花の四日市スワマエ商店街

表参道スワマエ商店街会長のひとり愚痴

貸本屋の時代⑦赤本時代

2024年08月31日 | レモン色の町

貸本漫画のルーツとなった“赤本漫画”とは如何なるものだったか?

忍術珍修行海賊退治

ビックリ小僧大騒動

読売新聞には「おとぎ話とポンチ絵の間の読み物」(明治45年)のこととある。“ポンチ絵”とは明治期に流行した風刺漫画のような1コマ漫画で、低俗なものとして見られていた。そのポンチ絵にストリーがついて薄い読み物となり、非正規ルートで流れたのが“赤本”だった。「淫靡な挑発的な甘いエサを提げて、公然と一般出版業者の縄張りに切り込んできた赤本屋」(読売新聞大正2年)「秋の夜長の縁日に売られる赤本屋」(読売新聞大正4年)と、主に大手出版社からは弾圧の対象とされていた。

敗戦直後の昭和23年9月11日付の読売新聞に「赤漫画を一掃するため『漫画表現規制』の懇談会が開かれることとなった」とある。巷にあふれる“赤漫画”は、「低級な荒唐無稽を描き、誇張と称えて絵にならない符号のごときものを並べ、「安原稿、安インク、安直安価」で販売されているとある。実際、出版社、著者、発行年月日が不明なのはまだましで、表紙と内容がまったく違っているというお粗末な本もあったそうだ。どぎつい赤インクで描かれた表紙の“赤漫画”は、GHQの目を逃れるように駄菓子屋や縁日で売られていた。

赤本漫画なるものが 如何なものか 作品の表紙から 想像いただけたと存じます

しかし、赤本漫画界は、質の悪い本ばかりを出している訳ではなかった。昭和22年、手塚治虫のデビュー作“冒険漫画物語 新宝島”は、コマ割りに映画の手法を取り入れ、赤本としては80万部のベストセラーとなっている。表紙を見るだけでも その完成度の高さが 伺い知れる

手塚治虫 作画 新宝島 

好きな曲 車でビギンの歌う曲を聞いて しんみりしました いろんな歌手がカバーしていますが、トワ・エ・モアも良いですね 高校生の頃を思い出すのです

BEGIN/空に星があるように (youtube.com)

空に星があるように  作詞/作曲:荒木一郎 編曲:海老原啓一郎 - YouTube

【荒木一郎氏:空に星があるように】トワ・エ・モア(白鳥英美子さん)の歌で聞く昭和の名曲:是非、概要欄もご覧ください。 (youtube.com)

荒木一郎・・空に星があるように - YouTube

                                                                                                                                     


貸本屋の時代⑥ 時代の終焉

2024年08月30日 | レモン色の町

文春文庫 ビジュアル版“幻の貸本マンガ大全集”より

巻末で、青林堂社長の長井勝一氏と、東考社社長である桜井昌一氏が対談している。

戦後のマンガ史を大きく括ると、昭和20年代の赤本マンガ、30年代の貸本マンガと月刊誌マンガ、40年代からの週刊誌マンガと言える。絵本とかぬり絵などの薄い本を赤本と呼ばれた。赤本の標準的ページ数が64ページ。しかし薄い赤本では読者が物足りなくなってきた。そこでページ数を増やすんですが、今度は単価が上がって売れない。こうして貸本が登場したと考えられます。昭和27年頃から、当初は古本を仕入れて貸していたのが、新刊を貸すようになって昭和30年頃関西地方を中心に急速に貸本屋の数が伸びます。すると発行部数が低下した赤本マンガが消滅してしまうんです。昭和31年頃には全国で貸本屋の数が3万軒になったと言われています。

貸本と言えば“影”とか“街”などの短編集ですが、なぜ作家ひとりの長編ではなかったかと言えば、当時は売れる作家がすくなかった。いても、なかなか描いてくれない。そこで短編でもいいからお願いします、となるわけです。それと当時は推理小説ブームでもあった。昭和31年、日の丸文庫が“影”を出して大ヒットします。手塚治虫は別格として、いわゆる劇画というものを作ったのは辰巳ヨシヒロであったと言っても良いと思う。その後、東京の劇画工房が立ち上がって さいとうたかお がすべてになった。白土三平も初めは“サスケ”で手塚治虫の影響を受けていたんです。

独自な形でいたのが、小島剛夕さん、平田弘史さん、水島新司さんです。小島剛夕さんの描くスピードは速かった。早いと絵が崩れるんですが、小島さんの絵は崩れなかったです。

当時の原画が残っていると良いんですが、再販(訂正:再版)なんて考えてなかったから、みんな切り抜いて読者にあげています。貸本は不衛生だし、内容も残酷だったのでPTAからは、悪書呼ばわりされて随分叩かれました。やがて大手の月間誌漫画時代から、“少年サンデー”や“少年マガジン”の週刊誌時代となり、貸本と貸本屋は時代から姿を消していくことになります。


貸本屋の時代⑤前谷惟光

2024年08月27日 | レモン色の町

戦後の焼土からの立ち上がりに“笑い”は、大切なものだった。貸本の世界でも“ユーモア作品”は珍重された。杉浦茂の“猿飛佐助”はひょうひょうとした画風で、亀の甲羅のように布団をかぶって一言。「寝るより楽は無かりけり」のセリフが忘れられない。

さて、前谷惟光の“ロボット三等兵”もよく読んだ。前谷惟光は大正6年生まれで、太平洋戦争で徴収され、ビルマ戦線では九死に一生を得ている。

路地で、板塀を背に 二人の男がアイスキャンディを売っている。一人の男がアイスを食べたくなった。売り物に手を付けると売り上げに響く。そこで持ち合わせの5円で、隣のキャンディを買い求める。と、それを見ていたもう一人が、あまりおいしそうだったので、手元にあった5円で、隣のキャンディ1本を買い求める。お互いが、こうして相手のキャンディを食べ尽くした。箱の中を見るとからっぽである。「さぞかし今日はよく売れた」と財布を見たら、一人は5円で、もう一人はゼロだった。バカバカしい笑いは、子供たちの心を平和にしてくれた。

 


貸本屋の時代④ つげ義春

2024年08月26日 | レモン色の町

貸本時代の“隣室の男”と“クロ”は、盗作と呼ぶに近い作品だった。

昭和31年“影”第1集 日の丸文庫発行に掲載の『隣室の男』松本正彦 画は、小学校時代に貸本屋で見た記憶が、確かにあった。懐かしい!

平和アパートに住む漫画家青年“堅戸”の隣室には、空襲で家族を亡くした“仁市”という男が一人で住んでいた。仁市は、クロという猫を飼っていた。ある日、アパート向かいの禿野という親父の部屋の金魚が、クロに襲われる。それを見つけた禿野は、クロを猟銃で撃ち殺してしまった。その日の午後、午睡をしていた禿野は猟銃の暴発で死んでしまう。青年“堅戸”は“仁市”を疑うが、実は、金魚鉢にあたった太陽の光がレンズの役目をして飾ってあった猟銃に焦点が合い暴発したという事だった。

松本正彦”隣室の男”昭和31年

そんなにうまいこと行くか?てなものだが、小学生の自分には充分納得ができた。実は、禿野の死因は脳溢血で、仁市は漫画家青年が思っているような悪ではなかったという落ちがつく訳だが、昭和34年、つげ義春が“迷路9”に掲載した『クロ』の雰囲気が 似ていた。

兄は、父親が可愛がっていた猫の“クロ”を、父親の猟銃で撃ち殺そうとする。怒った父親は、それがショックで脳溢血になり死ぬ。葬儀の晩、兄は暴れるクロを、父親の棺桶に入れて蓋をしてしまう。火葬場からの帰り、タクシーの前を走るクロの姿に、兄は化けて出たのだと恐怖する。実は、母親が秘かに棺桶から取り出したのだった。あきらかにつげ義春は、松本正彦の作品を参考にしている。

つげ義春”クロ”昭和34年

つげ義春は、作品“クロ”について投稿欄で答えている。ミステリー物からずれてしまったと認める作者は「こういうものしか描けなかった」と繰り返すばかりだったそうである。

生活の為に 膨大な作品を生み出さねばならなかった 貸し本時代の出来事だった


貸本屋の時代③水木しげる

2024年08月24日 | レモン色の町

高野慎三 著 「貸本屋とマンガの棚」ちくま文庫 より

昭和9年の成子坂商店街

新宿から青梅街道を西へ、嘗て“成子坂商店街”として下町の風情が残る商店街があった。高野氏は、その商店街の中央、五差路の処にあった貸本屋を訪れ、水木しげるの貸本屋時代のデビュー作“ロケットマン”を買い求めている。昭和33年2月25日兎月書房 発刊。128ページ立て巻頭の16ページはカラーとなっている。

ロケットマン 水木しげる 絵

スーパーマンもどきが登場し、空飛ぶ円盤が現われたりして皮肉とユーモアのSF作品である。ある日、夜空に月が二個出現する。上津戸(ウエット)博士は、その原因を究明するべく乗り出すが、世界征服をたくらむ怒雷(ドライ)博士に妨害され、海底に沈められてしまう。

一方、クラゲ状の怪物が海の中から登場。怒雷博士は、アメリカに怪物グラヤ退治を依頼するが、手ごわい相手に苦戦、そこへスーパーマンそっくりのロケットマンが登場、事件の解決にあたる。

さて、当時の雑誌には、巻末に“読者欄”があった。住所と氏名を実名で書いてあって、作者との交流の場であった。「そう云われれば、そんなのがあったなぁ」と記憶に残る方もあるだろう。

水木しげる氏は、貸本の巻末に“読者コーナー”を設け、真摯に読者からの対応にあったっている。

「河童の三平にルドンの絵がありましたが・・・」の私大生の質問に「小生の好きな画家は、シュール系の画家なら皆好きです」と答え「先生は、小松左京をどう思いますか?」の問いに「小松左京は、悪くはありませんが、タイムマシンを意味もなく使う作品は好きではありません」と書いている。また、4人の子供を持つ同世代の読者には「私はあなたのようなオトッアンに読んでいただきたいのです。小生も戦争に行って片手を無くしたオトッアンです。これからバリバリ描きますのでよろしく」(『猫姫様』)。

「流行に左右されないということは売れないということで、お化けばかりを描いていくには並大抵のことではありません。あなたのように努力を認めてくれる人もあるのですが、たいていの人は、アレ少し頭が変じゃないかくらいで通り過ぎるのです」(『ゴマスリ二等兵』)。「小生は子供の時から、絵とストーリーを描くのが好きでしたから大人になったらこんなもんやってみたいと思っていました。初一念を貫いたわけで、よく言えば筋金入りです。スジません」(『墓場鬼太郎 アホな男』)貸本業界にあって、水木しげるは傑出した存在であった。


貸本屋の時代 ②

2024年08月21日 | レモン色の町

浜田小学校前のエス書房は、おばさんが経営していて、棚には“影”や“街”・“刑事”等が並んでいた。探偵ものが多く、お兄さんの世界の覗くようでワクワクした、とおもう。店の奥にも陳列の部屋がったような気がする。さて、雪の山荘で密室殺人が起きる。部屋の暖炉は赤々と燃えていて、倒れている被害者の手から離れたコップは、窓の下にまで飛ばされ、水がこぼれていた。雪と暖炉とこぼれた水から、探偵は密室殺人を推理する。

犯人は窓から逃走した。窓は落としカギになっていて、鍵を上げたところへ窓際の雪を押し付けて外へ出た。暖炉の熱で雪は解け、解けた雪は窓の下に水たまりとなって残る。コップの処だ。

このみごとな推理にすっかり感心したぼくは、辻君の処へ披露しに出かけた。ところが辻君は、お昼寝の時間となってしまった。僕は辻君が起きるのを待ちながら、この殺人トリックのマンガをせっせと描いていた。貸本時代の漫画家に、つげ義春、水木しげる、白土三平、辰巳ヨシヒロ、佐藤まさあき氏らの名前が浮かぶ。漫画家の皆さんは若かったからか、画風が定まらなかった。白土三平や佐藤まさあきらのように、絵を見れば作家が分かるようになるまでは修業が要るんだなあと思ったものだ。

次の絵は、つげ義春氏が貸本時代に描いた作品である。

昭和39年「刑事」掲載 下町の唄より

昭和35年「Meilo4」に掲載 老人の背中より

昭和39年「刑事38」掲載 見知らぬ人々より

絵のタッチが定まっていないのがお分かりだろうか? 否、それだけ器用だったと言うことも出来るか?


貸本屋の時代

2024年08月20日 | レモン色の町

8月17日 GGしにあさんに 第10回をアップしていただいた。辻さんは子供好きである。諏訪のまちに集まる子供たちの姿を、たくさんの写真に残して行かれた。

(5) 「写真で見る昭和30年代四日市/当時の子供達/四日市を掘り起こし/第10回」 - YouTube

戦後の団塊の世代にとって、映画と漫画は娯楽の中では重要な位置を占めていた。

昭和20年代後期から「少年」「おもしろぶっく」などの月刊誌が隆盛を極める昭和30年代中期までは、貸本屋の時代があった。記憶する貸本屋は中部西小学校の校門から西へ、斜めの狭い路地にあった。昭和43年のゼンリン地図を見ると、川市さんの店舗になっていて貸本屋は無くなっている。

姉にたのまれて、マンガの本を返しに行った。浜田小学校の生徒だった私にとって、中部西小学校は校区外の土地だったから、すごく遠いところと感じられた。

もう1軒、これは浜田小学校の校門前にあった。43年の地図には“エス書房”とあった。佐藤さんが経営者ということになる。ここへは良く通った。後日記:佐藤宅イコールS書房だ。エス書房は単純な命名だった。

真ん中の台には赤帽や名札などの学校用品、駄菓子などが陳列してあり、まわりに貸本の棚があった。どんな本を借りて読んだかあまり記憶にないが、白土三平の“影丸伝”は首が飛んだり腕が落とされたりして、これは大人のマンガだなぁと思った。“影”や“街”の探偵もの短編集、前谷惟光の“ロボット三等兵”などが思い浮かぶ。放課後などは、学校帰りの子供で賑わった。


香具師の啖呵売

2024年08月14日 | レモン色の町

澤宮 優・文 平野恵理子・イラスト『昭和の消えた仕事図鑑』角川ソフィア文庫より

お祭りを盛り上げた“大ジメ師”をご覧になったことがありますか?

香具師(やし)、いわゆる大道商人のことである。香具師にもいろんな種類があって、物を並べて売るのを「三寸(さんずん)」、たたき売りのように口上を並べて売るのを「コロビ」と言う。中でも一番花形でありエース格なのは「大ジメ師」である。「シメ」とは客を集めるという意味で、人を集めて啖呵売りや大道芸を行う。

昭和初期まで、正月になると全国の大ジメ師が集まるコンクールが開かれ芸を競い、そこで金が取るようになると一人前として認められた。

如何に啖呵で客の購買心をあおり、如何に興味を引くか工夫をこらす大ジメ師と、値切る客との駆け引きは縁日の見どころであった。主に大ジメ師が売る商品は、リツ(法律書)、キンケン(統計表)、カリス(まじないの本)、ノウドク(処方、薬草の表)、ミンサイ(催眠術)、バンソロ(算盤熟練方)などである。彼らは天才的な漫談化でもあり、客を笑わせ、泣かせ、感心させ、その日に新聞記事まで向上の材料にして、決してその場から去らせることをしなかったそうです。

諏訪劇場の前にて 辻俊文氏撮影

四日市祭りになると諏訪神社の境内で啖呵売があった。面白くて時間の経つのを忘れて楽しんだ。販売商品は、軟膏が多かったが、時に万年筆もあった。当時万年筆は高級だったが、カバンの中から二束三文のように、束にして掻き出していたことを覚えている。町の子供は、決して買い求めることをしなかった。・・・と思う。

キックトックが楽しい。第4作のシナリオが出来たので参加者に配っている。皆さん喜んで出演していただけるのがうれしい。楽しんで作ることが、街の元気につながる…と思う。

https://www.tiktok.com/@counselor_syotengai?_t=8odJQQM3KJM&_r=1


街角メッセンジャー

2024年08月13日 | レモン色の町

澤宮 優・文 平野恵理子・イラスト『昭和の消えた仕事図鑑』角川ソフィア文庫より

“街角メッセンジャー”という仕事をご存じだろうか?

終戦直後の昭和20年代の前半、東京の新橋駅前に「よろず承り屋」が誕生した。家庭に電話は普及しておらず、公衆電話もほとんどなかった混迷の時代に、急用で相手に伝言したいとき、承り屋で手紙や伝言を渡すと、自転車で相手方に届けてくれた。この仕事を思いついたのは満州からの引き揚げ者だった。引き揚げ者の戦後の生活は厳しいものだった。開拓団として出国する時は多くの人に万歳!で見送られたが、敗戦となり命からがら帰国しても、多くの人々には、冷たい目で迎えられたのではなかったか?お金もない彼らが生き抜いてゆくためには、知恵をしぼり、誰もやっていない仕事をする必要があった。そんなひっ迫した状況から生まれたのが「街角メッセンジャー」だった。

新橋の「よろず承り屋」には賃借り自転車と机が置かれて、その上には封筒と便せんが置かれていた。公衆電話には人が列をなし、しかも回線が良くなかったので、なかなか相手に通じない。そんな時代をいち早くつかみ、電話代わり、電車代わりに利用されたのが“街角メッセンジャー”だった。料金は、3キロまで10円、2キロ増えるごとに10円増しになった。これで日収40~50円程。昭和24年の米1升の価格が143円だったから、決して良い賃金ではなかった。

メールやラインで簡単につながってしまう現代。必死になって連絡するすべを模索した当時に思いを馳せてみるのも如何でしょうか?言葉を伝えることの大切さを・・・。

只今、ティックトックの第4弾 企画中!世紀の傑作にご期待を!

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ひろ助ティックトック配信中

2024年08月10日 | ひろ助が巡る花の東海道

前回QRコードでご紹介のひろ助東海道 スマホに出現したQRコードを「どうやって見るんじゃい!」と自己反省いたしまして 下のアドレスをクリックいただけば ご覧いただけるよういたしました。

https://www.tiktok.com/@counselor_syotengai?_t=8odJQQM3KJM&_r=1

昨日も 第3回の撮影会が行われ 好調でございますので ぜひお楽しみください。

ボランティアガイドの村田三郎さんが、中日新聞に掲載されました。

昌栄橋北詰に立つ第1期の三右衛門像(想像図)

稲葉三右衛門