花の四日市スワマエ商店街

表参道スワマエ商店街会長のひとり愚痴

一枚の写真 その謎は?④

2024年11月29日 | レモン色の町

これは“いつ”“どこで”写された写真だろう???

大正ロマンを感じさせる1枚の古い写真。食堂の新規開店のようで、左奥、建築に携わったと思われる“建清木工所”からの花輪が届いている。少しゴージャスな雰囲気の店内。正面のポップには“余興ノ内 演劇 午後一時・四時・六時・十時”と表記してある。下の文字が読めると良いのだが?難しい。どこで?なにがあるのか?正面カウンターのガラスが外からの明かりで反射しているところから昼の間に撮られたようだ。カウンターにはビール瓶だけが並ぶ。この時代は氷を入れる冷蔵庫だったか?その前に並ぶ従業員の内、女給さんは10名近く、多い。正面テーブルに座るのがここの女将さんだろう。その後ろには親子連れやラフな姿の人々が座る。出されているのはビールだけ。柱時計は13時40分を指しているか?であればビールだけでも納得がいく。食事の意気配は全くなし!記念写真を撮るために配置されたのか?しかしである、左端のオッサンは ビールに口をつけている。金は払ったのか?隙を見て飲んでしまったのか?

ここは、国鉄富田浜駅を降りて海水浴場へ向かう途中に建つ“海浜ホテル霞(かすみ)洋館 新館大食堂”の様子だ。時は、昭和初期とある。駅から土産物店が並ぶ道を海方向、東へ進む。ここいら一帯は別荘地帯で、そのなかに霞洋館、三藤、福寿館などの宿泊施設や療養できる富田浜病院が並んでいた。

時は、昭和初期とあったが 次の写真には“明治45年5月 富田浜煙火大会記念”の消印が押されて“伊勢富田浜海水旅舎霞洋館 雪月花の間”となっていた。

明治末期から大正・昭和にかけて富田浜海水浴場を中心とする一帯の賑わいが想像できる。大正から昭和初期の間の、良い時代の、良い風景、だった。この写真は当時の雰囲気が、色濃く出ていて、私の大好きな写真の一枚でゴザイマス。

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一枚の写真 その謎は?③

2024年11月26日 | レモン色の町

これは“いつ”“どこで”写された写真だろう???

よくよく考えたら、この写真も水谷宜夫様からお借りしたものでした。感謝!

ヒント1.ホームの端から眺めた景色

ヒント2.遠方の車両に見覚えはありませんか?

ヒント3.右カーブする線路の先に見える大きな建物は?

答え、諏訪駅が健在だった昭和30年頃、ホームの端から西方向を撮った写真でした。諏訪駅を出た電車は、右へカーブをして名古屋方面へ向かいます。先にある大きな建物は天理教です。

これは諏訪駅ホームの写真。まっすぐ行くと菰野・湯の山方面のホーム。左は内部・八王子線のホーム。どちらも狭軌でしたから共通に使用できました。車両も同じです。

これは、私が勝手に描いた構内図です。共有されるスタート地点が曖昧でした。

湯の山行きの車両が待機しています。昭和31年の空撮でのその様子が伺えました。

不思議に思えたのは、その横に立つ“湯の山温泉口”の広告塔です。湯の山までは少し遠すぎるのではないかとも思いましたが、当時は関西方面まで知れ渡った“湯の山温泉”。“四日市が入り口です”と言い切っても過言ではなかったようですね。

 

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一枚の写真 その謎は?②

2024年11月25日 | レモン色の町

これは“いつ”“どこで”写された写真だろう???

水谷さんからお借りしました 陳謝!

※ 11月28日 図書館で調べたところ、四日市市の年表に 昭和39年2月19日 ロシア兵送還終了とありました。これはその時の写真ではないでしょうか?

消印は明治39年4月30日、前回掲載のロシア兵が高砂町港から艀(はしけ)に乗る写真と同日だろう。“相合橋俘虜通過ノ光景”となっていて、大勢のロシア兵が日本人に先導されて港へと向かっている。明治37年2月に対露宣戦を布告し、翌 明治38年9月に“日露講和条約調印”を行っている。資源の乏しい日本は何よりも短期決戦であった。四日市が受け入れたロシア兵は、明治38年8月から乗船帰国させているが、この写真の日付は39年4月となっているから、8月から翌年4月までの間の“冬”ということだろう。

相生橋の幅は二間くらいか?相生橋西詰の家屋の様子から道幅も狭そうだ。明治40年 関西鉄道が国営となり、東口の国鉄四日市駅が陸上交通の玄関口となった。明治43年、四日市市は、港の整備を進めるとともに、諏訪神社から国鉄四日市駅を通って湊までを結ぶ直線道路の諏訪新道を計画、海運と陸運を結ぶ四大事業に掛かった。ただ、国鉄四日市駅から相生橋までの十二間道路の完成は大正12年に遅れた。従って、当時は家屋の入り組んだ狭い道だったことも納得できる。

ところで、歩いて橋を渡るロシア兵さんは、百名以上いるではないか?“欧州館”以外にどこに宿泊していたのか。当時はまだ四日市駅が出来たばかりで駅前整備もこれからだったろう。ここの戦前の家並みを“旧四日市を語る会”の皆さんが調べてみえた。

これを見ると、本町通から一本北へ入ると旅館が目に付く。当然四日市の表玄関だったから商人宿は多くなるだろうが、ロシア人の捕虜さんはこの付近一帯に逗留していたのではないかと、勝手に考えてみた。

勝手の良い話でした!

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一枚の写真 その謎は? ①

2024年11月23日 | レモン色の町

これは“いつ”“どこ”で写された写真だろう???

本町まちかど博物館の水谷さんからお預かりした写真である。随分古そう。外人と思しき人々が列をなして小舟に乗り込む。それを監視するかのごとき様子で眺める人々。これは何時、何処で写された写真だろう???

明治37年9月の日露戦争に、日本は勝利した。この時、ロシア兵捕虜を四日市も受け入れている。以前、国鉄四日市駅前にあった“欧州館”にロシア兵が滞在していた写真を見たことがあった。市制80周年発行の“四日市のあゆみ”に、明治38年8月露国の捕虜を四日市港から乗船帰国させるとある。“とき”はこの頃である。

明治44年の四日市港

捕虜の日本における待遇は良かったと聞く。彼らは相生橋を渡り高砂町を通って税関前から艀(はしけ)に乗り、沖合に停泊の帰国船で帰った、その時の様子である。港の対岸、稲場町側からも眺める人が立つ。しかし服装から見ても8月ではない、これは遅い便だったのか。左のしゃれた建物は税関と思われる。気になるのは、この先中央に燈台が望めるはずだ。燈台は、稲葉三右衛門翁の築港事業が一段落した明治17年から二年後の明治19年に完成していた。明治44年の地図には燈台の印がある。何処へ行ったのか?中央に建つ小屋に隠れているのだろうか。

当時の燈台を掲載する。北側から撮られたもので、それほど大きくなかったのかもしれない。

現在の旧四日市港 左に稲葉翁の彰功碑が見える。その右が高砂町

 

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リアル稲葉翁伝 その5

2024年11月19日 | レモン色の町

<閑話休題> お金の換算は難しい。明治の1円が今のお金にしてどのくらいになるか?只し、生活事情が全く違うので、1円が2200円か3800円か6800円か2万円くらいの価値があるのか、ネットで調べても混迷の域は出ないのであります。

この絵の堤防は コの字型になっていて燈台が出来てないので年代が定まらない(燈台完成が明治19年、明治27年波止場竣工?)

明治17年5月5日、薫風翻る端午の節句。高砂町地先、荷上場前の広場で厳粛な落成式が挙行され、心ばかりの祝宴が張られ、四日市の知名人数百名が集まった。二間幅(約3.6メートル)百二十間(約217メートル)の防波堤、港内は水深九尺(2メートル70センチ)、埠頭周囲の延長は千二百尺(約363メートル)、埋立地の合計は一万四千坪(46200平米)、一次二次工事を合わせて二十万円(5億3千500万円?昭和31年時点で1円を2675円としているので、今はもっと高くなっているはずです)の大工事であった。<郷土秘話 港の出来るまで より>

工事現場に立つ稲葉翁 第一期事業の時か?

この二十万円を石原佳樹氏は明治期の県の土木費と比較してみえます。明治18年1年間の三重県土木費総歳出額は18万7418円でした。約1年分の土木費を使ったことになります。只、実際の工事に使われたお金は約6万7千円で全体の37%、残りは借入金の利息や裁判費用に使われています。

稲葉三右衛門翁は語ります「吾(われ)十万金ヲ費ヤシ而(しこう)シテ四日市ニ百万金ヲ利セシメハ、是レ四日市ニ九十万金ノ利ヲ余(あます)モノナリ」(私が10万金を使って、四日市が100万金の利益を得ることができれば、四日市に90万金の利益が出るのです)と。

昭和31年中央通りに立てられた稲葉翁像

しかし、実際に事業を起こすにはお金が必要でした。稲葉三右衛門は、金策に苦慮しました。稲場町と高砂町の地券を得ることでその土地を売ったり貸したりし、その利益で築港工事を進めています。また利用する船舶からの収益も見込んでいました。

ところが工事が始まると、次々に問題が発生し借入金が膨らみます。工事費だけではなく、利息や事業継続のための裁判などにも費用がかかりました。直線防波堤と稲場町、高砂町の埋立地で工事は終了しています。個人の事業としては、これが限界だったのでしょう。その後の工事は国・県・町による公共事業として進められていくことになります。

高砂町 旧四日市港に明治36年5月「稲葉三右衛門君 彰功碑(しょうこうひ)」が建てられましたが、

稲葉三右衛門君 彰功碑

その東側の埠頭突端に「波止改築記念碑」を見ることができます。四日市町が関西鉄道からの寄付を仰ぎ1500円で着工、明治27年4月に波止場は改築され曲線を描く防波堤が完成しました。

波止改築記念碑

しかし、四日市の築港事業は、先駆けとなった稲葉三右衛門氏の功績なしでは考えることができず、P.P.P.(パブリック・プライベート・パートナーシップ)という言葉どおり、公共事業を民間の資金や能力で補い実施した、稲葉翁はまさにその先覚者でありました。

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リアル稲葉翁伝 その4

2024年11月18日 | レモン色の町

明治8年三右衛門が金策に走る一方、県が築港事業を進めることとなります。県の岩村参事は、築港事業は公共事業であり、個人が行うべきではないという考えでした。彼のバックには従来からの廻船問屋の組織があったようです。

明治8年8月15日三右衛門は、高須村の実兄にあたる資産家の吉田耕平と、県に工事再開を願い出ます。稲場町と高砂町の地券(土地の証券)を戻してもらい、それを担保に10万円(現在に換算すると約2億2千万円位か?)の資金を集めるためでした。しかし、県はこの願いを却下したので、三右衛門は大阪高等裁判所に上訴することにしました。

伊勢暴動の図

明治9年12月政府の地租改正を不満とする伊勢暴動が起きます。松坂から端を発し北へ上って四日市を通過、愛知、岐阜へと広がっていきました。四日市では公共施設や富裕層の家屋が次々と焼き討ちにあいましたが、稲葉家は難を逃れています。この為、県に引き継がれていた築港事業は、一旦中止となります。

明治11年6月 築港事業が県と三右衛門との共同事業であることを理由に裁判所は、三右衛門に敗訴の判決を下します。しかし、将来 地券と借地料は三右衛門に渡されることが約束され、これで三右衛門は明治14年第二期の工事に取り掛かることができました。

この裁判期間中、三右衛門は仲介人(弁護士?)と不払いでトラブルを起こし、逆に訴えられたりしています。裁判に掛かった費用を巡って苦慮する日々が続いたのです。

稲葉町と高砂町の間に掘削された運河 遠くに蓬莱橋が望める(西向き)

明治12年、三右衛門は、県に工事再開を願って見積書を出しています。調整の末、県が引き継いだ三右衛門の費用4800円(1100万円位か?)を放棄することと、三右衛門の事業計画を大きく見直し県が指導することで国から許可が下り、明治14年5月第二期着工となりました。

この図面での防波堤は歪曲している

県と交わした約束では、突出波止場を除いた工事費8600円(約1900万円位?)を250日間で完成させるというもので、難航している直線に突き出た堤防部分は含まれていませんでした。こうしてみると県は、何とかして工事を進めようとする三右衛門の意向を尊重して将来の築港事業に繋げようとしているように感じます。

明治15年1月 第二期工事に150日の延長の御願いが出ていますが、6月の200日延長願いは受理されていません。波止場は曲線にまで至らず、高砂町南の石垣工事が終わって以降 大きな工事は行われませんでした。

現在の高砂町南側

明治17年5月 稲葉三右衛門はこの段階で築港工事を終了としています。

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リアル稲葉翁伝 その3

2024年11月17日 | レモン色の町

左上に燈台が立つ

明治6年3月12日(旧暦)午前10時より 巳高入新田(現:相生橋東詰)の浜洲で地鎮祭が行われましたが、ここには県令参事や廻船問屋の人々の姿はありませんでした。岩村県令は、港修築事業は個人が行うことではないという理由で、また、従来からあった廻船問屋は、新しく進出してきた三菱汽船と組む稲葉三右衛門に反していたからでした。起工式の後、工事は順調に進められましたが、突き出し波止場の工事が難航、莫大な費用が掛かるようになったため、半年で田中武右衛門が離脱しました。ここに明治6年、稲葉三右衛門らが提出した図面があります。百二十間突出した堤防は直線になっていますが、

図では 直線波止場長さ120間(約220メートル)とある

下の明治9年の図では、県の指導があったためか堤防の石積みが湾曲した形になっています。潮が干潮になった時をみて地固めと石積みを行う堤防の工事は、予想以上の時間と費用を擁しました。

石原佳樹著 四日市港ができるまで より

明治7年3月、一人で工事を続けてきた三右衛門は、資金が底を尽いて工事を中断します。そして資金集めに翻弄します。明治6年12月には社員になることを前提に農産会社に埋立て地の地券(土地の権利書のようなもの)を渡していますが、破談になっています。また、小野組と契約を結びましたが、小野組は経営難のため、その後に破産しています。この時、三右衛門は8000円(現在のお米の価格に換算すると約1800万円?)を借用していて、この借金は県が預かることとなりました。

こうして行き詰った築港事業は、県が引きつぎます。

そして明治8年、三右衛門は美濃の国 高須村の実兄 吉田耕平を頼って、稲場町と高砂町を担保に10万円(2億2千万円くらいかな?)を借りようとしています。結果は分かりませんが、県は認めていません。この時点では、三右衛門の土地であることが認められていなかった為でしょう。

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リアル稲葉翁伝その2

2024年11月16日 | レモン色の町

寛文年間(1661年~1673年)の四日市湊は、不動寺前にありました。船は阿瀬知川河口から大きく曲線を描き不動寺の灯篭を頼りに川を上ってきました。港には、船が停泊できる入江が不可欠でした。

寛文年間の四日市湊 中央左に不動松原がある

下の図は、稲葉三右衛門が美濃の国に生を受けた頃の天保時代の四日市港の図と、その下には、蛇行していた阿瀬知川を直線にし、巳高入新田と野寿田新田の間を掘削して新港入口にした図です。

天保時代の四日市湊

天保時代の阿瀬知川改修 後に昌栄新田(野寿田新田)は地盤沈下を起こす(石原佳樹著 四日市港ができるまで より)

ところが安政元年(1854年)に起きた安政伊賀地震をはじめ安政東海地震により四日市湊は大被害を受けます。昌栄新田(現在の尾上町)の堤防は決壊し海水が流れ込んで地盤沈下により埋没しました。土砂が流れ込んだ四日市港には大型船の停泊が難しくなってしまったのです。

明治5年 廻船問屋を営んでいた稲葉三右衛門は、同業の田中武右衛門と相談して、築港事業に乗り出すことになりました。

「私の考えでは、澪筋(船の通路)の先から600尺(約180メートル)の波除け堤防を造り、構内を浚渫した土砂で澪筋北側の寅高入新田(後の稲場町)と、南側の昌栄新田(後の高砂町と尾上町)の約2万坪近い埋立地を造りたいと思うておりますのや。それにはざっと7万両から8万両(現在の20億円くらいでしょうか?)がかかります。資金は、埋め立てた官有地と自分の土地の売却代金と、汽船から港湾利用料金を取って回したいと考えております」

明治5年11月、二人は県宛てに“四日市港波戸場建築燈明台再興之請願”を出し、即 許可を得ています。しかし、当時は明治政府が立ち上がったばかりで、税収を得るため地租改正を検案中。大蔵省は一個人が税を徴収することに許可を出しませんでした。

明治28年の四日市港 稲葉翁が埋め立てた稲葉町と高砂町 蓬莱橋と開栄橋も出来ていました 蔵町の文字の下あたりに廻船問屋 稲葉家があります

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リアル稲葉翁伝その1

2024年11月15日 | レモン色の町

明治21年10月5日 稲葉三右衛門に藍綬褒章が決定した。

夙(つと)ニ四日市港ノ壅塞(ようそく)ヲ憂ヒ力ヲ築港事業ニ尽シ海浜一万四千余坪ヲ開築シ溝渠(こうきょ)ヲ鑿(うが)チ漕輸ヲ通シ埠頭ヲ築テ船舶ニ便シ為メニ一家ノ私財ヲ傾タルニ至ㇽ其績方(そのいさおまさ)ニ顕(あら)ハル依(よっ)テ明治14年12月7日勅定(ちょくじょう)ノ藍綬褒章ヲ賜ヒ其善行ヲ表彰ス

明治28年の四日市港(四日市商業会議所)

また、明治36年5月8日 高砂町四日市港では「稲葉三右衛門君 彰功碑(しょうこうひ)」が、四日市十一日会、市議会、商業会議所の有志が発起人となり立てられ除幕式が行われた。

現在の彰功碑

時を経て昭和3年5月13日、市制施行30周年記念事業として、稲葉翁の銅像が昌栄橋畔に造られる。

昌栄橋北詰めに建つ稲葉翁像

 稲葉翁銅像除幕式頌歌(しょうか)

一.巌(いわお)の波路渡りくる

 文化の潮(うしお)せき入れし

 人のいさをに恵まれて

 いや栄えゆく四日市。

ニ.ねむる時世(ときよ)の朝明けに

 ひとり目ざめて町のため

 心をつくし澪(みお)つくし

 深くも樹(た)てし港神(みなとがみ)。

三.稲穂のゆかり名美(なぐわし)しき

 稲葉のきみが御姿(みすがた)を

 今ぞ仰(あお)ぎてかしこくも

 ささげまつらむ頌歌(たたえうた)。

ところがこの銅像は、太平洋戦争の折 供出される。

現在、中央通りに建つ稲葉三右衛門銅は、昭和31年に造られたもので、ここには次ように書かれたプレートがはめ込まれています。

 四日市の先覚者 三右衛門翁は天保8年岐阜県高須町生まれのちに中納屋の稲葉家をついだ 早くから四日市港の不備をうれい明治6年その修築に着手しあらゆる困苦にたえ巨大な私財を投じ同17年ついにこれを完成して四日市港発展の礎を築いた 功により明治21年藍綬褒章を賜った

明治2年翁の先見の明と不屈の精神をたたえ昌栄橋畔に建設したが太平洋戦争のため供出された

今回この再建にあたり17万市民の絶大な協賛によって四日市駅頭に再び翁の偉容を仰ぐことができた これは翁の遺徳によるとともに市民の喜びである

  昭和31年11月文化の日

PPP(パブリック・プライベート・パートナーシップ)という言葉があるそうだ。これは国や県で行う公共事業を民間の資金や能力を活用しようというもので、まさしく稲葉翁は、そのPPPの先覚者であった。しかし、莫大な費用を擁する港の開拓事業は一個人にとっては困難を極めた。

四日市市立図書館蔵

岩村佳樹著“四日市港ができるまで”文芸者刊 によると、まさしく“リアル稲葉翁”。稲葉右衛門の資金との戦いが掲載されていました。  つづく

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市長選に向けて

2024年11月13日 | おいらの商店街

本日の中日新聞三重版に 11月24日投票日の四日市市市長選の記事があった

今回の市長選では 工事が進められている中央通り再編と新図書館構想が焦点のひとつとなっている。森市長は 三重機械跡地周辺に新図書館を作りたい意向だが 過去の轍を踏まないためにも 進捗状況の情報開示は大切になりますか

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