花の四日市スワマエ商店街

表参道スワマエ商店街会長のひとり愚痴

稲葉翁伝⑬ 日野 百日算

2021年09月13日 | レモン色の町

「この度、田中武右衛門さんとも相談しまして、いよいよ工事を始めたいと思いますんで、ご挨拶かたがた御指図を賜りたいとお伺いした次第です。」

処は、度会郡四日市支庁(中部西小学校の陣屋跡)の応接間。庭に大きな椋の木がある。武右衛門と三右衛門は、支庁長の浦田長民に前へ見取り図を広げた。

「これはこれは、なかなか立派なもんじゃなぁ。しかし難工事となろう・・・」

絵図面を熱心に眺めていた浦田支庁長は、何を思ったのか手を叩いて若い下僚を呼んだ。

「何時か井上親亮が提案した、築港工事の仕様見積書があったはずじゃ。持ってきてくれ。」

井上親亮はこの時、北海道開拓会頭取だったが、明治元年6月に港改築の仕様書を政府に出していた。天保12年西日野に生まれた井上は、若い頃 京都へ出て大亦墨隠に諸子百家を学び、最も算術に巧みであったが、京都の宇治茶を四郷村へ持ち込み製茶業を広げた人物でもある。慶応4年(明治元年)、再び京都へ出た井上は、通商局に勤め 四日市築港及び、鈴鹿郡広瀬野の開拓を建白したが入れられることはなかった。

「稲葉さんこの書類をお貸しします。さすが数学家の作成したものだけあって、必ずお役に立ちます。」浦田支庁長は、井上の作った仕様書を差し出した。

四郷郷土資料館(四日市) - いのりむし日記 (goo.ne.jp)

井上親亮は、明治2年3月、江戸へ出て税務局を務めている。この時、大村益次郎暗殺の一味、正義隊員金島一郎の助命を退けてその正義を認められたが、翌3年 北海道開拓団の頭取を命ぜられた。この年、四日市港へ鰊粕その他の魚肥を直接送っている。ところが、北海道の函館、大町、江刺、新潟の出張所を造ったが、台風による船舶破損で8万両の欠損を出し、大阪、敦賀の駐在員の不正を糺そうとしたため一味による毒殺に遭って、九死に一生を得て11年四日市に帰っている。彼は日野の珠算塾“伊勢百日算”の始祖となった。

「何万両もかかる大仕事じゃ。功名を妬む人も居よう。何時でも浦田の処へ相談に来てください。」

日野珠算学校/伊勢百日算:四郷地区にある名所旧跡 (yogou-mie.com)

<伊勢百日算 のこと>

明治維新後、政府は極端な欧化政策を執り、小学算術上でも筆算を重視し珠算を疎外した。井上親亮は珠算が日本の将来にとり欠くことのできないものとの信念に基づき、百日算共興学舎を設立して珠算教育に専念した。多数の門下生は経済界に活躍したほか、全国各地で珠算の指導にあたり、その普及と発展に尽力し、今日の珠算隆盛の基礎を築いた。ここに碑を建立して その功績を顕彰する

    昭和62年10月10日 社団法人 全国珠算教育連盟

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稲葉翁伝⑫ 田中武右衛門

2021年09月12日 | レモン色の町

「ねえ、徳田屋さん、あんたとは文久3年以来の長いお付き合いですが、三右衛門一世一代のお願いを聞いて下さらんか・・・」

此処は浜町、徳田屋こと田中武右衛門の奥座敷。時は明治4年正月、まだ松の内の七日。次第に更け行く夜の寒さに、主客二人が火鉢を囲んでの対談。三右衛門の言葉は次第に熱を帯びて真剣そのものだった。

Web日本財団図書館資料より 咸臨丸模型

荒神山に乱闘のあった慶応2年は時代が大きく変わる過渡期で、世の中は騒然としていた。11月14日に、幕府勘定所の御用船 咸臨丸が四日市に入港、鳥羽伏見で敗れた残兵を収容して翌3年正月7日江戸に引き上げている。慶応3年は明治と改元され、新政府の下で制度の改革が行われた。三右衛門は、稲葉姓を名乗ることを許され、太政官会計御用係や度会県から戸長を命ぜられるなど多忙な日々が続いた。

そうした中、3年10月 廻潤丸の廻航を見るに及んで、港湾修築の悲願を遂げるため田中武右衛門宅を訪れたのだった。田中武右衛門(ぶえもん)は神戸新町の生まれで養子として入り、浜町に廻船問屋 徳田屋を営んでいた。歳は50で三右衛門より15歳年上の分別盛りである。

「昨年、私は廻潤丸のお世話になり横浜を視察して、四日市湊を良くしたい願いに駆られました。しかし、なんせ大きな工事、一人の力ではどうにもなりません。そこで徳田屋さんのお力をお借りしたいと、こうしてお願いに参りましたんや。」

「あんたの気持ちはよう分かる。このままでは湊も破滅や。けど、この大仕事は天朝様のお力でするのが本筋やないか?」

「あんたのご意見はごもっともです。けど本庁は“忙しい”の一点張りです。」

「いったい改築工事には、どのくらいを見込んでますのや?」

「築堤と浚渫におおよそ7万両から8万両はかかると思うてます。」

「その費用を生み出す工夫は?」

「払下げを受けた官有地を埋め立てた土地の売却費と船からの運上費で賄いたいと・・・。」

「分かりました。私のようなものでもお力になれるなら。」との快諾を得ることが出来た。その後、二人連れで出歩く姿が見受けられるようになった。

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稲葉翁伝⑪ 正月風景

2021年09月11日 | レモン色の町

明治3年12月31日の暮れ六つ(日没の18時頃)、稲葉家では親族眷属が集まり祝いの膳につくのが恒例の行事だった。塩鰤(ぶり)のついた年越し料理に年越しそばが添えられていた。桑名では塩鮭、伊賀では飛魚、信州では塩鯖、京阪では棒鱈と地方により年越し肴は異なっていた。その席で、いよいよ取り掛かろうとしている築港工事の話がされている。寅高新田の埋め立てには百姓衆から苦情が出ないか、昌栄新田の水路はどうか、浜地で地引網をしている漁夫たちへの説得と心配事は尽きなかった。夜も更け不動寺か得願寺あたりで除夜の鐘が鳴った。

「あけまして、おめでとうございます」

「いや、おめでとう」

明けて明治4年1月元旦。冬晴れの良い日和であった。店の四方を拝した三右衛門は神仏にお灯明を入れ、家族揃ってお屠蘇にお雑煮の膳を囲んだ。元旦は菩提寺に参拝するのが常で、妻おたかと長男 甲太郎を伴って、中納屋の自宅を出、丸池筋から新丁を横切り下新町の曲がり角にあった得願寺の門をくぐった。現在の得願寺は、戦災で一切が灰燼と帰したため戦後復興都市計画事業の区画整理で墓地を泊山霊園に移しているが、当時は、本堂南側に約300坪の霊園があった。墓前に額ずき三右衛門は、嘉永4年11月に没した先代にむかって、事業が滞りなく進むようお願いをした。「私は、命を投げ出してでもこの四日市の湊をようしたいと決心をしました。お父さんも草葉の陰からお守りください。」

四日市の100年より

この後、諏訪神社へ向かいここでも決心の程を祈念している。当時の諏訪神社は、巨木が生い繁り社殿も立派で荘厳を極めていた。此処で妻子を家へ帰し、その足で南町の伝馬町に黒川彦右衛門を訪ね、北町の福生裕作方から、陣屋跡の渡会県庁四日市支庁、竪町、中町、蔵町の関係筋を回り、蔵町の船会所で新年の挨拶をして戻ったのは昼過ぎであった。

明治44年マップ

昼食を済ませた三右衛門は、川原町の実兄の処へ挨拶をかねて相談に出かけている。蔵町筋を上って、今の中部電力営業所の東にあった魚の棚を折れ、一面が田圃であった一本道を斜めに、八幡町の裏を通って、慈善橋の南へ出た。当時北条や八幡町を繋ぐ三滝川には一枚の板を並べた借り橋(訂正:仮橋)が架かっていただけで、東海道筋の三滝橋以外には橋はなかった。大雨で板が流されると。浜一色の嘉兵衛老人が、落橋毎に田船を運んで来ては、無料渡船を行っていたのを、浜一色 天聖院の住職 林 道永らが浄財を募って明治24年架橋して慈善橋と命名した。現在の慈善橋は少し東にずれている。八幡町から三滝橋を越えた北岸、今の新浜町から浜一色一帯は悉く泥田で北岸堤防の松原は、嘗て刑場に使用されたこともあり、駅馬の繋留場となっていた。そこから東海道沿いに出たところに実兄の山中伝四郎宅があった。

追記:以前、稚拙ブログで 伊勢のお正月料理を掲載させていただいたことを思い出した。

2017年9月23日のブログ記事一覧-花の四日市スワマエ商店街 (goo.ne.jp)

ご参考まで。

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稲葉翁伝⑩ 横浜視察

2021年09月10日 | レモン色の町

稲葉翁は、明治3年10月20日、廻潤丸の客となって、横浜見物の途につきました。船中では嘉納船長に、長谷川庄兵衛と共に描いた港の図面を見てもらっています。

「素人の測量ですし製図も不出来で、お恥ずかしい次第です。」三右衛門は謙遜して答える。秋晴れの小春日和、航海は一路平安無事に横浜港へ入った。横浜に本格的な築港工事が始まったのは、慶応3年の春からで、三右衛門が訪れた明治3年には第1期工事が完成する頃であった。翌日は船長の案内で港内をくまなく見物して回った。外国人はみんな意気揚々と自由に馬車を乗り入れていて、中国人は、中華街で大きな店を並べていた。ところが肝心の日本人は港から遠く離れた周辺に、小さな家を建て並べて、飲食店や土産物屋など、ささやかな店で細々と暮らしていた。

「どうです、稲葉さん横浜は。」

「いやぁ かんしんしました。だが船長さん、私が驚いたのは街の賑わいではありません。」

私が一番驚いたことは、横浜が全く外国人のものになっていて、日本人が隅の方に小さくなっていることです。私は決心がつきました。大神宮様のお膝元にある四日市港を外国人に渡してはなりません。

三右衛門は翌日から、和蘭技師のビールスの処に日参している。測量の方法、浚渫のやり方、防波堤の積み上げ方など、築港に必要な一切を教えてもらった。一番苦心したのは、石垣を固めるためのセメントが、当時はまだ輸入できなかったので、代用品をどうして作るかであった。

帰郷した三右衛門は、四日市の湊を眺めて長大息したが「私は横浜へ行って良かった。今に見ろ、このみすぼらしい港を、黒船が出入りできる立派なものに仕上げてやるぞ。」と独語した。 つづく   

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稲葉翁伝⑨安政の大地震

2021年09月08日 | レモン色の町

九十郎はその後、美濃高須へ帰ることもなく、稲葉家で仕事を手伝うようになった。数年の歳月が立ち、安政元年、九十郎は15才、おたかは8才を迎えていた。養母のおたいが亡くなったこの年から3年は、九十郎にとって終生忘れ得ぬ苦難の連続となる。

Web:

ニュースという物語 江戸大地震の図より

6月15日丑の上刻(午前1時)、四日市に大地を揺るがす大地震が襲った。それは、半時(1時間)ほど続いて、明け方にはあちこちから火の手があがり、その日の夜まで燃え続けた。焼失家屋62戸、倒壊371戸、半壊347戸、半壊大破(?)780戸、小破364戸、焼死68人、怪我で死んだ人87人、怪我人無数。他に陣屋は総潰れとなり10の寺院が焼けたり潰れたりした。稲葉家の被害は無く避難だけで済んだが、浜辺一帯の地盤が約2尺(60センチ)も沈下したので、内海護岸のかさ上げを急いだ。一旦治まったかに思えた11月4日再び地震に襲われ、この時は野寿田新田(昌栄新田)の堤防が大破した。

錦絵に見る安政大地震 消防防災博物館

翌 安政2年4月20日夜8時頃、今度は高潮が襲来して工事中の堤防を寸断、田畑一面に海水が流れ込んだ。この影響で8月15日、復興に心血を注いでいた養父三右衛門は、疲労困憊し帰らぬ人となった。九十郎19歳の時であった。続いて翌3年、美濃高須の実父 吉田詠甫も永眠する。九十郎は、店を切り回しながら堤防の修理に駆け回った。この時の体験が、後の築港工事に大きな示唆を与えたのは言うまでもない。九十郎は、同じ回船問屋仲間の田中武右衛門と共に浚渫工事を続けた。しかし、野寿田新田から次々と流れ出る土砂は水路を塞ぎ、四日市湊は、小回船すら航行し得ない状況だった。

悪いことばかりではなかった。元治元年、三右衛門(九十郎)は28才、おたかは20才の春を迎え、この年の暮れには長男 甲太郎が生まれた。

慶応2年4月8日の深夜、三右衛門の表戸をトントンと叩くものがあった。

2021年8月30日のブログ記事一覧-花の四日市スワマエ商店街 (goo.ne.jp)

へ続く・・・。

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稲葉翁伝⑧ 四日市湊へ 其の二

2021年09月07日 | レモン色の町

「これは これは吉田さん、お早いお着きでしたなぁ」中納屋の稲葉の店頭に現れた詠甫を出迎えたのは三右衛門(先代)だった。「おや 坊ちゃんですか、どうぞ どうぞ」と奥の八畳へ案内した。

「良いお日和ですなぁ 船ですか 陸でしたか?」

「ハイ 舟で参りました それも川舩で」

「へえ あの川舩で桑名から」

「この子に教えられましてなぁ 初めて川舩を四日市まで乗り入れました。たった今、あそこの北納屋河岸へ舩を繋がせてもらったばかりです」

三右衛門は、改めて九十郎の負けじ魂に輝く顔をマジマジと眺めて「そうでしたか そりゃ大手柄でしなぁ」三右衛門は快活で無邪気な九十郎に強く心をひかれた。

稲葉家には、7才になる一人娘のおたかが居た。九十郎は何度か稲葉家へ来るうちに、おたかと仲良しになり、実の妹のような感情を抱くようになった。

天保年間の四日市湊

ある日、おたかの手を引いて浜新橋(後の開栄橋)を渡り、地引網漁を見に行った帰り、橋に片足をかけようとしたおたかが、物につまづいて川に落ちてしまった。付近に居た大人たちが右往左往するのを尻目に、九十郎は着の身着のままで海中へ飛び込んだ。そこは幼いころから揖斐川の水で鍛えた九十郎であった。

「あゝ おたかが助かった。これも坊ちゃんのおかげや。ありがとう」母親のおたいは、心の底から九十郎に感謝した。

「私がついていて、嬢ちゃんをこんな目に合わせて、本当に申し訳がありません」

こんなことがあってから 九十郎とおたかの間は、一層親しいものになっていったし、両親も行く行くは家の養子にと考えるようになっていった。こうして九十郎は、回船問屋 稲葉三右衛門の家督を継ぐことになるのであった。

四日市湊付近風景 明治初年(四日市の100年より)

・・・って、この本、話が出来すぎではありませんか? マ、エエですか。生真面目な三右衛門様の名をけがしてはなりません。 つづく “郷土秘話 港の出来るまで”より

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稲葉翁伝⑦ 四日市湊へ 其の一

2021年09月06日 | レモン色の町

稲葉三右衛門は、幼名を九十郎と云い、美濃高須の旧家 吉田詠甫の六男として天保8年9月21日産声を上げた。詠甫は、商才に優れていたので、常に揖斐川を川舩で上下して桑名・四日市と往来して取引をしていた。

十里の渡し

嘉永3年3月下旬(旧暦)、肥料のニシン粕を仕入れるため30俵の米を積んで、14歳になった九十郎を伴い四日市へと向かった。多度山を中心とする連山は薄霞の中にボンヤリ浮かんでおり、揖斐川の両岸は、生い茂る葦の若芽を通して目路行く限り、菜種の花が一面に黄金の波を漂わせていた。

天保時代の四日市

揖斐川河口の住吉河岸に舩を繋いだ。ここで荷を積みかえ、伊勢湾内を航行する船で四日市へ向かう予定だったが、あいにく船は出払っていて、次の船までは2~3日待たねばならなかった。そこで九十郎はこの舩で四日市まで行けるのではと提案した。重い荷を積んで、横波を食らえば転覆しそうな舩だが、海は油を流したようで、波ひとつなかった。

「そりゃそうだが、どうじゃ与平、冒険やが一つ海へ乗り出してみるか」詠甫は、船頭の与平に云った。「負うた子に教えられて浅瀬を渡るタトエもある、九十郎の云う通り、一つやって見るか」舩は赤須賀浦に沿って、町屋川へ乗り出した。

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稲葉翁伝⑥ 荒神山 其の六

2021年09月05日 | レモン色の町

「おうそうだ、これ利助」三右衛門は、膝を叩いて云った。

「お前に頼んでおいた大野行の荷物はもう船へ積み込んだろうな、お前の船は確か茂左河岸(思案橋外)に繋いである筈やな、急ぎの荷物やから今夜にも船を出してくれ 船会所へは私から届けておくから、私はこれからお役所へ行ってくる、お前の方もはよう帰って支度をしてくれ。」

立ち上がる三右衛門の後ろ姿に利助と庄太夫は手を合わせた。これが奇縁となって明治9年の伊勢暴動の際、この庄太夫のために三右衛門が難を逃れた話しは後日に譲ろう。

2021年6月2日のブログ記事一覧-花の四日市スワマエ商店街 (goo.ne.jp)

仁吉一行は、磯津から漁船に乗ったという説と、大井の川の瓦屋 森与左衛門の持ち船に乗ったという説があるが、船会社の手形を持つ与左衛門説を肯定させていただいた。(なんや??利助の船と違うんかいな?)次回へ・・・

数日前、荒神山観音寺へ出かけた。門前の札に・・・

当寺は 寛治元年(1087年)4月 堀河天皇の時代に建てられたもので 真言宗御室派(おむろは)仁和寺(にんなじ)に属し 十一面観世音菩薩をお祭りしてあります 

往古は神事山と伝い 後ち高野山の一寺の名をとって荒神山と改めました 出羽の国湯殿山の行者 順海上人の異母姉に当たる三代将軍徳川家光の乳母春日局(かすがのつぼね)は 当寺に信仰厚く 正保四年(1647年)銘入りの釣り鐘と共に 五体の仏像を寄進されました

また 奥の院の三宝荒神は 春日局と順海上人が礼参りしたもので 暴悪治罰の神徳があらたかなため 勝運を祈願される方が多くみられます 慶応三年(1866年)4月8日 ばく徒の神戸の長吉と桑名の穴太徳が 縄張り位争いから 当寺裏山で死闘を尽くしたのが 後の世に「荒神山の血煙」と題した浪曲となって 当寺の名をいっそう広めることになりました     鈴鹿市観光協会

とある。階段を上がると、森閑とした境内の右側に梵鐘があり正面に本堂が建つ。

左へ逸れて奥へ進むと、本堂後ろに観音堂があり、

一番奥に“奥の院”が見えた。其処に陣取る穴太一家の姿が浮かんできそうだ。

此処の裏山で決戦が展開されたというが、裏は畑に、西は住宅地で開けている。

ふと見ると、奥の院の右、林の中に“仁吉の碑”が立っていた。ここの雰囲気は刀を持って走り回っていた仁吉の姿を彷彿とさせる。

仁吉の碑を後ろの林から撮る。右に奥の院

今も仁吉の碑は、奥の院の横で、静かに境内を眺めている。

荒神山観音寺前(南側)は貯水池になっているが、嘗てこの底にあった渓谷伝いに、行き来する穴太一家や取っ手の福田屋、梅屋の行列が浮かんでは消えた。

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稲葉翁伝⑤ 荒神山 其の五

2021年09月04日 | レモン色の町

仁吉が切られたのを見た穴太側は、反撃に移ろうとしたが、予め待ち伏せていた福田屋と梅屋の手の者がこれを阻止、そして、穴太方に付こうと来ていた信州の時次郎が、穴太の不徳に驚いて、一旦戻っていた庄野宿から清水一家の応援に馳せ付けたので、穴太一味は、椎山(加佐登神社と観音寺の間に位置する)に引き上げてしまった。仁吉は頸部の出血がひどく、間もなく釈迦堂前で絶命した。

観音寺の一番奥(北)に建つ奥の院

奥の院の右側に仁吉の碑が建っていた

長吉方は、仁吉の外に大瀬の半五郎、大野の鶴吉、広吉、鳥羽熊ら少数の軽傷者で済んだが、穴太方は死者六人、負傷者数十名に及んでいる。

仁吉の遺骸は、福田屋と梅屋の好意で、すぐに郷里の吉良へ運ぶよう指示してくれたので、夜に入って長吉と来合せた塩浜の吉五郎が道案内となり清水一家の32人が護衛して、荒神山裏手から鹿間を経て北小松へ出て、貝家から波木へ出て、室山に入り、東日野から松本南方の鹿化川堤防を大井川まで下り、浜街道から新丁の庄太夫方へ運び込まれた。

8日お昼の牛の刻<昼頃>から夕刻の六ッ時<暮れ六つ だから18時頃>まで争いがあり、その後荒神山を出発、夜遅くに稲葉家を訪ねた。仁吉の遺骸は、真っ暗な山道を大八車で運んだのか?強行軍だったと想像される。

改めてお断りしておく。この主人公は稲葉三右衛門なのである。

「・・・という訳で、旦那、まことにすみませんが回船問屋の稲葉様に船を一艘出してお貰い申したいんですが。」

「フーム なるほど ナルホド 成程なぁ。この頃は世間が物騒で役人の見回りも激しい。折角だが、そんな怪我人を乗せて夜分船を出させるわけにいかんが・・・ハテ困ったなぁ」三右衛門は、しばらく思案していたが、ポンと膝を叩いて・・・(ヒントは思案です)   つづく

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稲葉翁伝④ 荒神山 其の四

2021年09月03日 | レモン色の町

決戦荒神山 最終章②

加佐登神社西の椎山に立て籠る穴太徳(あのうとく)一味に対して、仁吉 長吉一行は即殺到せず、高塚山から右折、渓谷に沿って裏道に陣を張って様子を見た。

高塚はこの地図の左外になります。日本梱包運輸倉庫の上あたりか?

が、この時穴太徳ら十数名は、荒神山の釈迦堂前(今の奥の院)に移っていた。

釈迦堂(現 奥の院)

4月8日の正午近くに仁吉長吉は大政小政ら清水一家の者を引連れ釈迦堂へ乗り込み、穴太徳に談判したが(最後まで説得しようとしている。殺し合いを避けたいのか?仁吉側を正義としたいのか?)埒が明かないので、短気な小政が矢庭に穴太徳に迫り、刀を抜いて子分数名を切りつけた。これがきっかけとなり大乱闘の火ぶたが切って落とされた。

観音寺表門(左)の斜面。現在は溜め池となっている

穴太徳は椎山で指揮をとり、角井門之助ら浪人三人を含む総勢430人は、巡街道を一路西へ突進し、長吉方100人は仁吉を大将に、観音寺表門の斜面には御用聞きの福田屋勘之介・梅屋栄蔵の手の者150人が待機していたので、荒神山の裏手から巡礼街道殺到し、荒神山の境内裏手で両軍が衝突した。

角井門之助と仁吉

仁吉らは、敵の先頭と渡り合った。この時最も目覚ましく暴れまわったのが法印大五郎で、向こう鉢巻き素っ裸になって松の丸太を振り回し、片っ端からなぎ倒したと伝えられている。タジタジとなって退く穴太一家に、奥の院から100メートルほど東の山田井(灌漑用水が出ている処)に潜んでいた大政ら約10名が竹槍、鉄砲を持って喊声を上げて横から攻め込んだ(鉄砲は卑怯!といいたいが、仁吉側も鉄砲を持っていたようである)

この時、退く敵を追う仁吉が、樹上に隠れていた敵の鉄砲に左大腿部への貫通銃創を受け、よろめいた処を居合わせた角井門之助に、後ろから頸部へ深く一刀を浴びせられた。

遠くで戦っていた大政が一目散に走り寄って門之助に槍を突いて仇を討った。穴太側の頭らも小政、法印大五郎、桶屋の鬼吉らに倒され(死者は意外に少ない。映画のようにはならない)、数十名の負傷者を出したので総崩れの気配となったが、長吉側も、大将の仁吉が倒れたので追撃をやめて境内に戻った。 (血煙荒神山は終息へ つづく ってなかなか終わりまへん!)

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