仁吉が切られたのを見た穴太側は、反撃に移ろうとしたが、予め待ち伏せていた福田屋と梅屋の手の者がこれを阻止、そして、穴太方に付こうと来ていた信州の時次郎が、穴太の不徳に驚いて、一旦戻っていた庄野宿から清水一家の応援に馳せ付けたので、穴太一味は、椎山(加佐登神社と観音寺の間に位置する)に引き上げてしまった。仁吉は頸部の出血がひどく、間もなく釈迦堂前で絶命した。
観音寺の一番奥(北)に建つ奥の院
奥の院の右側に仁吉の碑が建っていた
長吉方は、仁吉の外に大瀬の半五郎、大野の鶴吉、広吉、鳥羽熊ら少数の軽傷者で済んだが、穴太方は死者六人、負傷者数十名に及んでいる。
仁吉の遺骸は、福田屋と梅屋の好意で、すぐに郷里の吉良へ運ぶよう指示してくれたので、夜に入って長吉と来合せた塩浜の吉五郎が道案内となり清水一家の32人が護衛して、荒神山裏手から鹿間を経て北小松へ出て、貝家から波木へ出て、室山に入り、東日野から松本南方の鹿化川堤防を大井川まで下り、浜街道から新丁の庄太夫方へ運び込まれた。
8日お昼の牛の刻<昼頃>から夕刻の六ッ時<暮れ六つ だから18時頃>まで争いがあり、その後荒神山を出発、夜遅くに稲葉家を訪ねた。仁吉の遺骸は、真っ暗な山道を大八車で運んだのか?強行軍だったと想像される。
改めてお断りしておく。この主人公は稲葉三右衛門なのである。
「・・・という訳で、旦那、まことにすみませんが回船問屋の稲葉様に船を一艘出してお貰い申したいんですが。」
「フーム なるほど ナルホド 成程なぁ。この頃は世間が物騒で役人の見回りも激しい。折角だが、そんな怪我人を乗せて夜分船を出させるわけにいかんが・・・ハテ困ったなぁ」三右衛門は、しばらく思案していたが、ポンと膝を叩いて・・・(ヒントは思案です) つづく