幸せな働き方や幸せな暮らし方をしている人と、そうでない人との違いをみていると、自分の主観的な判断や個人的な感覚をとても大切にしているかどうかの差がとても大きいのではないかと思います。
もっとも、個人の幸せなんてまさに人それぞれで、他人が問題にすること自体が大きなお世話なのですが(^^)
得てして仕事では、何ごとも客観的、公平でなければならないと思われがちですが、ものごとを前にすすめるには、正しいかどうか分からないようなことを決める自分の勇気と覚悟こそが大事で、そこを回避した会議や集団は何も生み出さない。
組織のなかでは、一見どちらでも良いようなことでも、そこは譲れないという価値観、世界観の積み重ねこそが、のちの大きな違いとなってくる。
「客観的公平」という言葉が、教育の現場で、日常の仕事で、地域のあり方で、どれだけ目の前でつかめる幸せから遠ざかる方向に引っ張ってきたことだろうか。
個人的、主観的であることは、当然、責任と覚悟が発生します。
その訓練をずっと避けたままの「民主主義」が、いま制度疲労を起こしている時代のような気がしてならない。
「客観的公平」を求めない「民主主義」などあるのか?
と言われそうですが、そここそが人の幸せを考える側と社会のためと言われながら不幸を招いていく道の大きな分かれ目なのでは。
「正しい」と言われるようなことは、たいていは「灰色の男たち」が運んできます。
サラリーマンなのだから、組織の一員なのだから、とオーナーやトップの決定には逆らえないことが当たり前のように言われます。かつては、そういう面もあるくらいに聞き流していた言葉ですが、個人やまわりの幸せへの道を冷静に考えると、今ではそれははっきりと違うのだと断言できます。
もちろん、すべてが個人の主観優先という意味ではなく、問題によっては折り合いの付け方が大事な場合もあります。でもその場合であっても、個人の「了解」の仕方かとても大事であると思います。
これまでの「横並び社会」で済んでいた時代が終わるだけに、こうした主観性を大事にする社会は、一見、厄介で面倒な人が増える社会になるようにも思えますが、実際は、これまでの横並び社会よりも異なる世界観同士が絶えず対話することになるので、折り合いのつけ方などはずっと進歩するのではないかとも思います。
全国の問題解決の突破事例などを突き詰めて見ていると、組織の客観性よりも、個人の責任と判断のエネルギー量が上回っているところのみが、必ず何かをなし得ているのだと言い切ることが出来ます。