花の四日市スワマエ商店街

四日市の水谷仏具店です 譚

小島剛夕は諏訪 栄だった②

2023年03月10日 | レモン色の町

本日、番外編がアップしました。番外編1は、捧腹絶倒(訂正:抱腹絶倒)です。何より誰より やっていた三人が楽しませていただきました。まずは、苦労して編集していただいたGGシニア様に感謝でゴザイマス。その次に会長と副会長。皆さん快調でした。

(88) 「たけちゃんの四日市町歩き/番外編第一話/昔の近鉄四日市駅東側」 - YouTube

小島剛夕さんの追加記事です。諏方神社のホームページにあったと、前田憲司様からメールをいただきました。これまた感謝!

 http://www.suwajinjya.jp/osuwasan/kojima.html

 

 

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小島剛夕氏は諏訪 栄だった

2023年03月07日 | レモン色の町

前田憲司氏からお借りした資料より

小島剛夕氏は、昭和3年11月3日(手塚治虫氏と同年月日)、三重県四日市市に生まれる。昭和25年、上京、加太こうじ永松達夫氏らの指導によって、紙芝居画家となる。漫画家としては、昭和32年「隠密黒妖伝」(ひばり書房)にてデビュー。次々と時代劇・忍者ものを発表し、白土三平と人気を二分していた。昭和42年「週刊漫画アクション」創刊号より「おぼろ十忍法」を連載開始、筆を使った、力感、躍動感のあるタッチ、さらに巧みな構成力には定評があり、小島ブームを作った。昭和45年「子連れ狼」(小池一夫原作)スタート、爆発的なヒットとなる。

諏訪 栄のこと 小島剛夕

わが誇り高き故郷、三重県・四日市市。西に広大な丘陵地帯を山とし、東は水のきれいな伊勢湾に抱かれた、人情豊かな街である。

諺に謂く“近江商人・伊勢乞食”・・・これはお隣りの近江の方で気遣ってくれ、伊勢乞食うぃ“伊勢子正直”と呼び直してくれたりもしたが・・・しかし、伊勢乞食でいい。なぜなら、昔から伊勢の国は乞食が居着く・・・この国の人心がいかに面倒見がよく世話好きであるかを、伺わせるからである。

その四日市には、大昔から県社・諏訪神社があった。・・・近江に知られた大社で、毎年、正月、市の祭礼ともなると、町中ばかりか近郷、近在から、ここに集まる習慣があり、親戚・知人など、半年以上の無沙汰はなかったところであった。

私を慈しんでくれた街をあとにし、上京。昭和25年の事である。紙芝居画家、そして貸本用単行本で純愛ロマン、時代劇のロマンを描きまくって東京を過した。

伝通院前のひばり書房で、専属としてやっている頃、ついにコミック誌からの誘いがあり、張り切って描いたのが「片目柳生」である。が、悲しきかな専属の身・・・。画風を私の弟子に似せ、ペンネームでの発表ということになる。出版社サイドよりいくつかのペンネーム案が届けられたが、忘れ難き、わが故郷にちなんで これからもずっと、諏訪の街が栄えてくれるようにと祈って、自分でこの名を付けた。もうかれこれ三十年近く昔の話である。(1995年4月10日)

前田憲司様、貴重な資料を拝見いたしました。ありがとうございました。

コメント (8)
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ぶらり四日市 その十八 玉井兄弟の情熱②

2023年03月04日 | レモン色の町

玉井清太郎は明治25年6月11日、四日市市浜田に生まれる。父は元氏族。幼少から大空にあこがれ26歳の大正6年、日本飛行学校の創設に参画、教官となったほか、自ら飛行機に設計、製作を行った偉人である。写真は仏グノーム50馬力搭載の玉井式前の3号前の玉井清太郎(大正6年)で当時26歳。

玉井式単葉機試作

玉井清太郎は18歳の時(円内の写真)自宅工場で玉井式単葉陸上飛行機を設計、製作。明治43年8月、母校の四日市市浜田小学校で組み立てた。

「三重百年」中日新聞社刊(提供:商連会長)

兄の遺志を継いだ玉井藤一郎

大正6年5月20日、兄清太郎が東京・芝浦で墜落惨死した後を受け、飛行機の設計、製作に心血を注いだ。同8年には自作の「青鳥号」で四日市に飛来、兄の果たせなかった郷土訪問飛行を追善飛行として行った。写真は自作の玉井式24型機(ローン120馬力搭載)前の藤一郎。大正10年1月、28歳

昭和40年代?の浜田小学校の航空写真 プールはまだ出来ていない(提供:前田憲司氏)

コメント (2)
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ぶらり四日市 閑話休題 思案橋の唄

2023年03月03日 | レモン色の町

GGシニアさんが、またまたYouTubeをアップしていただきました。スミマセンが是非、ご覧ください。

(73) 「たけちゃんの四日市街歩き/第4回、懐かしい遊び場…諏訪公園」 - YouTube

思案橋の唄が読めた!

四日市商工会議所発行の“よっかいち歴史浪漫紀行”の126ページ第57話佐藤千夜子「四日市小唄」北野 保著に載っておりました。

西條八十 作詞、中山晋平 作曲の「四日市小唄」は、戦前四日市に住んでいたことのある人なら誰しも唄ったことのある唄。昭和六年、二三吉と佐藤千夜子が歌うビクターレコードが発売されて一躍有名となり、いつどんな席でも歌われ皆に親しまれてうたわれた。

昭和六年といえば戸野周二郎市長時代、喧嘩唯一のニュールック市庁舎がお目見えし、千歳町埋め立て地には鋭意建設中の新築港がやがて出来上がろうとしている市政躍進時代。当時の不景気な世相の中に、若く明るい息吹を感じさせるかのように此の歌は老いも若きもみんなが景気良く歌ったものである。

東や横浜 東や横浜

西行きゃ神戸 ヤレコノセ

海の関所の ジツ関所の

四日市 ササ、ヤレコノセ

「アリャよってけ よいよい四日市

町にゃ萬古の 町にゃ萬古の

窯焼くけむり ヤレコノセ

海にゃ出船の ジッ出船の

黒けむり ササ、ヤレコノセ

「アリャよってけ よいよい四日市

那古の渡りか 那古の渡りか

霞に消えて ヤレコノセ

夏が来る、来る ジッ来る来る

伊勢の海 ササ、ヤレコノセ

「アリャよってけ よいよい四日市

断った便りを 断った便りを

無電の塔に ヤレコノセ

訊いて涙に ジッ涙に

ひかる星 ササ、ヤレコノセ

「アリャよってけ よいよい四日市

春の湯の山 春の湯の山

櫻が咲いて ヤレコノセ

どれが湯気やら ジッ湯気やら

さくらやら ササ、ヤレコノセ

「アリャよってけ よいよい四日市

鯨追う子の 鯨追う子の

銛から暮れて ヤレコノセ

諏訪の祭りの ジッ祭りの

秋の月 ササ、ヤレコノセ

「アリャよってけ よいよい四日市

しおれ葵を しおれ葵を

生かした水が ヤレコノセ

いまも下いく ジッ下いく

思案橋 ササ、ヤレコノセ

「アリャよってけ よいよい四日市

おもしろいぞへ おもしろいぞへ

霞ケ浦は ヤレコノセ

馬と白帆の ジッ白帆の

駆けくらべ ササ、ヤレコノセ

「アリャよってけ よいよい四日市

戀(こい)の港に 戀の港に

錨をおろし ヤレコノセ

逢いに北町 ジッ北町

南町 ササ、ヤレコノセ

「アリャよってけ よいよい四日市

月にかこつけ 月にかこつけ

紅鉄漿(べにかね)つけて ヤレコノセ

お顔三瀧の ジッ三瀧の

橋のうえ ササ、ヤレコノセ

「アリャよってけ よいよい四日市

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