先日お店に行くと、本を出したので店においてほしいとの問い合わせがあったとのメモが机にありました。
地元の自費出版物は、できるだけ店におかせていただきたいといつも思うのですが、編集者の手を経ていない出版物は、多くの場合、本の制作方法が伝わる表現、売れる仕様になっていないものです。
そうしたことから、お店に置くにもただ置いておくわけにはいかないので、売るための準備として、著者に本の内容や魅力の再確認をして、必要な帯をつけたりPOPなどのキャッチコピーを考えたりするさまざまな段取りのあることを、ひとつひとつ説明しなければならない場合が多いものです。
今回もそのようなことになることを覚悟して、メモにあった連絡先に電話をしてみると、電話に出たのはなんと前に『田中の家に犬が来る』の本を売らせてもらった飯塚先生でした。
今回の本は、『えがおの花』。子どものありのままの姿が伝わる文集第2弾です。
電話をすると早速、飯塚先生が店に届けてくれました。
届けていただた本をめくると、なんと全部の文章がすばらしい!
普通は、これだけ多くの作文が掲載されると、作品の出来の善し悪しだけではなく、読む側の器の問題などもあり、すべてが読者のこころにフィットするなどということは、滅多にあるものではありません。
ところが、この子どもたちの文章は、ひとつひとつすべてがとても素晴らしいのです。
ちょっと想像のつかないこのことを、いったいどのようにしたら伝えられるでしょうか。
通常は、印象強い作品を抜粋するところですが、すべてがすばらしいので、冒頭の2作品をここに紹介させていただきます。
本当はね 2年 ◯◯さく来
おとうさんが、会しゃから
「今日の夕ごはんなあに。」
と、でんわをかけてきた。わたしは、
「ステーキ。」
と、こたえた。おとうさんはよろこんで、早く帰るねっていっていた。
だけどね、本当はね、しゃけなのよ。
(飯塚先生のコメント)
おかしい!「ステーキ。」と聞いて、早く帰るお父さんの顔がうかんでくるよ。そして、しゃけを見たときの顔も・・・
やったね、さく来ちゃん!
学校で遊べるところ 4年 ◯◯周平
今日は、階段。
東階段は、足ですべれる。中央階段は、こしですべれる。西階段は、中央階段と同じ。
会議室では、机にローラーがついたので走って、すーとのっかりながら遊ぶ。家庭教室は、しょうがいぶつがいっぱいあるから、かくれるところがいっぱいある。四年二組には、ホワイトボードがあるから、らくがきができる。トイレそうじでは、水をまいて、水ホッケーをしていた。
ちなみに、スティックの代わりは、フリードライヤーと、デッキブラシだ。
このように、どこのそうじでも遊ぶ物があるのだ。
(飯塚先生のコメント)
「おもしろい!遊びの天才だな。足ですべり、こしですべり、ローラーで遊び、家庭科室でかくれんぼをし、らくがきもでき、トイレで水ホッケーをし、どこのそうじでも遊べるなんて・・・。5年生になってもいっぱいやって、いっぱいおこられな。楽しみ!!
この2作品と先生のコメントの返し方を見ただけでも、これまでの作文の世界とは何かが違うとみなさん感じられるのではないでしょうか。
前回の本『田中の家に犬がくる』のとき、店で勝手につけさせていただいた本の帯には、
子どもの言葉を「受け止める」
新しい作文の発見!
と書きました。
「子どもの言葉を受け止める作文」というスタイルが前作以上に、今回の本では見事に表現されているように思えたのですが、振り返ると、前作の本の「あとがき」に飯塚先生は次のように書かれています。
「私が作文の指導法を大きく変えたことによって、現在の子どもたちは、以前の私には想像もできないほどの表現意欲に支えられ、教師が手を加えない「自然でありのままの表現」が可能となりました。
その中で子どもたちは、受け止めてもらえる安心感と分かってもらえる満足感が膨らんでいき、作文を書くための豊かな土壌となっていくのだと私は考えています。」
なんだ、すべてここにポイントは書かれているではないですか。
でも、先生のこの意図しているところが、今回の本では、より完璧に伝わってくる内容になっているのです。
そのためには、飯塚先生の「受け止める作文」の「受け止める」ということの意味を、もう少し掘り下げてみたいと思います。
親や教師が子どもの言葉を真剣に受け止めてやることが、とても大事であることは誰もがわかると思います。ところが、多くの親や教師は、「受け止め」てやりたい気持ちは持っていながらも、得てして目の前の子どもに対しては、受け止める前に「ジャッジ」や「指導」をしてしまうものです。
「聞いてあげるよ」といって呼び寄せていながら、その先の行為が「聞く」ではなく「ジャッジ」や「指導」になってしまうのです。
子どもの側からすると、「聞いてもらう」ために話すのではなく「ジャッジ」されるために「話す」「書く」ということになってしまっているのです。
この違いが、熱心な教師や親ほど、なかなかわからない傾向があります。
その理由のひとつは、子どもが投げかける言葉、表現が、親や教師の側にとっては、はじめから明らかに「受け入れがたい」ものであったり「間違った」ものに見えることが多いからです。
普通の教師や親は、「間違った」ものや「受け入れがたい」ものを「ただす」ことこそが教育であると考えがちです。
でも、飯塚先生のスタンスは違います。
子ども達が一生懸命なげたボールは、たとえどんなに「間違った」ものであっても、「受け入れがたい」ものであっても、まず無条件に受け止めることが何よりも大事であると飯塚先生は考えているのです。
子どもが親や教師にボールを投げると、大抵の場合は子どもの未熟さゆえに、ストライクゾーンからは大きく外れたり、指示したところとは違う場所に投げたり、サインとは違った球種を投げたり、どこで拾ったのか臭くて受け取るのも嫌な球を投げてきたりするものです。
多くの教師や親は、その都度、
そっちに投げてはいけない、
今のはサインとは違う球だ、
そんな方になげたら受け取れるわけがないではないか、
などと子どもに諭してしまいます。
投げる子どもに対しては、キャッチャーとして座ってミットを構えていることで「受け止める」仕事をしていると思ってしまっているのです。
ところが飯塚先生の場合は、どんなに外れたボールでも、ルールにない投げ方をしても、受けるのは嫌なとんでもなく臭い球でも、まず必死になってキャッチしてあげるのです。
投げ方がどうの、サインと違う、ルールと違うなどとは一切言わずに、まずどんなボールでもしっかりと受け止めることができるのです。
ここでまた多くの教師や親は、そんなこと言っても、あんなところに投げた球、誰だってとれるわけないではないか、と言います。
それでも飯塚先生は、そんな球でも必死になって飛びついていって受け止めます。
なぜそれが出来るのかと考えると、飯塚先生は、子どもが一生懸命になげたボールがどんなものであっても、それが面白くてしょうがないものに見えるからです。
「そんな投げ方があったのか、面白いねえ。」
「そんな球があったのか、驚きだねえ。」
残念ながら、はじめから正しいかどうかをジャッジする立場で構えている人には、飯塚先生のように子どもの投げたその「ボールの面白さ」は見えません。
また、子どもの側からすると、どんな球を投げてもしっかりと受け止めてもらえる信頼があるからこそ、腕を思い切りふってワンバンドになるようなフォークボールでも投げることが出来るのです(フォークボールを投げられる子どもはなかなかいないと思いますが、要はそういうことです)。キャッチャーが後ろにそらしてしまう不安があったら、絶対に三振をとれるようなフォークは投げられません。
こうしてどんな球でも受け止めてもらえる信頼が生まれると、投げる側はどんどん思い切り力を出し切った球を投げられるようになるのです。
親や教師の立場で子どもをみる前に、
まず6歳の子どもはその時点で完璧な6歳の人格をもった存在であり、
10歳の子どもは10歳として完璧な人間であることを忘れてはなりません。
これは教育では何よりも大事なことであり、教育だけではなく世の中のコミュニケーションでも、とても大事なことであることに変わりがないと思います。
「受け止める」こと「聞いてあげる」ことが大事であると多くの人が言っていながら、なかなか相手との距離が縮まらない一番の理由はこの辺にあるのではないでしょうか。
多くの場合、世の中では「答え」を出すことこそが大事なのだと思ってしまいます。
でも、ものごとがうまくいくかどうかの現実をみると、世の中が「正しい」答えによってまわっているとは限らないこと、むしろ「正しい」答えがどうのこうのよりも大事なさまざまなことによって支えられている場合が多いことに気づきます。
日本でも遅ればせながら、暗記詰め込み型の大学受験のための特殊技能教育の弊害が反省されて、センター試験のシステムも変わろうとしています。
しかしながら、多くの教育現場で教師や親の考え方は、そう簡単には変えられない現実があります。
それだけにこの飯塚先生のような教育スタイルが、飯塚先生の特別な資質によるものではなく、多くの教育現場で本来必要とされている基本的なものとして受け入れられることが何よりも望まれます。
そして2人目、3人目の飯塚先生が教育現場であらわれてくれることを願わずにはいられません。またいずれ遠くはない時期に、こうした考え方があたりまえの社会になることを願ってます。
飯塚先生の『えがおの花』という本は、こうした「正しい」「間違っている」の判断以前に、ひとりひとりの、ひとつひとつの固有の姿、固有のエネルギーに驚き、共感し、感動することが、コミュニケーションの出発点として何よりも大事であることを気づかせてくれる、とてもすばらしい本であると思います。
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