慶応4年(明治元年)正月27日、“赤報隊”の数人が、三滝川の川原で処刑された。そのうち二人の墓碑が泊山墓地公園にある。
明治44年の三滝橋
鳥羽、伏見の戦いで勝利した官軍は、撤退する旧幕府軍を追って江戸へ進軍する。大政奉還の密命を受けた“赤報隊”は、その先鋒隊として組織された。相楽総三は、1月9日西郷隆盛からの指示で、琵琶湖の湖東三山の一つ金剛輪寺で“官軍の御印”と“税(年貢)の軽減”を掲げて旗揚げする。
ところが“税(年貢)の軽減”に問題があった。官軍は軍資金として大阪の豪商(三井、鴻池ら)から300万両を受けていた手前、税の軽減は不可能として急遽“赤報隊”への帰還命令が出された。しかし、東海道を進んだ相良らの一番隊はこれを無視して進軍を続ける。結果、偽官軍として追討命令が出るに至った。新政府軍によって捕らえられた相良総三は、3月3日処刑されている。
水谷百碩“旧三滝川夕涼”明治以前(=旧)の夕涼みを楽しむのどかな様子
“赤報隊”は、およそ四隊に分かれていたが、そのうちの滋野井公寿の隊が桑名の晴雲寺の入った際に、伊勢長島藩に三千両の軍資金を強要したという、内紛とも謀略とも言われる争いに巻き込まれた。こうして、新政府の意向に反したとして、隊の中枢にあった数名が三滝川 川原で処刑された。
そのうちの小室左門26歳、綿引富蔵29歳の墓碑は、明治30年に子孫が、栄町の松月庵境内に建立したものを、現在は、泊山墓地に移されている。小室左門の碑の上には“水戸藩士”の字が刻まれている。
JR四日市駅前 北東方向に松月庵さんがある
“赤報隊”が、無頼の徒であったかどうかは分からないが、結成時には“官軍の御印”と“税(年貢)の軽減”を掲げて出発していたことは確かである。 四日市商工会議所刊 よっかいち歴史浪漫紀行 北野保著 より