前回の文章を再掲載させていただく。
四日市の西方、常盤村あたりに源を発し、(現在四日市市立病院の建つ)芝田を流れ、やがて東海道は中浜田の東禅寺で北に折れ・・・
東禅寺裏手に現在も流れる阿瀬知川支流
江田町(えんだちょう)で久保田や堀木あたりから流れてきた支流と合流して東進・・・
湯の山街道が三滝川堤防に登る境、車の往来を横目に窪田神社がひっそりと建つ。
三滝川「石垣井堰」からの取水口
農業用水に供するため、三滝川に堰を造り、そこから左岸の野田側と右岸の久保田側に水を取り入れている。ここで取水した水は、窪田と柴田の田を灌漑している。この堰は「石垣井堰」と呼ばれ、河川改修に伴う井堰を造り替える工事が、平成12年から始まり、平成15年に完成した。現在久保田、野田の自治会が維持管理している。堰はゴム堰で、いわば風船を膨らませた形で川に堰を造り取水している。表面水、伏流水両方の水を取り入れているが、きれいな水が流れ込んでおり、上流部では源氏ボタルのえさにもなるカワニナが生息している。この川の流末は阿瀬知川になっている。 2005年 常盤のまちを考える会(取水口が出来たのは意外と新しかったのか?取水口が出来たので神社が造られたのかと思っていた)。
・・・東海道の阿瀬知川橋の下をくぐり、浜田地内(現 三栄町や幸町)を海に向かって流れる阿瀬知川がまだ畔地川と呼ばれていた昔、1600年代には、神明南で(現在の朝日町南)川は大きく曲がって北に向かい、四ツ谷地内では伊勢電鉄の線路に沿って北上し、四ツ谷の善光寺(関西線四日市駅の北)から新丁通りに沿い、ここで幅の広い入り江を形作っていた。ここの海岸は不動松原と呼ばれ不動寺があって・・・現在の不動寺
・・・境内には巨大な老松「燈篭松」がそびえていた。この不動松原の海岸こそ初代の四日市湊なのであった。
現在の阿瀬知川河口付近
阿瀬知川は、四日市の田畑を潤し、町に入って汚水を海へ流す役目を担っていた。
追記:下の地図は享保時代(1716~35)の四日市
川を水色に塗ってみた。三滝川(御滝川?三重川?)から取り入れたと推測される水は、諏訪神社、陣屋、不動寺を流れ海に至る。
阿瀬知川の水源が三滝川だったとは知りませんでした。
昭和20年代の終わり頃、錦町(現三栄町)から阿瀬知川を渡る橋はなんと石橋でした。
泥の川原では女の子らがママゴトのオカズにする為に蛭を獲っていました。(笑)
石橋??いわれてみますとそんな気が・・・
知り合いの職人さんが、浜田小学校へ通うのに 阿瀬知川をまたいで通ったお話を思い出しました。