諏訪公園西の道沿いから北方面に存在していた赤線地帯“春告園”の夜の様子です。
水たまりに 春告園 のネオンサインが映る
諏訪公園の南には屋台が並んでいましたが、
諏訪公園南の屋台
そこを外れて公園の角に差し掛かると薄暗くなった西側には赤線地帯が広がっていました。撮影はその角あたりから北西に向かって撮られたものです。四日市にはこの他に“港楽園”が西方向に広がっていて、夜の歓楽街として賑わっていました。昭和31年5月24日売春禁止法が施行されると、諏訪公園西一帯は、飲み屋、スナックや連れ込み旅館に変貌しました。辻さんが撮られたのは、施行直前の昭和30年頃だと思われます。
名古屋タイムス新聞のカット
何度も掲載しておりますが、諏訪のまちの成り立ちが良く分かる記事ですので、再々再 掲載いたします。
“聖なる教会”真ン向かい 紅い燈ともる特飲街 そのまた隣が幼稚園(昭和28年 名古屋タイムスより)
〇 諏訪連鎖街を昔は新田町といった。戦前、諏訪神社の境内だった土地に諏訪産業という会社が軍隊の払い下げの建物で建売りを始めた(満州引き揚げ者の共同住宅を移築)のが戦争直後、ボツボツ人も入り住んだが、一日で二人の通行人しかなかった日もあって最初に店を開いた人は泣いたそうだ。これが一期生。それから順次二期生、三期生、四期生となるころは今のような盛り場が出来上がった。それ以後は新入生と称するそうだ。現在(昭和28年当時)七十六軒、周辺は商店で真ん中の小道はノミヤが多く、客も社用族が多い。ホセとカルメンは同じ資本のバー、白菊、文楽はよくはやるノミヤ、特徴はヨルバイト(買春)をしないこと、だそうだ。街に立つ女もいないし、温泉マークも周辺にあるにはあるが青線的形態ではないらしい。その方の御用は専らこちらと港楽園、春告園という特飲街(赤線)がある。両方合わせて40軒、女を不当にサクシュするとかいうのでしばしば手入れをされたアブレ赤線業、行き詰まりの狭い路地のズラリと並んで、気の弱い男はとても近寄れない。ほかに諏訪公園前に待合という名の特飲店が数軒、その前にはカトリック教会があり図書館があり幼稚園があり、まことによき対照をなしている。すなわち図書館の窓から干し物が望まれたり、幼稚園の子供が区域へ迷い込んだり、しばしば問題が起こるゆえん、もともとカトリック教会があったのを無理に赤線が出来たものらしい(昭和30年頃までは教会と赤線が並立していた)。かつて、立ち退け、いや退かないでゴタゴタがあったそうだ。(文・川太郎、え・ワシズ泉夫)
K宅別邸跡地を 進駐軍が接収して 一時カトリック教会にしたものと思われ、下の写真では、昭和31年に整地されています。この空き地には その後 移動遊園地が来ていた記憶があります。ネオンがまぶしく夢のようでありました。
中日新聞による空撮
昭和31年当時