花の四日市スワマエ商店街

四日市の水谷仏具店です 譚

稚拙ブログベストテン 第8位は?

2025年03月05日 | わたくしごと、つまり個人的なこと

第8位は、ここに弥生館があった 2014.6.21 です。

2014年6月21日のブログ記事一覧-花の四日市スワマエ商店街

現在の弥生会館跡

ブログ「四日市市の映画館・消えた映画館の記憶」のサイトには、映画館の記録がよく調べてありました。

ここに弥生館のことが記録されています。大正14年以前には「弥生座」としてありましたが、昭和16年「弥生館」に改称されました。昭和43年の映画館名簿では経営者が鈴木啓吉、支配人が玉置義男、木造2階冷暖房付、定員614、東宝を上映とだけありました。少し物足りない感じです。

戦後の三和商店街

また、昭和21年(戦後すぐです)海山道広場に「松竹映画劇場」が新築開館したが、素人の経営だったために1年足らずで取り壊され、建物を国鉄四日市駅前に移築して三和マーケットとした。とあり、やはり三和商店街の建物は映画館が移されたものでした。

近年、取り壊される前の三和商店街

オカダヤ百貨店2階のニュース劇場は、昭和34年には「第一ニュース劇場」が、昭和37年には「オスカー劇場」になり昭和38年にはなくなっています。

昭和34年頃のオカダヤ

昭和31年6月4日、塩浜馳出町に「近畿劇場」が開館。木造平屋建、建坪162坪、定員354人。その後「近畿東映」に改称。昭和40年代にはパチンコ屋となった。

昭和34年開館した「桜座」は、松竹・大映・東宝・東映を上映。木造2階、定員462、邦画を上映。昭和53年には安田屋旅館となっている。と記録されています。

昭和41年水沢町に「四日市銀座クラブ劇場」が開館、木造1階、定員200、邦画・成人映画を上映していたようです。

元新町にオープンした「四日市パールシネマ・プラザシネマ」は、昭和61年12月24日から63年6月15日まで、経営者は新日進産業、鉄筋造2階、いずれも100席、いずれも邦画・洋画を上映。と書いてありました。

現在のパールシネマ跡

クリックしてご覧ください。よく調べてあります。

四日市市の映画館 - 消えた映画館の記憶


稚拙ブログベストテン 第10位・9位は?

2025年03月04日 | わたくしごと、つまり個人的なこと

当稚拙ブログを始めて、今年5月で20年になろうとしております。そこで、少し早いとは存じますが“花の四日市スワマエ商店街 ベストテン”を発表することにいたしました。いつの頃からか“人気記事”と云う項目がWebページの下方に出現。例えば“映画 赤線地帯 京マチ子の入浴シーン”などは、好事家の方がおられて、思い出した頃、頻繁にアクセスをしてみえました。

それでは、第10位と9位をご紹介します。

第10位 海老錠騒動記 2006.5.8

第10位の海老錠騒動記は、ブログを始めて間もない2006年5月8日の投稿である。それまでは海老錠の開け方を知らなかった。ネットに教えてもらった次第である。奈良、平安時代から受け継がれてきた錠前で、神さんの社に多く見られる。我々はつい、錠前を差し込んで回してしまう。素直に行う所作の大切さを、古(いにしえ)のひとは教えてくれているようです。下の文字をクリックしてください

2006年5月8日のブログ記事一覧-花の四日市スワマエ商店街

第9位 大河内伝次郎の丹下左膳余話 2008.1.2

第9位は、山中貞夫監督の丹下左膳余話  百万両の壺 は、昭和10年公開の作品です。山中貞夫は小津安二郎とも交流がありましたが、戦争により28歳という若さで亡くなっています。異色の丹下左膳で、芸者であり中山晋平の妻、喜代三や「アーノネのおっさん」と呼ばれた高勢実乗などを起用してユーモラスな左膳を登場させました。下の文字をクリック願います。

大河内伝次郎の丹下佐膳余話 - 花の四日市スワマエ商店街

アーノネのおっさん 高勢実乗

余談:昭和のまー君が3月2日にスワマエで演技を披露していただきました。街に賑わいを、9日にも来ていただけるそうです。感謝!

https://www.youtube.com/shorts/JdMIv9CRIHM


一枚の写真シーズン2 ⑭ どくろ仮面の回答

2025年03月02日 | レモン色の町

2025年2月16日のブログ記事一覧-花の四日市スワマエ商店街 月光仮面からの宿題!とは?

怪獣アゴンは四日市でロケをしていたと思われるシーンが多数あった。Kさんに「怪獣アゴン」をみせていただき確認した。それは何処だったか?

このシーンはKさんが学生時代に走り回っていた場所、大協石油正門であるに違いないと話された。

これは、正面に大協石油の煙突がみえるので、三滝川あたりで、堤防沿いに東向きに撮られたのだろう。

これが分からない。感じでは、日本板硝子の前を南向きに撮ったと思う。先日、車で走ってみたが、時代が経っているので、建物の様子はすっかり変わっている。

昭和43年お正月のテレビ放送

この風景は、昭和35年に日活映画「電光石火の男」の次のシーンに似てはいないだろうか?

昭和35年5月14日封切りの映画 どうやら曙町らしい?

8年ほどの隔たりを考慮に入れて・・・似ておりませんか。がっくり! Kさんの感想をお聞きしようと思っておりますが、まだ連絡が取れません。

さて次回は、私の過去のブログからベスト10を発表いたします。乞うご期待!


一枚の写真シーズン2 ⑱ 迎え撃つ秋草新太郎

2025年03月01日 | レモン色の町

辻俊文さんが昭和33年7月24日この場所で35ミリカメラを構えました

ここは、四日市の赤線地帯(訂正:数か月前までは赤線地帯でした) 港楽園です。子供たちと草野球を楽しむスナックのお姉さん方。

左に建つのは バー加茂。売春禁止法が施行されたのは、昭和33年4月1日のことでした。

どうしても思い出すのが昭和28年発行の名古屋タイムスの記事です。そこには、飲食店街へと賑わいをみせる諏訪のまちの様子が記録されていました。

諏訪連鎖街を昔は新田町といった。戦前、諏訪神社の境内だった土地に諏訪産業という会社が軍隊の払い下げの建物で建売りを始めたのが戦争直後(満州からの引き揚げ者用の住居と聞いた)、ボツボツ人も入り住んだが、一日で二人の通行人しかなかった日もあって最初に店を開いた人は泣いたそうだ。これが一期生。それから順次二期生、三期生、四期生となるころは今のような盛り場が出来上がった。それ以後は新入生と称するそうだ。現在(昭和28年当時)七十六軒、周辺は商店で真ん中の小道はノミヤが多く、客も社用族が多い。ホセとカルメンは同じ資本のバー、白菊、文楽はよくはやるノミヤ、特徴はヨルバイトをしないこと、だそうだ。街に立つ女もいないし、温泉マークも周辺にあるにはあるが青線的形態ではないらしい(つまり赤線地帯)。その方の御用は専らこちらと港楽園、春告園という特飲街がある。両方合わせて40軒、女を不当にサクシュするとかいうのでしばしば手入れをされたアブレ赤線業、行き詰まりの狭い路地のズラリと並んで、気の弱い男はとても近寄れない。ほかに諏訪公園前に待合という名の特飲店が数軒、その前にはカトリック教会があり図書館があり幼稚園があり、まことによき対照をなしている。すなわち図書館の窓から干し物が望まれたり、幼稚園の子供が区域へ迷い込んだり、しばしば問題が起こるゆえん、もともとカトリック教会があったのを無理に赤線が出来たものらしい(昭和30年頃までは教会と赤線が並立していた)。かつて、立ち退け、いや退かないでゴタゴタがあったそうだ。(文・川太郎)

売春禁止法施行以来、赤線地帯は、飲食店や待ち合い旅館へと変貌していきました、街の賑わいはそのままに・・・。


またまたまた又 閑話休題かいッ!

2025年02月28日 | レモン色の町

大変申し訳ありませんが 昭和のま~君の動画をご覧いただければ うれしいと感じる次第です 

Bing 動画

たった一度のご無理を どうかお聞きいただきますようにお願いいたします。かしこ


一枚の写真シーズン2 ⑱ 甲賀竜四郎の挑戦

2025年02月26日 | レモン色の町

甲賀13人衆・・・やったかなぁ?のひとり甲賀竜太郎からの問題でアリマス

さーて ここは何時頃のどーこか? ヒントは「バー加茂」・・・バー  カモン! エエッ!バカモンとちゃいまっせぃ


また閑話休題かいッ!

2025年02月25日 | おいらの商店街

先ほど、風船堂の佐藤君が 先日の東海道イベントのお礼に来られた。

子供さんに人気だったので、店頭で不定期でも良いのでやって欲しいとお願いしたら、二つ返事で了解をいただいた。

取敢えず 今度の日曜日開催!佐藤氏曰く「お客さんが集まらなかったら、いつでも止めます」とのことデシタ


一枚の写真シーズン2 ⑰ その時 七色仮面は答えた

2025年02月24日 | レモン色の町

垂坂山に立つ「遥拝の碑」のお答えです。出題の写真は、下総人様が富田のウエブサイトを見つけていただき、ここからの盗用であることを思い出しました。

当時、木々の茂りはなかったようです

遠足で出かけた垂坂山がきっかけとなり、壬申の乱へと広がりを見せてワクワクしながら思いを馳せた記憶があります。

発見!垂坂山遥拝の碑 - 花の四日市スワマエ商店街

壬申の乱とくるべ遺跡 - 花の四日市スワマエ商店街

壬申の乱とくるべ遺跡 ② - 花の四日市スワマエ商店街

徘徊する天武天皇 - 花の四日市スワマエ商店街

徘徊の謎は解けるのか? - 花の四日市スワマエ商店街  よろしければご覧ください。

さて、幼少の頃に風邪をひいたときはどうしたか?というお題です。

小さい頃は、しばしば風邪を引いた。病気で学校を休むなどとんでもないことで、家の陰から集団登校する友達を見送っていた。夕刻近くになると友達が学校の帰りに給食のパンを届けてくれた。

さて、風邪をひくと裏の早川薬局で“タウリンエキス”を買ってくる。箱にガラスの容器で6本ほど入っている。付属のハート形ヤスリで首のところを擦り、親指をかけてポンと割ったらストローで飲む。これが難しかった。風呂は休み。前の嶋口屋へ鍋を持参して素うどんを買ってくる。熱いうちにうどんを食べたら布団をかぶって寝る。熱が高い時には頭に氷嚢を乗せる。深夜、汗がどっと出たら「熱が下がった」と喜んでシャツを着替える。

やや重症の時。1号線沿いの角に川村薬局があった。店に入るとお爺さんが友達と碁を指していて、「熱があって、頭が痛くて、咳が出る」とお袋に言われた通りに告げると、お爺さんは名残惜しそうに碁盤を眺めながら調剤室へ入り、瓶から粉を取り出してはかりにかけて小さな紙に分けて積み分ける。大切に家に持って帰ると、さっそく粉薬をオブラートに包んで飲んだ。このオブラートがなかなかの曲者で、口へ入れてもたもたしていると破れて苦い薬が口中に広がる。こんな時は葛湯を作ってもらう。熱湯を入れないと透明にならない。砂糖を入れて完成だが、あまりおいしいとは思えなかった。

沖の島の森医院へも連れて行かれた。お袋の後をついて諏訪新道をタラタラ歩くと15分は掛かる。扉を開けて三和土で履物を脱ぐと、先客さんらの目が一斉にこちらを向く。小窓で受付を済ませ畳敷きの隅で熱を測って待つ。やがて来る注射が恐ろしくて神妙に待った。

前出の川村薬局の息子さんが、その後に川村医院を開設した。午後は往診に回ってくれた。“罹りつけ医”そのものである。先生の診断を思い出す。「なあ、風邪やろ?風邪やなぁ?風邪の薬だしとくわ!」

今や 川村先生も亡くなり、森医院跡地も駐車場になり面影はない。思えば、小さい頃はよく風邪をひいた。

 


閑話休題 イベントここは東海道

2025年02月23日 | レモン色の町

本日、ひろ助東海道と四日市東海道がコラボして東海道四日市のイベントが開かれました。

東海道沿いに巨大幕(富田 焼蛤・四日市 三重川・追分の鳥居・采女の杖突坂)と、北と南にひろ助東海道の計6枚を吊り下げていただき、郷土史家の前田憲司さんと小鈴さんに この浮世絵を見ながら説明をお聞きしました。

他に、風船堂の佐藤さん(久方ぶりです)や、りんご飴やベビーカステラ等の出店もあって、賑わったお諏訪さん市となりました。

大勢の方で東海道沿いはにぎわいました。北岡様、長谷川様、前田先生、佐藤様、堀木様その他、皆様のご協力のたまものでした。寒い中、本当にありがとうございました。


一枚の写真シーズン2 ⑰ コブラ仮面からの挑戦状

2025年02月22日 | レモン色の町

君はコブラ仮面を知っちょるか?では、挑戦状を受けたのは だれか?

ハハハハハッ これだけでも問題として充分じゃないか?諸君!

さて、お待ちかね 今日の問題じゃ

山の上ですね 由緒正しい山なんです これが・・ 

スビバセン 何処からの引用か 記憶があいまいです この中の大ぜいの皆さんの中には 今、老人となっておみえの方もご存命とお察し申し上げます。教えていただけるとありがたいのですが・・・

店頭に巨大行燈

巨大暖簾(ここは東街道:訂正 東海道)が下がります

エリアプラットホーム四日市さま、諏訪栄地区まちづくり協議会さま、四日市市商店街活性化イベント事業補助金さま、皆様のご尽力で巨大暖簾6枚と巨大行燈二基を、商店街東海道沿いに装飾していただきました。明2月23日は、東海道でのイベントを開いていただく予定でゴザイマス。おおきに おおきに