戦後、道路が拡幅され最も賑やかになった諏訪新道。昭和28年と43年の店舗の並びを比べてみました。
昭和28年諏訪神社前
昭和43年神社前
昭和28年中央部
昭和43年中央部
昭和28年三滝通側
昭和43年三滝通側
戦後、道路が拡幅され最も賑やかになった諏訪新道。昭和28年と43年の店舗の並びを比べてみました。
昭和28年諏訪神社前
昭和43年神社前
昭和28年中央部
昭和43年中央部
昭和28年三滝通側
昭和43年三滝通側
往年の諏訪新道、昭和29年頃。
マップの右上を見ると、京町アーチ、サカエ屋本店、マルエイ、カトウ薬局と並んでいるのが分かる。
少し前の昭和26年。カトウ薬局東隣りに鈴木屋がある。向かい側右、ナゴヤ堂東に岡田屋が建つ。
昭和25年。愛汁屋(妙な屋号だ)喜代志肉店、トミナガ乳母車店、東京銀行と並ぶ。車道の区別がない。拡幅されて間もないころだろう。
昭和35年、日活映画、赤木圭一郎主演「電光石火の男」が封切られ、そのロケが、旧四日市港から本町、諏訪新道とあった。「へのへのもへじ」 のんきやのアーチ、道の南には、富士ホールパチンコ。
諏訪新道に広告放送塔が立っていた。昭和30年代の事で、名古屋タイムスにも「広告放送にぎやか」とある。諏訪新道西から、東京銀行四日市支店角(現 スワセントラルパーキング入り口)・タケコシカバン店前・東海銀行四日市支店西(現 三菱UFJ銀行)・羽田洋品店角そして百五銀行角の5か所である。※追記 1号線三重交通バス停角にもあった。計6か所
い勢屋の広告の向こうに郵便局
タケコシさん前の広告塔
この形の広告塔は当時、都市部にあったらしい。この写真は映画の宣伝である。稲垣浩監督「黒馬の團七」。昭和23年封切り、大河内傳次郎主演の東宝映画だ。場所は東京だろう?
戦争が終わって間もない雰囲気が出ている
これは、昭和25年の金融株式会社 光クラブの広告塔。垢抜けた雰囲気から、これも東京ではないかと思う。
これらは、ヨーロッパのデザインを真似たものと想像できる。映画「第三の男」に広告塔が出てくる。扉が開いて地下道へとつながる。諏訪新道を通るたびに、この下に秘密のアジトがあるのでは?と思っていた。
地下の下水へ
子供のころ読んだ漫画に「謎の広告塔」というのがあった。ピエロが人目を気にしながら地下通路へ入っていく。
ピエロの謎めいたイメージは、映画「透明人間」からきている。化粧を落として透明になっていくシーンは。当時、驚愕ものだったろう。
右側にもしゃれた広告塔らしきものが立っている
広告塔から考えてみれば、当時の諏訪新道は東京銀座並みの先進地であったのではないだろうか?
前回ご紹介した昭和28年7月12日発刊の名古屋タイムス“四日市新地図”より。風媒社様よりお送りいただいた資料、再再掲載です。
「望みは高し“水郷ベニス” このドブ川がいつの日か」より 諏訪新道が紹介してあります
銀行は七つ、商店街のところどころに新しい建物で威容を放っているが、商店街を分断する点で困ったものだと云っていた。郵便局は昔の兵舎のお古みたいなうらぶれた姿を道路に出っぱってさらし、完全に商店街を二つに区切って建っている。市役所に通じる大通りはまだ整備されていない。道の真ん中に約1間のドブ川が流れている。将来は三滝川の水を引き、ベニスのような水の都にするのだそうだ。このドブ川の上に映画のカンバンが一杯ある。地所代がほとんどいらないからだそうだ。何でも年に600円とか。セチがらい世の中ダネ。
右にボンネットバスが停まっている
諏訪新道は飲食店が少ない。客寄せの上からはミスだが、“うまいや”というのはヘノヘノモヘノの看板で宣伝に成功している。浅井というびっこのサンドイッチマンは浪花節狂、報酬なしで毎日エヘラヘラとサンドイッチマンをやっている。同じく大衆食堂舞子屋のサンドイッチマンも同類で女の恰好をして“日本一の美人”と張り紙をして歩き、二人とも町の人気者になっている。鈴木屋、岡田屋は洋品の大店、羽田も古い店、キャノンは1階カメラ、2階はちょいと気の利いた喫茶店。三重交通のバス乗り場の裏には松坂競輪の場外車券売場がある。ヨシズの下にヒゲ帽などをかむった大勢の若い男がごろごろしている。松坂からはレースのたびに放送する「イチバン」の「イ」にアクセントをおいた伊勢言葉である。
前に、四日市郵便局電話分室が何処にあったのか?という記事を書いた。
左、電話分挽局
四日市の100年に、四日市電話局 諏訪新道 昭和10年という写真が出ていた。「電話分挽局」と比べるとずいぶん立派な建物だ。
この建物が、新道通りの電話局か?
同じ四日市の100年。昭和18年町内ラジオ体操の写真。ここに電話局の建物を見つけた。ところが「子供も大人もひとつになって、町内の連帯感を強くした。電話局隣の空き地にて」と書いてあった。やはり電話局である。横の通りは諏訪新道 沖の島。川口理容館の看板が見える。
「旧四日市を語る 第十集」にこうあった。
旧四日市で新道といえば諏訪新道(辻といえば北町と南町の境の交差点というように)この新道には郵便局・電話局があった。電話局時代には南側と東側に大砲の玉を柱にして、それを鎖でつないだ柱があったが、金属回収で無くなった。その前あたりに川口床屋、その並びに『びんや』いわゆるガラス屋。そこが小林さんの家やった。
さて、空襲直後の郵便局。電話局の建物の配置を見て欲しい。外観は何とか保っているが、建物が二つあるように見える。これはナンだろか?
昭和29年には、現在の場所に電報・電話局として工事中です。
森さんからお預かりした写真。昭和41年8月の諏訪新道、港まつりの様子だ(再掲載)。港まつりは、商工会議所の”商品祭”で始まり、諏訪新道には多くの造り物や香具師が出て、賑やかな三日間だった。周辺の商店街も様々な造り物をして競った。祭りが近づくと晩御飯を食べた後、みんなが通りへ出て紙で人形などを作った。昭和30年代の事だ。伊勢湾台風以後、四日市祭りを吸収して”大四日市祭り”となった。
いちょうや、なかや家具店、東海銀行と並ぶ
右に三井銀行が建つ
午年にちなみ、の看板から歳が分かる。鈴木屋前
スワパーキングのところに三井銀行があった
※森さんの写真に、懐かしい建物があった。消防署だ。ここを見上げて中部中学校へ通った。左は税務署か?その間に高架化前の近鉄線が伸びているはずだ。これは、近鉄百貨店の屋上から北向きに撮った写真だろうか?
西(神社前)から、東(三滝通り)へ。名古屋タイムスさんの新聞記事である。再々掲載!非常に良く描けております。
一番東、郵便局の上は、中部東小学校です。
大塚衣料店前から諏訪新道に向かって撮られた写真。竹で編んだかごを持って立っている老人。糠に埋まった卵が入っているのか?国道の向こうに弥生館の看板。“ジャズ娘に栄光あれ”昭和33年1月29日封切り作品で、山本嘉次郎監督、浜村美智子、小泉 博出演となっている。看板の下には小林硝子店、マルセ靴店が並ぶ。歩道は未舗装である。
これより少し前の1号線舗装工事の様子。かどや呉服店前から南方向を望む。現在のスワセントラルパーキングのところに“三重交通観光社・バスのりば”があった。私のいとこは、東新町から四日市幼稚園に通うのにバスに乗ってきた。ここで降りて諏訪神社を横断して通ったそうだ。狭い角地に切符売り場があったような気がする。こんなところにバスがよくぞ停まったものだ。
現在
昭和30年頃の航空写真とマップ。よく見ると、神社前の地域だけが1号線拡幅工事が進んでない。地権者との立ち退き交渉がうまくいかなかったのか?
昭和31年~32年頃
昭和30年頃
空襲後の航空写真では、神社前の半円形の地域が最後まで頑張った。さて何かあったのか?近所の事ですので、聞いてみようかと思っています。
昭和21年~22年頃
空襲後の後片付けが進んでいる。何年頃か?焼け残った建物の屋根が、朝日にキラキラ輝いている。戦前の街並みが想像できる貴重な写真だ。
本町の水谷氏所有の絵葉書。“四日市市の今昔”樹林社刊より。解説にこうありました。
諏訪新道四日市郵便局電話分室前(沖の島町・大正14年)
大正14年、四日市郵便局電話分室が沖の島(現在の沖ノ島町)に新築移転した記念に撮影したものと思われる。明治40年に完成した諏訪新道が、四日市の賑わいの中心となる前の様子である。
ここはいったい何処でしょう?諏訪新道が完成して20年ほど経つわりには、この道は新しく狭い感じがします。
大正初期の地図には、諏訪町と沖ノ島間の道路沿いに郵便局のマークが見受けられます。
ところが、大正11年8月のマップ(上が西、右が北方向)を見ると、通りから北へ入った左側に“電話文挽局”とあります。写真の影から想像すると、昼前に北向きに撮った写真ではないでしょうか。区画整理の度に移動したと思われます。