辻俊文さんが昭和33年7月24日この場所で35ミリカメラを構えました
ここは、四日市の赤線地帯 港楽園です。子供たちと草野球を楽しむスナックのお姉さん方。
左に建つのは バー加茂。売春禁止法が施行されたのは、昭和33年4月1日のことでした。
どうしても思い出すのが昭和28年発行の名古屋タイムスの記事です。そこには、飲食店街へと賑わいをみせる諏訪のまちの様子が記録されていました。
諏訪連鎖街を昔は新田町といった。戦前、諏訪神社の境内だった土地に諏訪産業という会社が軍隊の払い下げの建物で建売りを始めたのが戦争直後(満州からの引き揚げ者用の住居と聞いた)、ボツボツ人も入り住んだが、一日で二人の通行人しかなかった日もあって最初に店を開いた人は泣いたそうだ。これが一期生。それから順次二期生、三期生、四期生となるころは今のような盛り場が出来上がった。それ以後は新入生と称するそうだ。現在(昭和28年当時)七十六軒、周辺は商店で真ん中の小道はノミヤが多く、客も社用族が多い。ホセとカルメンは同じ資本のバー、白菊、文楽はよくはやるノミヤ、特徴はヨルバイトをしないこと、だそうだ。街に立つ女もいないし、温泉マークも周辺にあるにはあるが青線的形態ではないらしい(つまり赤線地帯)。その方の御用は専らこちらと港楽園、春告園という特飲街がある。両方合わせて40軒、女を不当にサクシュするとかいうのでしばしば手入れをされたアブレ赤線業、行き詰まりの狭い路地のズラリと並んで、気の弱い男はとても近寄れない。ほかに諏訪公園前に待合という名の特飲店が数軒、その前にはカトリック教会があり図書館があり幼稚園があり、まことによき対照をなしている。すなわち図書館の窓から干し物が望まれたり、幼稚園の子供が区域へ迷い込んだり、しばしば問題が起こるゆえん、もともとカトリック教会があったのを無理に赤線が出来たものらしい(昭和30年頃までは教会と赤線が並立していた)。かつて、立ち退け、いや退かないでゴタゴタがあったそうだ。(文・川太郎)
売春禁止法施行以来、赤線地帯は、飲食店や待ち合い旅館へと変貌していきました、街の賑わいはそのままに・・・。