花の四日市スワマエ商店街

四日市の水谷仏具店です 譚

幻の西町駅 ②

2022年02月15日 | レモン色の町

水谷さんが“旧四日市を語る 第二集”に寄せられた 西町駅のスケッチ。南向きとみられる。

水谷さんに西町駅の話が聞きたくて、お宅へ伺ったがお住まいの様子がなかった。

諏訪駅を出た伊勢電鉄 桑名行は大きく西から北向きに進路を変え天理教会前を通過。遠く西に堀木斎場の煙突を眺めながら速度を上げ、三滝川堤へと上って行く。登り切った三滝川手前に“西町駅”があった。水谷さんの文章では、プラットホームに収まり切れず行き過ぎる若い運転手さんも居たという事だが、登る勢いもあって停車線で停めるのは難しかったと想像される。諏訪駅から西町駅間の距離は約850メートル。西町駅から次の川原町駅までは、わずか500メートル弱である。川原町は万古焼の工場地帯だが、西町駅は、なぜ造らなければならなかったのか?

西町はその名の通り戦前のメイン通り“浜往還”への西の入り口である。前出の菰野在住の金津さんは、リヤカーに乗せてもらい菰野方面から末永のごみ焼き場前を通過して、明治橋から四日市の町中に入っている。坂を下り浜往還から港へ向かうのが普通だが、リヤカーは人込みを避け三滝川堤防沿いを掖済会方向へ向かった。

西へ行くと 上の道は菰野へ 下は堀木へ続く

右へ進むと札ノ辻へ出る

往年の映画監督である衣笠貞之助も、幼少の頃住んで居たことがあり、ここから諏訪神社へお祭りを見に出かけと聞いた。戦後の話であるが、逆に自分が母親に手を引かれて西町のお祭り見物に行った記憶がある。通りは大勢の人ごみで、各店舗のウィンドゥには、鯉の滝登りのように趣向を凝らした作り物が展示してあった。

地蔵堂と御旅所を北向きに

そして西町は、四日市祭りの最初の神事、“御旅所”のあるところでもあります。

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幻の西町駅 ①

2022年02月14日 | レモン色の町

“旧四日市を語る 第二集”に、水谷さんが西町駅のことを書いてみえる。今は幻の駅となっている。

昭和21年の空撮より

 西町駅は三滝川の右岸堤防沿いで明治橋と隣接した位置にあり、各駅停車専用駅であった。戦後は川越、町屋、揖斐川駅と共に廃止された。西町駅は上り線の次の川原町駅とは駅区間距離で最短距離であったと思う。乗車券は委託販売の形で売っていて、駅員の居ない駅であった。また、この駅のホームの長さが車両一台分ぐらいであったので、運転手が未熟であると、時々行き過ぎてバックして乗客を降ろしていた。たまに、二両編成であったりすると、下り線の場合は二両目に乗っていると、前の出口は道路上でよく道へ飛び下りたりした。後部の出口は勿論三滝川の鉄橋上にあるため、不慣れなお年寄りが「降ろしてください」と叫びおろおろしている光景をよくみかけた。(上り線は各駅停車「現在の普通電車」の桑名行が多かった。下り線は桑名発各駅停車塩浜行、白塚行、津新町行であった。)

明治橋下の地蔵堂

坂を上る この正面に西町駅はあった

明治橋南詰から近鉄四日市駅方向(南)を見る

東向き 右下が西町 左に三滝川 昔の堤防沿いの道

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諏訪駅の?何処だ!③

2022年02月13日 | レモン色の町

昭和22年の空撮を見つけた。しばしば掲載させていただいている直後の空撮より 1年くらい後か?少しづつ復興の兆しがある 否! 諏訪劇場が建ってない?これが前か!次回比較します スミマセン➡四日市空襲が昭和20年6月。諏訪劇場の前身である“近畿館”が昭和21年4月にオープンしている。空襲直後の空撮は、その間に撮られたものだ。下の写真は昭和22年。1号線が 現在の中央通りあたりまで伸びているから、諏訪劇場は写っているが建物の間でよく分からないのだろう。

この時 諏訪駅は西に移っている 八王子線に沿って家が並んでいるようだが・・・

昭和31年頃 中央通りが出来つつある 八王子線に沿って両側に家屋が並ぶ よく眺めると 諏訪公園西の道が線路をまたいでいるように見えるが・・・③(前出)の写真の先に踏切があったのではないだろうか?それは諏訪駅の西を通り諏訪公園へ延びていた・・・?川村鉄工の中を抜けていた?チガウカ?

付録 大正バザーの写真をどこかで見たと思っていたら 本町の水谷さんがお持ちでした 以前当ブログでも掲載したか・・・

東中町 伊藤履物屋さんの先に建つ大正バザー キリンビールの看板

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諏訪駅の?何処だ!②

2022年02月12日 | レモン色の町

“四日市の今昔”樹林舎刊より 

門脇さんが撮られたこの写真が どこからカメラを構えたのか 分からない?当初 左の親子の子供は自分だと思っていたが 昭和30年代だと 自分はもう少し大きくなっている 父親も眼鏡をかけているようだが、親父は老眼鏡しか使わなかった。そして、足元の影をみると 昼過ぎで南方向からではないかと思った。両端に見える“スワ劇場”の看板は 映画館に近いからか?自分がこの道を歩くことは無かった・・・

そして何より気になるのは プラットホームの屋根の形と位置だ

“内部・八王子線のりば”とホームの庇に描かれているが 形は同じでも文字がないところから 逆方向と推理した

八王子線の電車が停車しているが 線路は諏訪駅の裏に敷かれている  のか?ナ・・・

焼け跡を空から見る

人々は 諏訪駅裏を川村鉄工所へ向かって渡っているようだ

<追記>諏訪駅裏を 大勢の人が歩いているが、これは 八王子線の電車が通り過ぎ 待っていた人が一斉に線路を渡りだしたところだと思う だから大勢の人ごみが出来たのだ

諏訪駅が取り壊された跡地(辻さんの写真)で北から南向き パチンコ屋の前を右方向へ道が通っていた

 

西向きの写真(辻さん撮影)ここを八王子線が通り それに沿って道があった それにしても狭い。

結論 この辺りから北方向に撮られたと考える 暇だったので 今日も1日写真とにらめっこをしていた

 

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30年代の諏訪駅の?何処だ!

2022年02月11日 | レモン色の町

①の写真

おなじみ 諏訪駅構内を西向きに見た写真(昭和30年代)です 西へまっすぐ「湯の山線」 左のホームは「内部・八王子線」否「八王子・内部線」です

②の写真

本町の水谷さんからお預かりしたこの写真 諏訪駅正面から少し東へ下がった風景です 右に公衆便所があります

③の写真

この写真「四日市の今昔」樹林舎刊より がどこから撮られたのか分かりませんでしたが 謎が解けました ホームの屋根が「内部・八王子線」のものである 影の位置が午後であること 「スワ劇場」の看板が両側に立っていること これらから推理すると「内部・八王子線」沿いに 西から撮られたものと分かりました 線路の向こうに駐輪場があります

④の位置から撮られた写真

これは ホームの端から 西方向に撮ったもの 直進が湯の山線(列車が見えます)で 右へ名古屋方向にのびています 

下の写真も 謎々みたいに水谷さんからお預かりした写真です さて どこでしょうか?

右の大きな建物 線路のカーブ ④と同時期の撮られたものらしい のヒントから考えて 天理教前をカーブする近鉄線と思われます この先は諏訪駅です

昭和13年(戦前)に戻ります 

「諏訪駅」を出発した伊勢電鉄線は 次の駅「にしまち」へと進みます

 

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昭和17年の諏訪駅

2022年02月09日 | レモン色の町

昭和3年6月、東海の飛将軍といわれた熊沢一衛は、四ッ谷町に熊澤ビル(伊勢電鉄事務)を建てる。現在の本町プラザであります。この年の11月、伊勢電鉄の四日市・桑名間が開通し、三重鉄道と四日市鉄道が並行して走っていた国鉄四日市と諏訪駅間を買収した。これにより昭和4年、三重鉄道と四日市鉄道の始発駅は、旧東海道筋に出来た諏訪駅が始発となる。それまでの三重鉄道は“すわまえ”、四日市鉄道は“すわ”と驛はそれぞれにあった。

旧東海道沿いの諏訪駅

サンシ側から見た諏訪駅 右の方にホームの西端が見える

伊勢電鉄等が走る諏訪駅は、当初、現在のスーパーサンシ付近にあったが、昭和17年、少し西側の現在のパチンコホームランの場所へ移転された。同31年に新しい近鉄四日市駅が建設されるまでは、内部・八王子、湯の山線、名古屋線の3線の昇降駅として多くの市民に利用された。(近藤弘氏提供 四日市今昔写真帖より)

四日市今昔写真帖

私は“諏訪駅”は、昭和20年6月の空襲後に出来たものと思い込んでいたが、昭和17年に、旧東海道沿いでは手狭になったので移転したという事だった。空襲でいったん焼失したのか?

空襲直後 真ん中に諏訪劇場 その上に諏訪駅がある かなり破壊されているが諏訪駅は燃えたのだろうか

昭和20年に建て替えられたとしても、随分古びた 小さい駅舎である。当時のことなので間に合わせの材木で造られたのか?

昭和30年9月、近鉄線短絡化の為、諏訪駅は廃止となった。それまでの“諏訪駅”は、まちの入り口だった。

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掖済会横の石灰工場⑤

2022年02月08日 | レモン色の町

大正5年10月8日 仲士の子供が耳下腺炎になったのをきっかけに 四日市はペストの恐怖に見舞われた。海員掖済会寄宿所ないに 三重県検疫委員部出張所が設けられたのは 大正5年のことだった

大正11年の航空写真

目で見る四日市の100年より

大正11年8月のマップ

下の地図は昭和13年の諏訪駅から北西方向のあたりである。

上から 堀木駅・西町駅・諏訪駅 これらは廃止された駅である。そして右側の三滝川堤の場所は 昭和13年決壊し 市中を長期間水浸しにしたところでゴザイマス

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掖済会横の石灰工場④

2022年02月06日 | レモン色の町

大正13年

椙山満氏の文章を、過去のブログで紹介していました。

掖済会の右に井高石灰工場の建物が2棟見えますね 旗を立てたポールらしき竿も見えます その川向うが午起海岸の松並木です

大正6年5月、米国の飛行家アートスミスが、旧港と海員掖済会前の海岸を中心に曲芸飛行があり、のちに海軍の水上機が離水着水を演技したのも掖済会前の海水浴場であった。掖済会の洋風建物の隣には、船大工の造船所、その南側(西側の間違いではないか?)には牧場の草原があって沢山の牛が放牧されていた。大正後期になるとここは旧港の防波堤で潮流が澱むためか、ヘドロが多くなって海水浴に適さなくなった。

掖済会裏の牧場が、なぜこの時代に、ここにあったのかを・・・“酪農・歴史”で検索してみました。

・農家の手によって酪農がおこなわれるようになるのは、第一次世界大戦の前後とされ、畜産業の一環として行われた。

・牛乳の普及が急速に加速したのは日清・日露戦争の時で、兵隊が傷病兵の栄養剤として牛乳を飲むようになったことで一般に広まりました。

・・・とあります。掖済会は、船員のための医療、宿泊施設です。大正期にペストが流行した折にも治療のための施設として利用されています。日露戦争終結が明治38年。四日市では、敗戦国のロシア兵を捕虜として預かっています。明治39年4月30日には、ロシア兵を送還していますから、牛乳の普及には関係ないかも知れません。

本町の水谷さんにお借りしました 相生橋を渡るロシア兵

多分 旧港の税関前から船に乗るロシア兵

四日市に掖済会が出来たのが明治41年3月。ペストの流行が大正5年。第一次世界大戦が大正3年〜大正7年。そして、昭和になって牧場の敷地は、四日市倉庫に売却されている。

如何でしょうか?掖済会と牧場は関係がありそうな気がしませんか?でなければ、四日市の一等地である旧港近くに、牧場を作る必要があったのでしょうか?

追記:三重製網へ入るところの「寅高」という文字は、人の苗字ではなかったかと想像しています。

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掖済会横の石灰工場③

2022年02月05日 | レモン色の町

後日、“旧四日市を語る会”の集まりに参加した金津さんは、『由良』を見学した昔日のことを話してみえた。

末永から稲葉町へ(昭和13年の地図より)

ガードをくぐって稲葉町へ(昭和5年の地図より)

四日市へ軍艦『由良』が来た。友達の父親がリヤカーに三人乗せて、高砂町まで連れて行ってくれた。旧港からランチに乗って沖に停まっている艦まで行った。水兵さんが上から「靴に草履はそのまま、下駄は必ず脱いでください」とメガホンで叫んでいた。錆の出た古い艦であったと覚えている。帰り道、北側の寅高入りの三滝川尻に石灰工場があった。機械が珍しかったので長い間眺めていた。河口に降りて水を舐めて海の水が辛いという事を初めて体験した。終戦後工場の処へ始めて行ってみた。建屋は焼けていたが機械はそのままあった。井高さんの工場であったことを遥か後に知った。

昭和32年頃の空撮 ①井高さん跡 ②掖済会跡 この頃では もう残ってないか?

・ここに出てくる“寅高入り”とは、何のことだろうか?三重製網への入り口である 岡野さんの手描き地図“大正初期”にも記載があった。

大正初期の地図

大正13年の空撮 真ん中に大きく 黒い地域が広がる よく分かるように 色を薄くしてみた ムム・・何だろう?建物ではなさそうだ   井高製灰工場は井高石灰工場の間違いではないか?

掖済会裏の黒く見えるところは 牧場だと聞いたことがある。昭和5年になると四日市倉庫の敷地になっている。

金津さんが 掖済会裏に長屋があったと記してみえたが 昭和4年の地図をみると“市営住宅”になっている。

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掖済会横の石灰工場②

2022年02月04日 | レモン色の町

昭和9年、菰野に在住していた金津さんは、小学2年生の時に旧港に停泊した“潜水戦隊入港旗艦(訂正:巡洋艦)『由良』を見学するため、学友三人で見学に出かけた。友達のお父さんは、リヤカーに三人を乗せた自転車で出発した。

軽巡洋艦“由良”

菰野から水田の中をまっすぐ東へ進み、(ここで潤田の凱旋門を通るとあったが、今でも道の両側に建つ石柱がそれではないかと思う)県小学校の南側の人家に挟まれた狭い道を行く。松林を通り過ぎると左側に“パラダイス果樹園”という梨畑と人家があったと書いている。現在の坂部温泉南の坂を下り、江田神社で休憩する。東坂部に建つ煉瓦造りの古めかしい製糸工場を過ぎると、四日市の工場の煙突が見え始めた。そのまま365号線を東へ進み、高い煙突の立つ“末永のごみ焼却場”の前を通る。焼き場と土堤防の間には灰が積んであって、焼けた空き缶が混ざっていた。少し行くと“三滝川の川向こうに変電所が見えた”と書いているが、現在の堀木町にある「中部電力 電力センター」のようだ。そして、近鉄線の踏切を渡り、西町から町中を通らず、三滝川沿いに旧港へ向かっている。まっすぐ行く方が近そうだが、辻から続く竪町、西中町、東中町の混雑を避けるためだろう。

昭和4年

国鉄のガードをくぐり、工場の煉瓦塀に沿って行くと稲葉町へ着いた。お世話になる友人の高森家は砂利運搬業をしていた。

昭和53年

小学二年生の金津君が、敷石の上に乗って飽きもせず興味深く眺めていた石灰工場は、船で運ばれてきた石灰石を生石灰に精製していたと思われる。ネットで検索すると・・・生石灰の主成分は、酸化カルシウム(CaO)で白色の塊状または紛状です。山から採掘した石灰石を水洗・篩い分けした後、焼成炉の中で900℃~1000℃の高 温で焼いて作られます。

焼成炉は、石灰を作るために最も重要な装置です。大まかに分けて立型炉と横型炉(ロータリーキルン)とがあります。近代化されるまでは土の中に穴を掘って炉として用いられた土中炉というものが多く見られました。

現在

“由良”見学の後、金津さんは四日市を後にしている。末永ゴミ焼却場の高い煙突が、四日市に別れを告げる境と感じたそうだ。お世話になった稲場町の高森さんは戦争で亡くなられ、同行の友人は中国上海近くで警備中戦死、石灰工場の井高さんは、戦後、大井の川縁で廃油工場を経営してみえたが、火事にあっている。金津さんは井高さんを訪ねることが出来たが、病気療養中であったため詳しいお話を聞くことが出来なかった(平成10年現在)とあった。

旧港に立つ案内板より

①から北方向に見た風景

②から東方面を撮る 大協橋が架かる

私は、掖済会の空撮写真を、是非、金津さんに見ていただきたいと電話したが、その番号は現在使われてなかった。

左画面外が旧四日市港

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