お月見も、十五夜をはじめ十三夜、三日月、十六夜などいろいろありますが、わたしは「十日夜(とおかんや)」のことは知りませんでした。
なぜか月に関する言葉や行事紹介の本でも、この「十日夜」にふれているものは意外と少ないようです。
(後にわかったその理由については、最後に参考資料として付記しておきます)
どうやら、長野、北関東、東北南部に固有の習慣のようです。
しかしこの「十日夜」のことを知ると、月見ということが単なる観月ではなく、収穫の秋や里の神が山に帰る季節の行事として様ざまな生活習慣と密接に関わっていることがわかります。
都丸十九一先生の『上州のくらしのまつり』(喚乎堂)昭和52年刊、のなかに以下のような詳しい記述がありました。
長いですが、絶版本なので該当部分を紹介させていただきます。
十五夜
秋に入ると、家々に小さな祭りの機会が数多く訪れる。
旧暦八月十五日は十五夜。今では全く月見の夜のようにしかみられていないが、かつては別な意味があったと思われる。
鹿児島から南の島々にかけては、この日は収穫祭であるというが、上州でもかつてそうした色彩があったのではないか。
六合村では、この日畑の粟や稗の穂を抜いてきて供えた。利根郡の各地では、餅をついて大きなお供えにしてこれに大豆を枝ごと副えて神々に供え、月に供えた。
単なる月見ではなかったことはこの事例だけみても明らかであろう。
月の明るい満月の夜は、祭りに最もふさわしい日だったのである。
十日夜
十日夜は十五夜に比べれば祭りの色彩を強く残しているといえる。
多くの農村では、この日田んぼから藁にゅうをあげてきて庭に飾る。これをニュウガラサマなどと尊んでいっている。
これにこの日の餅・菜・大根を供える。餅はカクシモチなどと呼ぶところがあり、にゅうの中に入れて供えた。
またこの日を菜・大根の年取りといっているところが多い。
十日夜に、田畑に立てた案山子を庭に立てて供物するところが六合村の太子(おおし)や小雨(こさめ)にある。
その日三本足の案山子をたてて笠やケンデイ(蓑)を着せ、これに供え物をして「案山子さんご苦労さんでがんした」といって拝む。
供え物として餅を案山子の懐に入れる家もあり、お膳を作って供える家、畑に稔るさまざまな作物を供える家もある。
今はダムの底に沈んでしまった品木では、案山子は作らないが、その夜餅をついた臼や杵は洗わないで、杵を臼の上に横たえておいた。これは、案山子神さんがこれを踏み台にして天に上っていくからだ、と土地では説明していた。
案山子を庭に立てる風習は長野県北佐久にもその例があり、案山子揚げとして民俗学上とくによく知られた行事なのである。
十日夜の餅を蛙の分として供えるところが佐波郡境町の各にある。ここでも藁にゅうに供え餅をするが余分に一個、蛙の分として供える。蛙が背負って出雲へ行く。十月は神無月で神様はみんな出雲へ行くのだから、蛙も行く。
(この)ようなことを他愛ないこと、くだらないことといってはいけない。
ニュウガラサマなり、案山子なり蛙なりを農作を守護する神、田の神の憑り代ととるならば、田の神がめでたく守護の大任を終えて天に帰る時の儀礼ととることができる。換言すれば、田の神に対する収穫感謝祭なのである。出雲へ行くというところに、蛙を神とみたてていることがくみとれるのである。
上州における田の神は、田植唄などには登場するが、ほかではあまり信仰された形跡はないとされた。しかし近時、調査の進むにつれてしだいにその伝承が明らかになってきた。
赤城山南麓地方から太田市方面にかけてはかつてやや濃厚にその信仰がみられたのである。
前橋市西大室町には田の神田と称する田があり、石祠がある。
勢多郡宮城村、大胡町あたりでは、田植えの終了した日、田の一隅などに田の神のお仮屋をつくって供物する家がある。
田植えに際してお降りになった神がお帰りになる、それを祭るのがこのお仮屋だったと解することができよう。
田の神の語はすでに忘れ去った土地でも、この田植え終了の祝いをする。これをマンガアライ・オサナブリなどといっている。
「さなぶり」は、「さのぼり」で、田の神が昇天する祭りであるというのが民俗学上の通説となっている。
田植え後も田の神の名代として、つまり憑り代として守護してきた案山子が、天に昇る日、それが十日夜だったのであろう。
この日、子どもたちは藁鉄砲をつくって地面を叩き歩いた。
十日夜 十日夜
十日の晩にゃ 寝らんねえ
また
十日夜 十日夜
朝そばきりに 昼だんご
夕餅くっちゃあ ぶったたけ
などと唄った。
事実このような時期もあったのであろう。
さらに「大豆も小豆も よくみのれ」とか
「大麦小麦よくできろ」と続けるところもある。
地面を叩き歩くのは、もぐらを防ぐ儀礼ととっているところが多い。それによって麦の収穫を守ろうとする、という感覚が強く出ている面もある。
2015年にみなかみ町上牧で復活した十日夜
しかし、十日夜を祭るのは、山梨、長野、埼玉の近県諸地域であって、他地方ではこれを言わない。
とくに近畿・中国地方では、十月亥の日の祭りがあって、これを亥の子と称している。大体は十日夜と同じ性格のものと考えてよい。
そして、この亥の子をいうところが上州でも点々と存在する。
前記境町にもあり、赤城山西麓の村々にも、亥の子餅をつくイッケ(同族)がある。そうしたイッケでは十日夜の餅をつかない。
この十日夜と亥の子の関係は、ある時期に一方から他方へ変化したものと考えられる。おそらく亥の子が先行したであろう。
(以上、表記は縦書きを横書きに変更する都合上直したもの、改行など見やすく改めたものなど、一部変更してあります。)
猿ヶ京の「民話と紙芝居の家」https://minwa-kamishibai.comにある「わらでっぽう」
これはずいぶん太い作りになっていますが、
「わらでっぽう」の作り方は狭い地域内でもかなり差があるようです。
月夜野地区の「十日夜」については『古馬牧村史』に、以下のような記述があります。
十日夜(旧十月十日)
前夜かその朝餅を搗き、夜になると、里芋を十五夜と同じように供えるが、その台には普通新藁を用いる。
晩には子供たちは、藁でっぽうを作って、もぐら除けのまじないに
「トウカンヤトウカンヤ、ねずみもぐらおこすな」
などと唱えて家の庭から近所の庭をたたいてまわる。
「トウカンヤトウカンヤ十日(とおか)たてばおいべすこう(恵比寿講)」
などともいう。
『我がふるさと写真集 月夜野町』より
こんな話をしていたら、妻が六合村の十日夜の絵本と、長野県佐久地方のYOUTUBE画像をみつけてくれました。
https://www.youtube.com/watch?v=HiaJJaZ35QY
みなかみ町では、最も本来の姿を再現している藤原集落の十日夜
後日、十日ン夜が、なぜワラ鉄砲で地面を叩くのかという理由について、槇佐知子『野菜の効用』(ちくま文庫)の「ダイコン」の章のなかで以下のような解説に出会いました。
東日本では十日ン夜を「大根の歳取りの日」ともいい、この日に餅搗きすると大根が太るともいった。そして大根畑へ行っても、大根を食べてもいけないとされた。西日本では亥の子の日に大根畑へ行くと、大根に裂けめができたり腐ったり、疫病神が取り憑くともいう。私がその話をすると横溝さんは、
「ちょうどその頃ですよ直根が1メートルくらいになるのは。タネを撒いた下をモグラが走りまわると伸びた細い直根が切れてしまい、品質が悪くなったり二股大根ができやすいのです。モグラは音に敏感ですよ」
と瞳をかがやかせた。長年、心にかかっていた”十日ン夜”の行事の科学的根拠がわかり、私もすっかりうれしくなった。
資料 十日夜のバリエーション
こうしたわら鉄砲を叩くタイプ以外に十日夜の様々なバリエーションが群馬県下にあることを、都丸十九一さんが、以下のようにまとめています。
十日夜が月祭りであるという言い方は、十五夜、十三夜と並べてよくいわれるが、儀礼としてみるとき、それは農耕儀礼であるというのが通説である。いま県内の行事について私なりに整理をしてみると次のごとくである。
A 田畑から藁束・粟がらなどを庭に据えてこれをニュウガラサマなどと呼び、これに餅を供える。
また大根などの野菜を供える。利根郡から赤城山麓のほかにも広くみられる。
「大根の年取り」といわれる。 これには収穫感謝の意味合いが強い。
ニュウガラサマは田の神・地神の憑り代であろう。
B 庭に案山子をつくり、これに餅を供えるもので、一般的には「案山子あげ」といわれる。
吾妻郡下に多い。 その際の案山子は田の神・地神の憑り代である。
収穫感謝とともにそれらの神を送る儀礼とみられる。
C 佐波郡境町その他の地域では、蛙の分という。
十日夜の餅を十一個供える。うち一個は蛙がこれを背負って出雲に行くという。
これもB同様、神送りの儀礼とみられる。
なお十日夜は地紙様をまつるものだという伝承は、勢多郡東村のほか各地にみられる。
D 十日夜にわら鉄砲をうちならすのは、県下一円といってよい。
わら鉄砲は、神送りなどの際の供え物を入れるツトッコの発展であろう。
これを鳴らしてもぐら除けとするのは、麦作などの収穫予祝とも考えられる。
E 以上に対して十日夜の餅は仏様に供えるというのは、邑楽郡明和村など各地にある。
餅は十三仏と関係して十三個供える。新仏の出た家では「四十九」という餅を寺に持参した。
こうしたことには祖先供養の意味が認められる。
(都丸十九一『歳時と信仰の民俗』 三弥井書店)
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