧暦で行われており、それは庶民の季節感と密接に結びついたものでした。
昭和の中ごろまで生きた明治生まれの古老は、昨日の晩というとそれは一昨日の夜のことを指していました。
それは1日の始まりが日没後の夜からはじまるという習慣があったからです。
事実、祭りなどの行事で前夜祭として行われるものは、本来一日の始まりが夜からであったことの名残りです。そして行事が何月何日に行われるかということは、どれも暦上のとても大事な意味があるものでした。旧暦で月の中旬や15日に行われる行事というのは、それが満月の日であることに意味がありました。月のはじめの行事といえば新月の日にやることに意味がありました。
月夜野の祗園祭(おぎょん)も、今では7月末から8月頭にかけての土日に行うようになってしまいましたが、当初は旧暦8月の1、2、3日に行われていました。
それはただ月の初めというだけではなく、新月、つまり太陽と月が重なり、受けるエネルギーも倍加している時期であることに意味があったわけです。
ところが、先の東京オリンピックのころから専業農家の人口の比率がどんどん減りはじめると、地域の祭りや行事が暮らしや生産と密接に結びついた切実な祈りをともなったものから、ただ伝統保存のための大変な努力を伴わないと維持することがとても難しい時代になりだしました。
そこでは暦の意味が失われるだけでなく、地域内よりも外で稼いでくるサラリーマンの比率が増えてきて、人を集めやすい土日でないと行事が行えないようになってきました。
こうした時代とともに移りかわる祭りや伝統行事の姿は、伝統文化の保存如何の問題ばかりでなく、地域の暮らしのあり方と密接に結びついたものであることがうかがえます。
写真はいずれも『我がふるさと写真集 月夜野町』企画・発行 月夜野町(昭和62年)より