指導をしない作文教育ですばらしい成果を出されている飯塚先生のことは、何度かこのブログで取り上げてますが、もう久しく前からその飯塚先生が毎週のようにお店に来てくれて、私といろいろ話をしていってくれるようになりました。
今日は、子どもが書いた文によせる先生のコメントのことを「評語」と言っているのですが、その「評語」といった表現でこの活動を言い表すことがどうも誤解をうみやすく、なにかしっくりこないといった話題になりました。
子どもがどんなボールを投げても、教師や親はそのボールを先にジャッジすることなく、まず必死に受け止めてあげられるかどうかが大事なのだということなのですが、その受け止める作業を先生は、「評語」=「コメントを返す」というプロセスで目覚ましい成果を生んでいます。
そのコメントを飯塚先生は、ずっと「評語」という言葉を使っているのですが、それがたまたま今回の企画のチラシで「評価」と誤って印刷されてしまったらしいのです。
ところが、そのことによって訂正を説明する際に、ややもすれば見過ごされがちな「評語」と「評価」の違いをあらためて意識してもらうよい機会にすることができたというのです。
にもかかわらず「評語」という表現は、私も感じていたのですが、先生もどうもしっくりこない感じがしていたとのことでした。
確かに教師や親からの「評価」ではないということが大事なのですが、これでは教師側の視点の違いだけが協調されて、肝心な子どもとのその瞬間に築かれる「関係」の意味合いが欠けた表現になってしまう。
「評価」することなく、こどものあらゆる行動や意識を評語=コメントをそえてその瞬間の固有の関係を築くことこそが真骨頂なのですが、
子どものどんな行動であっても、
それが理不尽なものであっても、
非道徳的な行動であっても、
学校内で通常はは許しがたいイタズラであっても、
ジャッジすることではなく、
それを「共感」するとは言えないかもしれませんが、率直な驚きの感情などとともに、そうした子どもたちのエネルギーにきちんと寄り添う。
こうした飯塚先生のスタンスは、やはり「評語」といった表現だけでは伝わりにくい。
「関係」の作り方こそがミソであり、
そこに生まれる独自な関係こそが、
通常の教育現場とはまったく「異質な場」を生み出す。
そこに子どもたちは見事に反応し、
教科指導をしているわけでもないのに、
学力までも自然に向上していく。
これをいったいどんな表現で簡潔に言ったら良いのだろうか?
そんなことを今日は話したのですが、たまたま家に戻ってtwitterを見ていたら
M・エンデの言葉で以下のようなことが紹介されていました。
「私に言わせれば、ほとんどすべての芸術や文学の仕事は、
それまで名前をもっていなかった事柄に、名前をつける事なんですよ。
名前をつけられれば、人間はその事柄と関係をもてるようになるわけですからね。」
『芸術と政治をめぐる対話』
なるほど、飯塚先生のやっている「評語」というのは、子どもと教師とのその瞬間の固有な関係、固有の時間に 「名前」をつけてあげる活動なんだ。
ひとつひとつの貴重な子どもの「体験」=「時間」に、決して点数をつけたり正しいかどうかジャッジすることではなく、「名前」をつけてあげることでそれが「いのち」輝く無二の時間であったことに気づく作業、それが飯塚先生の「評語」なのだと。
まだ「評語」に替わる表現がなんなのかが見えたわけではありませんが、このエンデの言葉によって意味の理解では大きく前に進めることができました。
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