東大寺の三月堂こと法華堂には、その外観からは想像もつかないほど国宝級の仏像がずらりと並んでいる。それに気付かず中に入らずに通過してしまう人が多いこともよくわかる。
写真集で見慣れた仏像たちが、これだけまとまって並んでいると、ただ圧倒されるばかりで、その空間に馴染んで落ち着いてひとつひとつの姿を見ることができるまではかなりの時間を要する。
同行した連れは、出来ることなら不謹慎でも正面の畳の上に寝転がってずっと眺めていたいと言ったが、たしかに時間をたっぷりかけないことには、とてもこの迫力を受け止めることはできない。
これだけの仏像が、美術館のガラス越しではなく、昔からの信仰のままの姿で見ることができているのが信じがたいほどだ。
こうしたことに感謝しながらも他方では、長い歴史を生き抜いてきた信仰の対象としての仏像が、なんとなく観光の対象だけになり下がってしまっているように思えて、なんとも不自然な違和感を感じずにはいられなかった。
確かに中には、拝んでから静かに鑑賞するよう注意書きがあったものの、ここにいる仏像たちは、千何百年もの間、ずっと信仰の対象として拝まれてきたもので、多くの人に見てもられることは素晴らしいことであろうが、なんでここに読経している坊さんがいないのだ、と思わずにはいられない。
ほぼ一年中、こうした観光客に開放されていることはすばらしいことだ。
でも、ここは東京の博物館に展示されている仏像とは異なり、中に魂の入った仏像を安置した仏殿であるはず。大仏殿でも感じたことだが、中に売店をおいたり、拝観料をとるだけの人員をおくことより、まず仏像の前で読経しつづける坊さんがいることこそ、この国宝の価値を高めることなのではないだろうか。
東大寺といえば、その規模からしてもかなりの坊さんが、あの敷地のどこかにはいるはず。どうしてひとりずつ交代ででも、この前で読経しないのだろうか。
もちろん、朝など定期的なおつとめ(読経)はされているものとは思いますが、防犯のためにも、観光客に少しでもお寺の真の姿を理解してもらうためにも、観光客のいる前で読経したほうがずっと良いと思うのだけれど。
営業上手な薬師寺のマネをしろとは言わないが、二十分程度の読経、二十分の解説、二十分の休憩(自由拝観)のクルーを組むようなわけにはいかないものだろうか。
黙っていても自然に信仰心がわいてくる室生寺のような静寂がのぞめないこうした寺では、是非そうしてもらいたいものだと感じた。
写真集で見慣れた仏像たちが、これだけまとまって並んでいると、ただ圧倒されるばかりで、その空間に馴染んで落ち着いてひとつひとつの姿を見ることができるまではかなりの時間を要する。
同行した連れは、出来ることなら不謹慎でも正面の畳の上に寝転がってずっと眺めていたいと言ったが、たしかに時間をたっぷりかけないことには、とてもこの迫力を受け止めることはできない。
これだけの仏像が、美術館のガラス越しではなく、昔からの信仰のままの姿で見ることができているのが信じがたいほどだ。
こうしたことに感謝しながらも他方では、長い歴史を生き抜いてきた信仰の対象としての仏像が、なんとなく観光の対象だけになり下がってしまっているように思えて、なんとも不自然な違和感を感じずにはいられなかった。
確かに中には、拝んでから静かに鑑賞するよう注意書きがあったものの、ここにいる仏像たちは、千何百年もの間、ずっと信仰の対象として拝まれてきたもので、多くの人に見てもられることは素晴らしいことであろうが、なんでここに読経している坊さんがいないのだ、と思わずにはいられない。
ほぼ一年中、こうした観光客に開放されていることはすばらしいことだ。
でも、ここは東京の博物館に展示されている仏像とは異なり、中に魂の入った仏像を安置した仏殿であるはず。大仏殿でも感じたことだが、中に売店をおいたり、拝観料をとるだけの人員をおくことより、まず仏像の前で読経しつづける坊さんがいることこそ、この国宝の価値を高めることなのではないだろうか。
東大寺といえば、その規模からしてもかなりの坊さんが、あの敷地のどこかにはいるはず。どうしてひとりずつ交代ででも、この前で読経しないのだろうか。
もちろん、朝など定期的なおつとめ(読経)はされているものとは思いますが、防犯のためにも、観光客に少しでもお寺の真の姿を理解してもらうためにも、観光客のいる前で読経したほうがずっと良いと思うのだけれど。
営業上手な薬師寺のマネをしろとは言わないが、二十分程度の読経、二十分の解説、二十分の休憩(自由拝観)のクルーを組むようなわけにはいかないものだろうか。
黙っていても自然に信仰心がわいてくる室生寺のような静寂がのぞめないこうした寺では、是非そうしてもらいたいものだと感じた。
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