鈴木牧之の『秋山紀行』のなかには、
深く閉ざされた山奥で暮らす人びとの、
おれは未だ米のなる木をみたことがない、
といったような縄文時代さながらの暮らしが描かれています。
「米のなる木をみたことがない」という表現は、
こうした山奥の暮らしを象徴する言葉と思っていました。
ところが森崎和江『奈落の神々・炭坑労働精神史』(平凡社ライブラリー)のなかに、
「わたしゃ備前の岡山育ち
米のなる木はまだ知らぬ」
という唄のことが紹介されていました。
これは子を孕んだ女が監獄に入ってそこで子を産んだ、
その子は監獄で成長したから米をみたことがない、
ということを唄ったものだそうです。
はたして、どちらが先なのか。
しかし、この言葉の生まれる背景から考えると、それは重要な問題ではない。
米を見たことが無い
米を食えない、
ということがどういうことなのか、
その現実を森崎和江『奈落の神々・炭坑労働精神史』は、
さらに深く見事に描いています。
それは明治から昭和初期にかけての日本の姿ですが、
小作農の多くは米が食べられないばかりか、
麦飯すら容易には食べられない生活をしていました。
二毛作が可能な温暖な高知ですら、
農民はトウモロコシをすり潰したものを食べていた。
いや、日本中、多くの農民は稗、粟、雑穀を日常食にしていた。
そうした貧しい農民が炭坑に働きにくると、
ぷーんと米炊く匂いが流れてくる。
それが、胸にずうんときた。という。
落盤や爆発事故などで多くの命が消えて行く危険な仕事でありながら、
そこでは米が食えるということがどれだけ得難い喜びであったか。
かつての貧農史観の多くは見直されて来ている現代ですが、
こうした厳しい現実が日本各地にあったことも事実です。
現代から振り返ると、なぜそれほど過酷な環境下から逃れることなく、
人々はその土地で暮らしていたのか疑問に思えることが多いものですが、
多くの場合は、それ以上過酷な環境からそこに逃れてきた人たち、
以前の場所には戻ることのできない事情をかかえた人たち、
その場から逃れる自由を持ち得ない人たちなど、
様々な「そうすることしか出来ない」人びとであったことが見えてきます。
他方、現代では残念ながら、
いつでも腹一杯お米を食することのできる都会人が、
その米がどのようにして作られているのか知らない喩えのように
「いまだ私は米のなる木をみたことがない」と
使われだしている悲しい現実があります。
日本のお米も、いつになってもなかなか報われず、苦労しますね。
蛇足だながら、「米」の字源は以下の解釈が正当なのでしょうが、
http://gogolesson.jugem.jp/?eid=41
この話の流れだと「木」という字の上に点々がついて出来た字に思えてくる。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます