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表参道スワマエ商店街会長のひとり愚痴

椙山満氏の四日市湊物語①

2021年08月04日 | レモン色の町

椙山満先生は、毎回“四日市市史研究”に、興味深い投稿をされていた。もし御存命であれば、いろいろお話をお聞きしたかった。さて、今回は「四日市みなとについて」であります。

寛文年間(1661~1673)の、四日市湊の地図である。鴨長明(1155~1216)の伊勢記にこうある。

浜村というところを過ぎ侍りけるに「このほど朝気(あさけ)の郡(こほり)といふ。浜の行く先に見ゆるは、日永と人のいふ所なり」といふを聞きて詠める。

 行き侘(わ)びぬ いざ浜村に 立ち寄らむ 朝気過ぐるは日永なりけり

この浜村が、のちの浜田村になるところであり、海が近かったことを詠んでいる。

享保年間(1716ー36)の四日市町絵図(左位置の浜田村は描かれていない)

四日市の西方、常盤村あたりに源を発し、(現在四日市市立病院の建つ)芝田を流れ、やがて東海道は中浜田の東禅寺で北に折れ、江田町(えんだちょう)で久保田や堀木あたりから流れてきた支流と合流して東進、東海道の阿瀬知川橋の下をくぐり、浜田地内(現 三栄町や幸町)を海に向かって流れる阿瀬知川がまだ畔地川と呼ばれていた昔、1600年代には、神明南で(現在の朝日町南)川は大きく曲がって北に向かい、四ツ谷地内では伊勢電鉄の線路に沿って北上し、四ツ谷の善光寺(関西線四日市駅の北)から新丁通りに沿い、ここで幅の広い入り江を形作っていた。ここの海岸は不動松原と呼ばれ不動寺があって、境内には巨大な老松「燈篭松」がそびえていた。この不動松原の海岸こそ初代の四日市湊なのであった。

大正10年の不動寺 昔はこの松の下まで入江だった。龍の形をした松に灯明をつけて、燈台代わりにしたともいう(四日市の100年より)

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5 コメント

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Unknown (伊勢生まれの下総人)
2021-08-04 18:16:08
阿瀬知川が、むかしは畔地川ですか。
最初に掲げられた地図には三滝川が、多分、“御”滝川と書かれているように思えます。少なくとも“三”には見えません。
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御滝川? (タケオです)
2021-08-06 10:11:52
ありがとうございます
教えていただいて 享保時代の地図を見直しますと 字が半分隠れていますが“御滝川”とありました。
広重の浮世絵では 三重川になっています
さて、古い地図を調べてみますか ニャ
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教えて下さい (かるめん)
2021-08-20 10:52:27
娘が自由研究で阿瀬知川について調べています。
こちらの古地図はどこへ行けばみれますか?
教えて頂けるとありがたいです。
よろしくお願い致します。
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Unknown (かるめん)
2021-08-26 17:43:43
お返事ありがとうございます!博物館で見つけた本に載ってました。
また、何か有れば、ご連絡させて頂きますね。
お手数おかけしました。
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図書館 (タケオです)
2021-08-27 09:34:41
図書館の2階でも地図、資料を手入れることができます(マップは受付の向かって右側の引き出しで、お願いすれば1枚10円でコピーしていただけます)。
行かれたことがおありかも知れませんが・・・
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