かみつけ岩坊の数寄、隙き、大好き

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 「Hoshino Parsons Project」のブログ

見えにくい身近な死の実態

2008年04月23日 | 議論、分析ばかりしてないで攻めてみろ!
「自殺」

書かなければと思いながらだいぶ経ってしまった。
日本の自殺者数が3万人を越え続けていることについて、以前なにかの話題でふれましたが、
重いテーマなだけに、暗い話題の流れでは書きにくかった。
(前回の桜の話題はそんな意味合いもあってちょっと無理して挿入)
でも、暗い話題だからといっても、どうしても触れないわけにはいかない。

暗く重い話が苦手な方は、これから先は読まないでください。
裸の自分と向き合うことが苦手なひとも、よしたほうがいいかもしれない。

きっかけは誰かとの会話だったのだけれど、もう忘れてしまった。
それでこの自殺データをきちんと確認しようと検索していたら、
大局的には人口の伸びに対して自殺率が極端に増えているとはいえないようなグラフをみた。
でも、これはおかしい、数字の見かたのマジックではないかと思い、
他のいろいろなデータを見比べてみた。

それで一番わかりやすく参考になったのがこのサイト。
   http://www.t-pec.co.jp/mental/2002-08-4.htm
興味深かったのは国際比較
   http://www2.ttcn.ne.jp/~honkawa/2770.html

でも、私の疑問と問いはこうした数字上のデータ分析にあるのではない。

戦争や病気、交通事故などあらゆる死亡原因のなかで、
これだけ社会の病理をあらわした異常な現象として「自殺」の問題があるにもかかわらず、まだ社会でこれからの対応について真剣に問題が議論されているとはとても思えない今の日本の感覚を問いたいのです。

その原因として考えられるのは、現実には「自殺」というその話題が、データから先の問題となるとそれぞれの個人的な問題として扱われるばかりに、個々の問題については第三者が問題にすることが少ないということ、
あるいは、遺族への配慮などから、お互いにあまり立ち入って触れたがらないことが多いなどの背景が大きいかとも思われます。

交通事故による死亡は記事になっても、自殺による死亡が記事になることは少ない。
重要なポストにある人が不祥事などにからんで自殺をはかった場合などに限られている。

しかし、この個人の問題に立ち入らない構図そのものが、私には現代社会の病理そのものであるように思えてならない。

自殺者数が平成10年から急激に増えて、3万人台の時代を迎えている原因はなにか?
日本の自殺率が高い理由はどこにあるのか?
こうした問いは、絶対に必要であるけれども、これらは私には問題の核心に近づく議論には見えない。
私もこの日記を、はじめのうちはそうしたデータの解釈から書く予定でした。

私が考えたいのは、自殺が少なくなる社会システム、行政対応などの問題ではなく、
(もちろんそれも可能なことは成果が微々たるものでもやる価値はある)
圧倒的多数の人たちにとってそれは、

自分の今隣りにいる「隣人に対する無力さ」のなかにこそ
この問題の核心はあるのではないかということです。
言い換えると「人」が「人」としての力を喪失しかけている現実とでもいおうか。

これは「自殺」に限らず、すべての問題に共通する私の視点なのですが、
自殺を決意(あるいはその迷いの途上でも)するようなところに追い込まれた誰かがあるとき、
その人は、仮にどんなに孤独に打ちひしがれている人であっても、
ほとんどの場合は、
その人のすぐ隣りに、家族や友人、あるいは職場の同僚がいるという現実があり、
まわりの人間は気づかなかったとはいうものの・・・
いや、どちらかといえば、気づいていながら気づかないふりをしていることの方が多いのではないかとすら思えるのですが、
その自殺を考える人のまわりの具体的人間の関係が存在していたということを
もっとしっかり見て欲しいと思うのです。

自殺の問題はなにも、職を失い借金を抱えて地獄の思いを味わっている人や
長年にわたり病気に苦しみ、明日への希望がとても持てない人ばかりの問題ではない。

バリバリに仕事に打ち込んでいるように見える人。
恋愛で幸せの絶頂にいるような人。
伴侶や子どもに囲まれて幸せそうな家庭のある人。

そのように見える人たちが、突然、死を選択してしまうことも少なくはない。

自殺の問題は決して、議会のなかや
テレビや新聞のニュースのなかにある問題ではない。
わたしたちの日々の自分の隣人との接し方のなかに
その実態が潜んでいるように思えてならないのです。


私はどちらかといえば、自殺を考えるようなタイプの人間ではないと思っている。
しかし、
いつも絶好調で悩みなどなにもない私(笑)ですら、
その生きて立っているその基盤は、なにも病気や不慮の事故に限らず、
そのゆるぎない「信念」?ですら、いつ崩れはてて絶望の淵に落とされるとも限らない危ういものであると思っている。
そんなのはじめから「信念」とは言わないと言われるかもしれないけど、
人間なんて、もともとそんなものなのではないだろうか、
というのが私の印象です。

そのような誰もが危うい基盤の上にたったうえで
ささやかな「幸せ」や「安定」が、はからずも崩れかけたとき、
その人にまだ余力が多少なりとも残っている場合は、
どこかにその出口を求めてもがく。

友人や家族にすがったり、
心療内科の医師にすがったり、
本を読んだり、
旅に出て環境を変えてみたり。

でもその余力を振り絞ってもがいているときと、
その余力尽きて、運よくか運悪くかわからないけど
向こう側に行ってしまうとき、
あるいは僅かな差で、これも運よくか運悪くかわからないけど
未遂に終わりこちら側に帰ってこられる時との
ほんの僅かな差、あるいは決定的な差はどこにあるのだろうか?

ここが今回のテーマです。

私はそれは、いかに絶望と孤独の真っ只中にいるときであっても
隣人と自分との距離のなかに、距離というよりは
最後の隣人との接点のなかにあるような気がするのです。

つまり、この自殺者の増大という現実は、
人が人となる条件である他者の関係が断ち切られる瞬間におきることであり、
その実態は、死に追いやられる当事者の問題に劣らず、
その周りのひとたちが、その関係を断ち切っていく過程が
わたしたちのなかに蔓延しているということです。


私が20代のころから変わらず今も目にする場面がある。

出口が見えず必死にもがいている人が目の前にあらわれたとき
多くの「良心」の人は、

うん、そうだね。
そういうことは結論を急がないでみんなともっとよく相談してみたら。

といって別の友人や病院を紹介してくれる。

ところが、その紹介してくれたところをたずねるとまた、

うん、そうだね。
そういうことは、もっとみんなとよく相談して。

とまた同じことを言われる。
現実には病院に行ってまで同じような目にあう。
せいぜい精神安定剤をもらえるくらいで。

結局、彼らは世の中で「良心」の人たちに囲まれながらも
実際にはあちこちでたらい回しにされ、
外に頼れるものがなにもない、
そして自分自身に自力で乗り越える力はもうない
ということに気づかされる。

たしかに、そういう人たちの多くは
行動力に乏しかったり、
ウジウジといつまでも考え込んでいたり、
正直、蹴っ飛ばしてやりたくなるようなやっかいな人である場合が多い。


でもどうしてもこの問題は、
専門家やカウンセラー、あるいは人格者といえるような人に預ける問題ではなく、私たちの人としての本源的な能力、資質の問題として誰もが受け入れなければならない問題として提起したい。

自分を振り返るとほんとにツライのだけど・・・



ったく私はどうして簡潔にものを書くことができないのだろうか?
まだ長くなりそうなので、また次回。



  正林堂店長の雑記帖 2008/4/11(金) より転載
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