花の四日市スワマエ商店街

四日市の水谷仏具店です 譚

12日付 中日新聞北勢版より

2021年11月13日 | おいらの商店街

“コロナに負けるな!”森市長!

プランから実行へ!Go!  駅前図書館も Go!

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イベント 四日市漫歩マップ

2021年11月10日 | おいらの商店街

11月27日(土)・28日(日)の両日 スワマエ商店街で“「こみちびらき」と題してイベントを実施します。持続可能なイベントの試みであります。

四日市漫歩マップとして 掲載中の昔日の四日市を パネルで通りに掲示しようと製作中です。ブログの画面で見るのではなく 説明付きのパネルでご覧ください。お越しいただける方は是非ドーゾ

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四日市漫歩マップ 四日市空襲Ⅱ

2021年11月09日 | レモン色の町

“四日市に戦争があった”四日市空襲を語りつぐ会 編(四日市空襲のパート2です)

空襲の日から「やけだされっ子」の名前が付き、空襲を受けた子、受けない子の差はあらゆるものに出てきていました。その度に、くやしさ、悲しさのこみ上げる毎日の繰り返しでしたが、それでも夜となれば、間借りの部屋で、家族全員が顔をそろえた時は、いささかの笑いも漏れるようになり、とにかく命拾いしたことの実感が満ち満ちていたように思われます。(中略)一言に云い尽くせない戦後の数年間が私たちに与えた代償は、あまりにも大きかったと思います。むさぼりたいほどの欲求を必死に抑えて流されず来たような期間でした。ほんのわずかでも気力を緩めようものなら、たちまち心の中までも貧しくなり、醜くなり、転落していった人たちも多かったと後で聞かされました。(K子さん 当時 三和町 国民学校4年生)

戦傷者にとって「あまり語りたくない、思い出したくない」と思っていても、自分の躰を見ていると奇異な視線やいじめなどつらかったことなどを思い出さずにはいられません。(K子さんは7歳の時、油脂焼夷弾を受け全身やけどとなって気を失いました)異変に気付いた母は、防火用水の水を何度もかけてくれたようです。頭から背中に流れる水がとても冷たかったことを覚えています。母は人づてに類焼を免れた病院のあることを知り、近所の人に手伝ってもらって病院へ行きました。夏に向けての生活は地獄のような毎日でした。朝、治療してもらっても、昼頃には、傷口にウジ虫が入り込もうとしてチクチク痛く、生死の境目をさまようことが何度もありました。戦傷者にとって誰もが背負う日々の苦しみや、人の視線が体の傷に向けられることの心の傷みは、今日まで続いています。いま私の手足があるのは、医師から両手足の切断を宣告された時に、強い意志と信念で手厚い看護をしてくれた母のお陰だと感謝せねばなりません。(当時 7歳 栄町)

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四日市漫歩マップ㉒崇顕寺と丹羽文雄

2021年11月08日 | レモン色の町

昭和32年発刊の“週刊朝日”で、浦松佐美太郎著“日本拝見 四日市”として丹羽文雄のことが書かれていました。再掲載です。

大正11年の地図 この頃は田畑が広がる

丹羽文雄が小説家になることを決心して生家の寺(崇顕寺)を家出したのは、昭和7年のことである。4月10日の夜10時ごろ、それまで用意しておいた行李(こうり)を持って、こっそり家を出た。菜の花が一面に咲いている畑の間を通って駅へ運んだ。そして翌日の汽車で家出をしてしまった。

昭和7年の航空写真

数年で 家屋が並び始めている 

俯瞰図が間違っていました。ここに訂正させていただきます。青い線が鉄道です

その寺は、彼の言うところによれば「四日市の南のはずれにある」ということになっている。だが現在(昭和32年)では、近鉄駅前の70メートル道路のすぐわきなのだ。国鉄の駅に行く間に、一面の菜の花まで見られようわけもない。家、家、家のつながりであり、その間を貫いているものは、中心街になることを予想されている大道路である。

鵜の森公園の碑

鵜の森公園の片隅に立つ丹羽文雄の碑“古里は 菜の花もあり 父の顔”

崇顕寺旧東海道沿いの入口

1号線を背に幼稚園がある

 

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四日市漫歩マップ㉑赤報隊

2021年11月07日 | レモン色の町

慶応4年(明治元年)正月27日、“赤報隊”の数人が、三滝川の川原で処刑された。そのうち二人の墓碑が泊山墓地公園にある。

明治44年の三滝橋

鳥羽、伏見の戦いで勝利した官軍は、撤退する旧幕府軍を追って江戸へ進軍する。大政奉還の密命を受けた“赤報隊”は、その先鋒隊として組織された。相楽総三は、1月9日西郷隆盛からの指示で、琵琶湖の湖東三山の一つ金剛輪寺で“官軍の御印”と“税(年貢)の軽減”を掲げて旗揚げする。

ところが“税(年貢)の軽減”に問題があった。官軍は軍資金として大阪の豪商(三井、鴻池ら)から300万両を受けていた手前、税の軽減は不可能として急遽“赤報隊”への帰還命令が出された。しかし、東海道を進んだ相良らの一番隊はこれを無視して進軍を続ける。結果、偽官軍として追討命令が出るに至った。新政府軍によって捕らえられた相良総三は、3月3日処刑されている。

水谷百碩“旧三滝川夕涼”明治以前(=旧)の夕涼みを楽しむのどかな様子

“赤報隊”は、およそ四隊に分かれていたが、そのうちの滋野井公寿の隊が桑名の晴雲寺の入った際に、伊勢長島藩に三千両の軍資金を強要したという、内紛とも謀略とも言われる争いに巻き込まれた。こうして、新政府の意向に反したとして、隊の中枢にあった数名が三滝川 川原で処刑された。

そのうちの小室左門26歳、綿引富蔵29歳の墓碑は、明治30年に子孫が、栄町の松月庵境内に建立したものを、現在は、泊山墓地に移されている。小室左門の碑の上には“水戸藩士”の字が刻まれている。

JR四日市駅前 北東方向に松月庵さんがある

“赤報隊”が、無頼の徒であったかどうかは分からないが、結成時には“官軍の御印”と“税(年貢)の軽減”を掲げて出発していたことは確かである。 四日市商工会議所刊 よっかいち歴史浪漫紀行 北野保著 より

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四日市漫歩マップ⑳諏訪公園

2021年11月06日 | レモン色の町

四日市市史研究 第11号 “諏訪公園むかしといま”椙山 満 より

町の中心部にあり、東海道に面して建つ“諏訪神社”。境内の広さが、明治3年までは1088坪あった。明治38年の日露戦争の戦勝記念として神社裏の田圃を埋め立てて公園が開設され、詔勅「能く国家の光栄を無彊(むきょう)に保ち」から因んで“保光苑”と名付けられた。当初は1206坪の神社所属の公園であったが、明治41年四日市市有に変更された。

保光苑

市は、社殿裏の池を改築して畔に藤棚を設けて憩いの場とした。大正3年、天皇御大典記念として1355坪に拡張して“諏訪公園”と改称し、同時に市立図書館と演武場(戦後 四日市幼稚園)、小動物園、鳥の家が次々と設けられていった。

旧図書館

旧図書館 閲覧室の様子

池は北から南への細長い泉水で、北端の池の中に円形の島があり、そこには神社境内の堀川に立つ燈篭と同じものが据えられていた。市は池の周りを石垣積みにして琵琶湖を模した。池から流れ出る水は、石橋の下を細くなって南下し、伊勢電鉄 諏訪駅ホームの下を斜めにくぐりぬけて、浜田で阿瀬知川に流れ込んでいた。

図書館手前に燈篭が立つ

昭和になってこの池の北端に円形のドームがつくられ、楽しそうに浮かぶ鴛鴦(おしどり)と一緒に一羽の哀れな鶴が居た。金網から餌を貰おうと出したくちばしの上半分を、誰かが鋸で切り落としたのである。深い餌壺からしか食べられない鶴がその後どうやって生きていったものか、私が中学生の頃の諏訪公園での最も痛々しい思い出となった。

昭和4年 伊勢電鉄は、津新町から諏訪駅を通過して桑名まで開通、社長の熊澤一衛は昭和天皇御大典記念事業として最新式鉄筋コンクリート建ての図書館を、諏訪公園の木造図書館 南側に図書二千冊と共に寄贈した。玄関頭上に皇紀2588年と浮彫りの59.6坪の堂々たる建物で、階下は閲覧室と書庫 事務室、階上は講堂、控室、貴賓室になっており、新館と木造の旧館は渡り廊下で繋がれており、旧館は小学生、新館はそれ以上の学生や一般人が利用していた。

現在 南部丘陵公園に移設されている市民壇

昭和9年、地元の実業家 村山清八により公園西側に市民壇というステージが建設された。市の中心部に公会堂のなかった時代(公会堂は千歳町に建設されている)の文化行事や催物の野外ステージに使われたが、特に目立ったのは、昭和11年、千歳町埋立地で開催された“国産振興四日市大博覧会”の期間中 夜7時から9時まで、県下各地の芸妓舞踊や郷土芸能が披露され(昼は博覧会会場で演じられていた)、市民と共に、市内に滞在する外来客の慰安に供しました。(市民壇の目的は、千歳町の公会堂を意識して建てられたのでしょうか?夜の賑わいから博覧会への期待が高まったことでしょう)

現在の諏訪公園(池のあったところ)

9月の神社祭礼とお正月松の内は、公園の西角にサーカスや見世物がかかり、アセチレンガスの灯火ともる夜店が並んで子供たちをウキウキさせたり、5月の陽光さす藤棚の下で、池の花しょうぶを描く授業があったり、夏休みには市民壇でラジオ体操が開かれるなど、遠い思い出となった。

昭和5年 岡野繁松氏作成

昭和19年が暮れ、日本本土に空襲が激化し始めると諏訪公園西側の松林の下に防空壕が幾つも掘られた。昭和20年6月18日払暁、焼夷弾の雨が四日市に降り注ぎ防空壕に非難した殆どの人が亡くなった。神社も公園も焼け落ちたが、図書館の建物だけは戦火をまぬがれ、直ちに市民病院の外来診療所として活動を開始し、公園西の旧津田病院跡地に、木造の市民病院が開院する昭和24年まで、四日市市民の医療はすべてここで行われた。

お正月と9月の催事は、戦後も続けられ、諏訪公園は殆どの四日市市民が思いを寄せる憩いの場であった。

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四日市漫歩マップ⑲潮吹き防波堤

2021年11月05日 | レモン色の町

明治17年、稲葉三右衛門の手により四日市湊が完成。四日市〜東京間の定期航路船も多くなり、すでに明治15年には汽船の入港724隻、出港740隻にのぼり、明治22年には特別輸出港、明治30年には特別輸出入港に指定された。

このような港勢の伸展に伴い、三右衛門が築造した旧港だけでは船舶の入港に応じきれず、かねてから新港開さくの計画がしばしば取り上げられたが、多額の経費を要するため容易に実現しなかった。すなわち明治17年には岩村県令が沖野技師の案により170万円の計画を立て、明治30年には内務省雇水理工師デ・レーケの案により310万円の計画、

デ・レーケによる港の模型

明治32年には小倉知事が内務省 原技師案による680万円の計画を策定したが、いずれも財源難で着工できなかったのである。(四日市市制80周年記念誌 四日市のあゆみより)

明治44年 湾曲した堤防の根元に燈台が立つ

この間、明治22年の暴風雨で港は大きな被害を受けています。碧南の服部長七は、セメントが高価だった当時、土と石灰を練り合わせた人造石を発明。人造石工法を使って港の改修工事を行いました。

明治19年完成した燈台(大正期撮影)

明治27年 潮吹き防波堤

これが現在に残る、明治27年完成の湾曲した潮吹き防波堤と南の直線防波堤です。潮吹き防波堤は高低差のある二つの堤を平行に並べ、内側の高い包みに五角形の水抜き穴を持つものです。低い堤で和らげられた波は、高い堤で受け止められ、溝に流れ込んだ後穴から排水されるという構造です。波の威力を和らげる効果を持つこの防波堤は、その独特の構造から潮吹き防波堤と呼ばれました。(CTY放送 刻 〜三重北勢絵巻〜)

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四日市漫歩マップ⑱第二海軍燃料廠日記Ⅱ

2021年11月03日 | レモン色の町

昭和17年5月18日(月)晴れ

 伊藤君と公用で外へ出る。郵便局の用件を済ませてから、塩浜の町の中を少し走る。近頃に珍しい饅頭を売っている店を見つけた。一人に一袋というのを二袋ずつ買って戻る。庶務のみんなに出してやる。今日僕の夏服が出来る日だ。気に入ったものが出来ていた。42円也支払う。給料の1か月分に近い。

昭和17年5月30日(火)雨のち曇り

 今日も召集令状は来なかった。定時退庁して四日市劇場へ映画を観に行く。少し遅れて服部君らが浴衣姿で見に来ている。映画が終わって、雨のやんだ町を諏訪まで歩く、戦勝祈願売り出しをしている。諏訪神社も夜詣り人で賑わう。

昭和17年7月14日(火)晴れ

 正午から精製部の食堂で防諜映画「明暗二街道」を見る。部屋へ戻ると、県の特高課長から防諜に関する講義があった。話のうまい警察官である。

昭和19年 北町 第1国民学校の講堂で児童に非常時の救護訓練が行われた 四日市の100年より

昭和17年7月16日(木)晴れ

 前から姉に頼まれている、赤ちゃんの頭の上に吊るすゼンマイ式の花の風車、今はどこの玩具屋を訪ねても、売っていない。戦争でセルロイドは火薬の原料になるので、製造禁止になっているらしい。お昼に、服部君の母親から会計部へ電話があり、田舎の玩具屋で1個見つけてくれたらしい。帰りに、取りに寄って下さいとのことであった。購買所でビールを2本買って、夕方服部家を訪ねる。

昭和17年7月21日(火)晴れ

 昼の休憩音楽に「湖畔の宿」が流れる。タイピストらが喜ぶ。これはこの時期、勇気ある放送である。

昭和17年7月27日(月)曇りのち晴れ

 購買所の前田君が、石ケンを5個くれた。貴重な贈り物。先日チケット発行名簿を作ってやったお礼だそうだ。

昭和17年7月28日(火)晴れ

 本日は給料日。提示で退庁して「うなよし」でうなぎを食べた。町はまだ明るい。世界館へ入る。1年半ほど前、名古屋で観たエノケン主演の「孫悟空」を上映していて懐かしかった。戦争以来、町が暗くなって陰気であるが、暑い夜で夕涼みの人出は多い。

昭和17年8月26日(水)晴れのち雨

部内でソロモン沖海戦の実情が話題になっている、鬼頭さんらは、このニュースはおかしい、と密かに言う。私もそう思う。広橋中尉にそっと聞いてみた。「僕にも真相は分からんよ。平田君も知らない方が良いよ」と、言葉を濁す。

昭和17年9月4日(金)晴れ

 赤い紙の召集令状が、実家の方に来ていた。父はもう寝ていた。令状をポケットに入れると富田浜に戻る。満天の星空を仰ぐ。今年の秋はどこの空で、この星を仰ぐことになるだろうか。

昭和17年9月9日(水)晴れのち曇り

 ガダルカナル島に上陸してきた米軍は、日本軍を上回る兵力であると伝えられている。波打ち際で迎え撃つ日本軍は、火力にも限度があり大変な苦戦をしていると感じとれる。

昭和17年9月10日(木)晴れ

 富田一色の飛鳥神社で。今回応召者の祈祷をしていただく。6時過ぎ服部君さんが訪ねてきた。連れ立って四日市へ行く。この子と知り合って1年8カ月、いろんな事があった。大橋写真館へ入って写真を撮る。出来上がるのは私が出発してからになるので、彼女がもらいに来る。

北町 昭和19年 札ノ辻で消防団員が応急架橋の実演が行われた。完成した橋をオート三輪が渡り 強度を確かめた 

昭和21年6月、復員したとき、燃料廠は夏空の下に廃墟として残っていた。しかし再開するはずの服部さんは、すでに四日市には住んでいなかった。

戦争が終わって5年目、四日市でみなと祭が催された。昭和25年夏のことである。私の作った詩がコロンビアからレコード(上原げんと作曲、霧島昇歌)になって出た。(昭和16年6月「金雀枝」7月号で投稿された歌詞が掲載となっている)

みなと音頭 平田正男 作曲

一.春は港のかもめに 問いな

 今日の入船 どこから着いた

 白い船々 迎える朝は 

 あの娘この娘も いそいそとヨイ

 ヨカ ヨイヨイ 四日市

二.諏訪の社に お詣りすませ

 ゆけば花さく ネオンがまねく

 粋なゆかたの あの娘は誰か

 ちょいと見染めた 宵もあるヨイ

 ヨカ ヨイヨイ 四日市

<後記> 平田正男さん 戦争下を知るという 貴重な記録を残していただきました。厚く御礼申し上げます

  

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四日市漫歩マップ⑰第二海軍燃料廠日記

2021年11月02日 | レモン色の町

第二海軍燃料廠日記は、平田光男さんが、入廠されてから出征するまでの日記である。下総人さんから、太平洋戦争へ入る昭和16年12月7日から日記が途絶えているのではないか?というご指摘をいただいた。いやいや、平田さんは日記を書き続けていました。四日市の町にあまり関係がないという理由で、私が飛ばして紹介していました。その間の日記をかいつまんでご紹介します。

昭和16年12月8日(月)晴れ

 早朝の出勤途中に重大事件の放送を知る。8日未明、帝国海軍部隊が米海軍根拠地ハワイ真珠湾に、潜水艦による魚雷攻撃と空からの爆撃を加えて、停泊中の米艦隊に大打撃を与えている。事務室内のスピーカーが何度も繰り返して日本海軍の活躍を放送する。8日午前11時45分、大日本帝国天皇は、米国英国に対して宣戦布告の大詔を発せられる。会計部は半数の人員が編成せられて重油タンクの防護作業に向かう。

昭和16年12月9日(火)雨

 今朝通勤の道で、鬼頭さんが「平田くん、僕らもそのうちに、本を読んだり短歌を楽しんだりしておれない時が来るかもしれないよ」と云っていた。当番で2時間残業する、廠内は特別区域灯火管制に入る。

昭和16年12月14日(日)曇り小雪

 今日も浜街道を走る。冬枯れの競馬場のトラックで、騎馬が二騎調教している。この辺りの風景は大好きだ。四日市市内を在郷軍人の列が「米英打倒」の大行進をやっていた。諏訪公園で決起集会があると聞く。

昭和16年12月31日(水)晴れ

 早朝に軽い地震があった。会計部で4名召集令を受けていて、部内はざわめいているのに私は冷静である。今夜は大晦日。どっかへ除夜の鐘を聞きに行こうという話があったが、夕方は寒いからと諏訪神社へ参拝して別れる。

昭和17年1月1日(木)晴れ

 もし戦争が長引けば、家で迎える元旦が、これで最後になる可能性がある。6時の山田行き急行で諏訪で降りる。まず諏訪神社に初詣して、今朝は自分自身の武運長久を祈る。

昭和17年1月4日(日)晴れ

 午後方富田一色の飛鳥神社で、入営入隊奉告式があるので出席する。お守り札をいただいて帰る。

昭和17年1月10日(土)晴れ

 4時起床、朝食、富田駅に向かう。久居中部第38部隊・堀隊入隊。赤飯、鯛の塩焼き、汁物、リンゴ、小田巻が出る。

(以後、4月9日までの3か月間 久居部隊で初年兵として過ごす)

昭和17年4月10日(金)雨

 一時帰郷の報告に燃料廠へ行く。会計部の階段を上り挨拶に回る。

昭和17年4月18日(土)晴れ

 午後1時頃、突如空襲警報が鳴り響く、演習ではないようだ。室内が殺気立つ。ただちに警戒配備に着く。間もなく石原産業の方向から黒っぽい爆撃機らしい一揆が飛来してきた。日本の上空をアメリカ軍機が飛ぶ。想像もしていなかった現実である。名古屋方面に少々の被害があったとのニュースもある。

昭和17年5月4日(月)曇り

 朝出勤してきたら、庁舎の窓ガラス全部に白い紙テープが麻の葉状の模様に貼ってある。これは空襲を受けた時、爆風によるガラスの飛び散りを少なくし、ひび割れを防ぐためだと聞いている。私は隊で手りゅう弾の実験を見ているが、この程度で爆風除けの効果があるのだろうか、疑問に思う。

昭和17年5月8日(金)晴れ

 大詔奉載日の式典がある。渡邉少将の詔書奉読と訓示を聞く。「戦域が拡大すれば、それなりに戦果も大きいが犠牲の大きくなるのも当然。諸君が目や耳にする戦況も。心広くして見つめて欲しい。一地点だけの不利な戦況状況に心奪われていては、この戦争は勝てない」と云われた。

昭和17年5月14日(木)晴れ

 今日、購買所でグリコと石鹸の配給があった。グリコの箱が、あの赤いバンザイ模様でなく、ただ白い箱にグリコと書いてある簡単な箱に変わってしまった。こんなところまで戦争が影響している。

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四日市漫歩マップ⑯第二海軍燃料廠

2021年11月01日 | レモン色の町

第2海軍燃料廠は、昭和16年に操業が開始された。現在の塩浜地域、コスモ石油、昭和石油と三菱化学の一部の広範な地域を占めていた。日本最大の製油所を誇っていたが、すでに南方からの石油輸送が途絶え、完全操業には至らなかった。海軍燃料廠は空爆の標的となっている。

四日市市史研究第10集より

四日市市史研究の第10号に“第二海軍燃料廠日記”として平田正男さんが投稿しておられる。(昭和16年入廠・当時20歳)ここには、戦争当時の四日市の町が興味深く記されていた。一言お断りと思ったが、ご存命であれば100歳を超えておみえである。お叱りを覚悟でその一部を写させていただいた。

戦後間もない頃の全景(中日新聞社提供)

“第二海軍燃料廠日記(抄)”平田正男

昭和16年4月3日(木)晴

一面麦畑の国道を桑名まで走ってみる。明日から塩浜の海軍燃料廠へ出仕するので、少し運動して、体の調子を整えておきたかった。

昭和16年4月4日(金)晴れのち小雨

今日は6時の速い電車に乗って出勤する。塩浜に建設中の海軍燃料廠へ入廠第1日目である。諏訪駅と四日市駅でスシ詰の状態になる。殆どが塩浜で下車するから、みんな燃料廠の従業員らしい。

昭和16年4月7日(月)晴れ

 帰りに倉庫へ寄って事務用品を受領する。もう地方では完全に品不足になっている文房具類が、ここには山と積んであるから驚く。伝票1枚で希望量だけ事務用品や高価な機材が受け渡しできるのである。

空襲後残存していた施設の一部(米国国立公文書館所蔵)

昭和16年4月15日(火)晴れ

 <日本とソ連が中立不可侵条約を結んだことが大きく報じられている。あの巨大なソ連とうまく中立が守られるのだろうか>

昭和16年4月17日(木)晴れ

 <ドイツ空軍が十時間にわたってロンドン市街に爆撃を加えている>

昭和16年4月25日(金)晴れ

 靖国神社の大祭で、廠内でも遥拝式が行われる。出勤は十時までに行けばよい。諏訪で降りて奥村時計店へ寄る。修理はできていなかった。

昭和16年4月30日(水)晴れ

 <日・満・獨三国通商会談開催される>

 満員電車で帰るより、天気も良いので今日は歩いてみよう。馳出道を通り海山道さんに寄る。お参りして田圃道を浜田に向かう。この道は丹羽文雄さんの作品に出てくる菜種道で、もう菜の花は終わっている。新道へ出てうどん屋で志のだ(うどん)を食べる。

昭和16年5月11日(日)曇り

 午前中だけ日曜出勤し印刷物の注文をしておく。公用車で印刷物を三重印刷へ運ぶことになっていたが、都合が悪くなりオート三輪で出かける。県道はほとんど舗装されてないので、揺れて気分が悪くなる。

昭和16年5月21日(水)晴れ

 徴兵検査出頭の為、四日市港近くの商工会議所に到着する。

昭和16年5月22日(木)曇

(徴兵検査第2日目、於四日市公会堂)今日の徴兵検査場は、商工会議所の隣りにある公会堂で実施された。銅板葺き唐破風の大屋根の和式建築だ。四日市へ来て今日初めて見る。徴兵検査と云えば恐い厳しい雰囲気の先入観を持ってきているのに、意外と静かに順調に進んでいく。

昭和16年6月8日(日)晴れ

 早く起きて、約束の時間があるので富洲原駅へ急ぐ。駅へ着く。やがて井上書記ら一行が到着する。網入れは三回あって、かなりの収穫があった。一同に分配したり、中には浜で焼き魚する者もいる。海へ入って貝を拾う者、海岸でゲームをする者、半日楽しい日になる。沖に三艘軍艦が停泊していた。

昭和16年8月3日(日)晴れ

 名古屋へ行く下り電車は、海水浴の客で満員のようだ。上りはガラ空きで、窓からの風が涼しい。十一屋で、姉の子に頼まれていた子犬のぬいぐるみを一つ買う。三十五銭。三星の食堂で天丼を食べる。天婦羅の下に、米の代わりにそばを細かくきざんだ物が入れてある。それでもビールを注文したら小瓶を出してくれた。昼と夕方は時間を決めて出すことになっているらしい。

昭和16年8月10日(日)雨のち曇り

 時間を合わせて名古屋へは十時過ぎに行く。名古屋城内は見学者の人影が少ない。暗い階段を三人きりで登る。窓々に「撮影禁止」の張り紙がしてある。防衛上、外部を写してはいけないのだ。

昭和16年8月24日(日)晴れ

 12時退庁して四日市へ寄る。中町で秋用のネクタイを一本買う。二円八十銭だった。生れてはじめて自分用のネクタイを買ったのだ。

昭和16年9月14日(日)小雨

 9時過ぎ、四日市へ入隊に備えて色々と買い物に行く。名古屋からの電車は満員で、諏訪駅でほとんど下車するのは、服装から見て湯の山へハイキングか、御在所岳へ登山の人たちである。金物屋へ行って、回転式の缶切り、よく切れる小刀、はさみ、フォークなどを買う。

昭和16年9月23日(火)晴れ

 自転車で四日市へ行く。磯崎筆生に頼まれたパンク修理用のゴム糊を買うためである。こんな物まで、この頃は薬屋にも雑貨屋にもなくなっている。

施設の各所に空襲から守るための補強やカモフラージュの跡が認められている

昭和16年9月29日(月)雨

 夕方6時から諏訪の大正館で出征送別会が開かれた。送られる二人は少しも酔っていない。二次会の話が出た頃、大正館を出る。暗い諏訪公園の木立に。しきりに雨が降る。

昭和16年10月4日(土)曇り

 諏訪の洋菓子屋にシュークリームが積んであったので、帰りに寄ったらもう全部売り切れていた。この頃四日市の町も、甘いものが段々品薄になっていく感じである。

昭和16年12月7日(日)晴れ

 今朝、通りのパン屋がドーナツを作って売る姉が聞いてきた。最近ドーナツなんて食べたことが無いので、姉の子供を連れて早速に買いに行く。近所の女客で店先は黒山を作っている。我先に手が伸びて、あっという間に売り切れてしまった。夕べ服部君が、四日市で「色紙の良いのが買えない」と云っていたので、顔見知りの文房具屋へ尋ねてみたが、やはり売り切れていた。本を買うついでに紅葉やでも聞いてみたら、学校へ納めた残りが十五枚ほどあった。一枚十八銭だそうで全部買うことにする。

昭和17年8月18日(火)晴れ

 晩に諏訪公園の野外映画会に行く。映画は「新門辰五郎」と戦況ニュースが数本あった。映画が終わって人が公園から散っていくと、辺りが静かになる。あちこちで虫がしきりに鳴く。もうコオロギの鳴く季節なのだ。

平田正男さんは、この年の9月 陸軍に入隊され 無事帰還された。

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