花の四日市スワマエ商店街

四日市の水谷仏具店です 譚

赤堀水右衛門 退場!

2017年01月28日 | わたくしごと、つまり個人的なこと

“亀山の仇討”のこと

江戸時代から昭和初期にかけ度々歌舞伎で取り上げられた“敵討千手護助剣(かたきうちせんじゅのすけだち)”は、戦後しばらくは仇討ものが禁止されていたため下火になったと考えられる。

 1673年、大阪城代青山因幡守(いなばのかみ)家臣 石井宇右衛門正春に武術指南の件で意見をされた浪人 赤堀原五右衛門は、11月18日の夜、石井家に忍び込み、鑓(やり)で突き殺して逃走した。正春には当時、妻(病死)・三之丞(18才)・彦七(16才)・源蔵(5才)・半蔵(2才)がいた。

 三之丞と彦七は家来を伴い仇討の旅に出、同年12月 大津で源右衛門の養父である赤堀遊閑を討つ。※なぜ養父までが殺される羽目になるのかワカラナイ

 ところが8年後(1681年)の正月、美濃の国に滞在していた三之丞は逆に原五右衛門に切り殺される。そして、訃報を聞いた彦七は伊予国に船で渡る途中に時化(しけ)で死亡。※仇討の旅は続くよドコマデモ

 さて、源五右衛門は赤堀水之助と名を変え伊勢国亀山藩主坂倉隠岐守に仕官。※身元調べはいい加減だったのか

 翌年、14歳になった三男 源蔵が、1688年には四男 半蔵が仇討の旅に出る。源五右衛門の居所を突き止めた二人は亀山藩に就職して潜り込み、江戸に出た折、南町奉行の仇討許可を受ける。

 元禄14年(1701年)5月9日の朝、赤堀水之助(源五右衛門)が、登城するところを待ち構えて本懐を遂げた。28年かけて成し遂げた仇討ち。残酷なお話です

 なお、亀山市野村町の妙亀山照光寺には「還本心性院道源日母霊」と戒名の刻まれた赤堀水之助の墓が、京都府亀岡市西竪町の宗堅寺には享保6年(1721年)に54歳で没した石井源蔵の墓が現存するそうである。

※それにしても、苗字に“赤堀”とついていただけで“赤堀村”にくっ付けるとは迷惑な話でアリマス

亀山市教育委員会文化財専門員 佐野益子氏「実説 亀山の仇討」より


赤堀村水右衛門登場!

2017年01月28日 | わたくしごと、つまり個人的なこと

、“商工春秋”2月号より「東海道名所古跡三宿続 庄野・石薬師・四日市」

本シリーズは、三つの宿場それぞれにゆかりのあるものが描かれ、四日市は、庄野、石薬師と一組になっている。本品は、残念ながら最上部が切り取られている。

四日市にゆかりのあるものとして描かれている赤堀村水右衛門は、亀山で実際に起こり、歌舞伎の題材にもなった石井兄弟仇討の敵、赤堀水野助のことである。劇中では赤堀水右衛門となっており、本品の役者は五代目市川海老蔵とされる。

物語に四日市は登場しないが、地名の赤堀の名前が共通するというだけで描かれたようだ。四日市周辺赤堀村が存在することは、「東海道名所記」など各種の案内記に記されており、こうした情報をもとにしたと思われる。

雨の中、蓑の端をギュッと掴み、大きな目で睨む姿に、ただならぬ緊張感が漂う。

                  市立博物館学芸員   田中伸一氏