花の四日市スワマエ商店街

四日市の水谷仏具店です 譚

閑話休題 熊沢製油本社

2020年10月12日 | レモン色の町

昭和43年当時の熊澤製油

下総人さんが幼少のころ住んでいた昌栄町の近くに、古い建物があるということで出かけた。

 

建物は大正3年に出来た熊沢製油本社である。煉瓦積みの上からセメントを塗った当時としては流行の建て方で、頑丈で空襲にも耐え、今日に残されている。2階建てでこじんまりしているが、大正時代の風格を今にとどめている。

熊沢製油の歴史は古い。

 

熊沢製油産業は、文政9年(1826)熊沢家が古くからエゴマの産地の現・一宮市に諸油問屋一川屋として個人創業された。明治初年までは東海地方周辺の綿実油、菜種油を中心に原油を加工、明治18年関東地方に出荷した。

明治39年3月に熊澤製油場(個人)も四日市に開設、新式水圧式搾油機を開発して量産化を図った。大正7年3月新たに熊沢製油()を設立、昭和17年3月改組して熊沢製油㈱を設立、同年ドイツのクルップ社製連続自動搾油機(エキスペラー)を輸入するとともに、改良搾油機を製作してわが国新式エキスペラーの先駆けとなった。どうやら熊澤一衛氏とは直接の関係はなさそうだ。

 

戦後の昭和天皇全国行幸の折には、熊沢製油と石原産業を視察されている。昭和43年7月味の素の傘下に入り熊沢製油産業㈱と改称、現在は味の素製品の受託加工を行っている。

 

現在、この熊澤製油本社は、味の素と熊澤製油が出資した㈱J-オイルミルズが「国際資源活用協会」を立ち上げて運営されている。

 

昨今は沙汰止みとなっているが、廃油で石鹸を作る教室などのエコ事業に取り組んでおり、愛・地球博や、四日市博物館、エキサイト四日市・バザールにも出展されたことがあるそうだ。館内を見るとタコ焼きやたい焼き、焼きそばの器具が並んでいた。コロナ禍の影響で、さっぱり出番もないとのこと、ここへは月数度、年配の方々が出勤している。この建物も維持が大変で、やがて壊される運命にあると話してみえた。

 


我が愛しの映画館⑧美空ひばりが来た夜

2020年10月11日 | レモン色の町

諏訪劇場(現在のローレルタワーシュロア四日市)の歴史は比較的新しい。ローカル映画館史 久保 仁著より

江田町(現 諏訪栄町)の近鉄諏訪駅のそばに「近畿館」が開館したのは昭和21年4月25日。東宝スター・佐伯秀男、光川京子の実演を興行、続いて舞台ものばかり公開していたが、4か月後の8月29日から「キャピタル劇場」と改め、アメリカ映画「呪ひの家」(昭和19年)を上映して洋画専門館となった。

しかしこれも23年秋に大改造、四日市映画演劇株式会社(代表 水野栄三郎)経営の「諏訪劇場」となり、県下最大の劇場となって大映作品と歌謡曲の実演では県下最高の興行収入をあげていた。県下では、津に開館した曙座と1位、2位を争っていた。

戦争直後から昭和33年にかけて、歌謡曲や軽演劇が映画館で併演され、これが大当たりとなった。戦争で大都市の劇場の多くが消失して芸能人が地方へ流出した。地方の人はあこがれのスターが目の前で見られるから劇場へ殺到する。芸能人たちは食糧難の都会を脱出して田舎でうまいものに舌鼓が打てるから、お互いに大うけとなった。田畑義夫、小田実、春日八郎、美空ひばりといった人気歌手が人気を呼び、1興行(1日3回上演)で3000人〜5000人という観客を集めた。

昭和32年4月27日諏訪劇場で「美空ひばり歌謡ショウ」があった

昭和37年「四日市東映」となる(この時点で経営者は、水谷豊助氏になったのか?)が、昭和43年2月に取り壊して跡地はジャスコが買収した。

 

写真は空襲直後の空撮である。米軍が写したものと推測されるが、この時にはすでに諏訪劇場が建っている。四日市空襲が昭和20年6月18日、終戦が8月15日、近畿館の開館が昭和21年4月だから、終戦直後に劇場が造られ、空撮は完成したばかりの21年4月以降ということになる。瓦礫の中に、いち早く諏訪劇と諏訪駅ができた。

<追記>

下総人さんからオート三輪の話がでた。「電光石火の男」のロケ地に止まっていたからだ。辻さんがこんな写真を残してみえた。メカニックな風貌のオート三輪だ。

 


我が愛しの映画館⑦東映

2020年10月10日 | レモン色の町

下図は“清張ミステリーと昭和30年代”から取らせていただいた。この表をみると全国で映画館数が最も多かったのは昭和35年の7457館になる。前年には国民一人当たり年12回映画を観に出かけている。ところが平成7年になると1776館に減っている。76%の劇場が消滅した。

大宅壮一氏は昭和33年レポートした『日本の企業』の中でこう書いている。昭和26年に三つの映画会社が合併して発足した東映が、発足当時と昭和32年とを比較すると資本金が11.7倍の21億円、収入が上半期同士の比較で7.3倍の35億3000万円、そして利益が同じく35倍の10億円にまで達し、その急成長ぶりは当時の企業の中でもナンバーワンであったという。当時のお金でである。

小学校時代は、映画といえば時代劇だった。中村錦之助や大川橋蔵ばかりでなく、大友柳太郎の丹下左膳や怪傑黒頭巾もの、伏見扇太郎のりりしい青年剣士もの、そして渋い片岡千恵蔵や市川歌右衛門の十八番シリーズなどさまざまな想いなどもそれにつれて即座によみがえってくる。

四日市の諏訪駅を降りて、狭い路地を抜けたところに諏訪劇場はあった。毎週土曜日の夜は、おやじの後をついて諏訪東映へ通った。

昭和43年の地図

スワ劇場の裏手に経営者である水谷氏の邸宅があった。昭和31年までは、オカダヤと助六寿司の間を八王子・内部線が通っていた。

 


新 図書館構想 進展か?

2020年10月09日 | おいらの商店街

11月29日の四日市市長選を踏まえて、森市長は次のステップに進める。

四日市諏訪商店街振興組合の取り組み状況は、ホームページ四日市諏訪商店街振興組合にて公開中でございます。尚、現在実施のアンケート調査では、皆様のご協力感謝しております。ありがとうございます。駅前は駅前の、諏訪地区は諏訪地区らしい均整の取れた街の発展を望んでおります。

<個人的追記>

下総人さんが以前住んでみえた末広町。すでに家の前は舗装がしてあったそうだ。前回ご紹介の「電光石火の男」がロケされた昭和34年頃は、まだ未舗装が多くあった。下の写真は辻さんが昭和33年6月11日に諏訪新道西の1号線を撮られたもの。湯気の立つアスファルトをローラーで押し慣らしていく方法でなく、セメントを敷く人海戦術だったことが分かる。

諏訪新道入り口角に三重交通のバス乗り場があった。


我が愛しの映画館⑥砂の器

2020年10月07日 | レモン色の町

「清張ミステリーと昭和30年代」藤井淑禎著 文春文庫より

殺された三木健一は生前、伊勢神宮参拝の後、帰る予定を変更して東京へ向かっている。昭和30年代当時は遠距離の移動は必ずと言っていいくらい夜行を使うが、三木の足跡をたどる今西刑事も朝、名古屋に着き、近鉄に乗り換えて伊勢に着いたのは10時頃だった。そして旅館の手がすく頃を見はからって三木が泊まった二見旅館を訪れた。その時の様子を聞くためである。

松本清張原作 映画『砂の器』より

今西栄太郎は、主人か、おかみさんが上がってくるのを、煙草を吸いながら待っていた。窓には屋根ばかりが広がっている。その中にひときは大きく見えるのが映画館だった。

何の変哲もない風景だが、それでも、いかにも昭和30年代らしい眺めではないだろうか。やはり、どこかハイカラでバタくさく、ちょっとノッポだったり、ワイドだったりする、あの映画館の建物だったのではないだろうか。何しろ乱暴に言ってしまえば1万人につき1館、つまり人口10万人の町なら10もの映画館があった時代なのだから。

この後、宿の女中さんから宿泊時の三木謙一の様子を聞いて、夕方映画を観に行ったことを聞かされる。

「退屈だから映画でも見てくる。映画館はどこかと聞かれたので、私が教えました。ほら、この窓から見えるでしょう。あの高い建物です」それは、さきほど今西が窓から覗いて、自分も見ている映画館だった。

 


我が愛しの映画館⑤キャスト

2020年10月06日 | レモン色の町

昭和35年5月14日公開の日活映画『拳銃無頼帖 電光石火の男』。その豪華キャストを紹介します。

刑務所帰りのヤクザ 丈二:赤木圭一郎

丈二の元恋人:若々しい浅丘ルリ子

大津組組長(善人?)大津仁作:菅井一郎「今が一番良い時かもしれないねぇ」(映画 麦秋より)

仁作の息子で 何故か刑事の大津昇:二谷英明

流れの歌手 ジーナ中川 「丈二が好き!」:白木マリ

殺し屋兼用心棒 丈二の宿敵:宍戸錠

ウェイトレス 節子:吉永小百合(この時は新人)

キャバレーの雇われ支配人 金:藤村有弘

踊り子:ホンニャラ ブルーマ???

何故かこういったケースが多かった。少しエッチな踊りや歌があったりして、その奥の事務所が悪の巣窟だった。

 

 

 

 


我が愛しの映画館④四日市の街

2020年10月04日 | レモン色の町

『電光石火の男』では、旧四日市港から西へ 四日市の市街地が活写されている。貴重な映像デアリマス。

高砂町から西へ、本町通り。第一銀行屋上から撮られたものか。

昭和43年のゼンリンマップ

右下の近鉄文化センターは、現在の本町プラザ。昭和35年頃は四日市警察署だった。出動!

諏訪新道では、のんきやさん前から東向きに。トラックの騒音が聞こえてきそうです。

マップではスギノトーキさんが記入漏れとなっている。

ロケハンは近畿日本 四日市駅前に来た。昭和35年だから、完成して数年しかたっていない。左に地下道の入り口が見える。まだ 車道と歩道が明確になっておらず、危険な状況だ。遠くに臨めるは松本山か?遠足で行った。

この後ロケハンは、御在所ロープウェイへ行く。完成して1周年を迎えている。

入口はまだ未舗装だ。バスから降りる観光客で大変な賑わいデアリマス。

さて、最後の大詰めで犯人を追いますが、ここがどこでロケされたものかわかりません。

トヤマ ゴールドジュース、ダイヤエースの看板。聞いたことが無い。

雪印バターとカルピスの看板。広い通り沿いにある店???

店の向こうに“命”の字が覗いている。「明治生命ビル」か?謎が深まるのでゴザイマス。

我が愛しの映画館 4回記念 解決編!

どこの場所かわかりました!国鉄駅前 中央道路沿いにあった「大森酒店」の角でした。ヒントは、『命』の看板と広い通りに並ぶ若い木々、そして、角の酒屋。

明治生命ビルではなく、東に建つ「朝日生命」でした。しかし、ダイヤエースの飲料ってのんでみたい気がします。

 

 


我が愛しの映画館③大津組の謎

2020年10月03日 | レモン色の町

刑務所に入っていた丈二(赤木圭一郎)が久しぶりに四日市へ帰って来た。大津組の辰吉は、親分(菅井一郎)の身代わりに刑務所入りしていたとは知らずに、丈二を組事務所へ案内する。

高砂町から相生橋を渡り、北へ折れると事務所だ。ところが妙なことに、その向こうを電車が走る。

この映像を観たとき、三重軌道の阿瀬知川駅付近でロケをされたものと判断した。明治・大正の頃、終点四日市駅へ入った三重軌道は、そこから南へ折れて阿瀬知川へ延びていた。ここで船と連絡していたのだ。

昭和43年マップ

現在の この位置になる

ロケハンの中に 四日市に詳しい御仁がいたことになる。その人はこう言った「四日市なら ぜひここでロケしてください!」。

現在である。港中学校跡は、温水プールになっている。左上に阿瀬知川駅がありました。嘗て関西鉄道の工場があったのは、住友電装のあたりでしょうか。」

 

 


我が愛しの映画館②電光石火の男

2020年10月02日 | レモン色の町

東宝映画 『拳銃無頼帖 電光石火の男』は、昭和35年5月14日に封切られている。ちなみに併映のフランキー堺主演『世界大戦争』は、昭和36年10月8日である。四日市ロケを行った『電光・・・』が再映か、どちらも再映かということになる。物語は、主演である赤木圭一郎が、名古屋の刑務所から国鉄で四日市へ帰ってくるところから始まる。列車はなんと、加太トンネルをくぐり、木曽川の鉄橋を渡る。ありえやんやろ!と言いたいところであるが、関西鉄道時代の二大難工事を監督は知っていて、是非、冒頭で紹介したかったのだろう。

貴重なのは、昭和35年当時の四日市が写されていることだ。デジタルリマスターされているから、画像もきれいで、つい数年前の様だ。

昭和43年の高砂町 右下が旧港で左下が相生橋

旧港でのロケ

高砂町を通り

相生橋を渡る テントシートの堀木商店が見える(つづく)