花の四日市スワマエ商店街

四日市の水谷仏具店です 譚

花のスワマエ商店街

2024年03月12日 | レモン色の町

昭和2年は、まだ東海道と浜往還沿いの商店街が元気で、東西の四日市驛周辺が賑わい始めた頃でした。

提供:たいじゅ様

注目したいのは、東海道沿いを諏訪驛へと伸びる道路沿いに商店が並び始め、1等地となっていることです。この頃はまだ諏訪新道から四ツ谷町を経て四日市驛前へと伸びる道路は、ようやくにぎわい始めた頃でした。

諏訪新道が計画されたのは、明治39年。明治40年発行の『四日市史』(水谷宜夫様にお借りしました)によると・・・

四大事業の内 諏訪前道路の改修

阿瀬知川の開鑿(かいさく)、海面及び入江の浚渫は、舟運の便を得る上において、非常なる利益あると雖(いえど)も、これに対する陸上各方面との連絡完全ならざれば、以ってその効果を全うすること能わず。是れ諏訪前道路を改修して、阿瀬知川下流の運河、および海面埋め立て地に連接せしめんとする所以なり。殊に、該道路は、他日、全市の中心市街となるもなるべき地勢に当たれるを以て、改修工事竣成の後は、期ならずして繁栄なる市街を成すに至らんこと必せり。とあって、以前に当稚拙ブログにも掲載させていただきました。諏訪新道(すわしんどう)が賑わいだすのは戦後のことでした。

2023年5月7日のブログ記事一覧-花の四日市スワマエ商店街 (goo.ne.jp)

しかし、よーく見ると、現在、商店街らしき体(てい)を保っているのは、本町とスワマエだけです(他の商店街の方には申し訳ありませんが)。わたくしの祖父と父は、桑名からこの地に新参者としてやってきました。当時は職人が物を作って売る町だったようです。

戦後のスワマエ通り(踏切から北を望む)

先見の明があったとしか言いようがありません。昭和初期から平成、令和にかけて、東海道沿いの商店街であり続けたスワマエを誇りに思うと共に、次の世代に送る責務を強く感じる次第です。先人の方に感謝!

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昭和2年の壹頭地は?

2024年03月10日 | レモン色の町

諏訪神社の第2弾をGGシニアさんにアップしていただきました

「タケちゃんと前田先生の四日市諏訪神社探訪/第2話」 (youtube.com)

たいじゅさんからお借りした「昭和2年 市會関係書類」続きでアリマス。

特等地に1当地を加えてみました。赤が特等地で青が1等地です

<壹頭>

南町・四日市銀行西支店北通り(札ノ辻)を西へ 西町 片倉醤油店まで

同町・南川洋服店より南へ江田 踏切まで(当時は、東海道沿いに諏訪駅がありました。)

濱町・森松吉より東へ濱町を経て蔵町 田中武夫まで

四ツ谷町・省線東駅前より北へ一直線に濱町第一踏切まで

新丁・湊小路一円、但しマルイチ魚問屋を含む

同丁・四日市貯蓄銀行建築用地を北へ一直線に新丁 永田和義宅まで

沖ノ島・新道 三泗電気商会より東へ一直線に四ツ谷 マルサン食堂まで

四ツ谷・伊藤有吉 前通りを一直線に相生橋まで

大正11年の地図に 無理やり昭和2年を重ねました 

四日市は札の辻を中心に市場が立ち 江戸時代には東海道が通り 港と繋がって西町から浜往還が賑わい、明治になると鉄道が発達して 四日市驛付近が賑わった。明治後期になると東海道が通っている諏訪神社と四日市駅を繋ぎ港まで通じる新しい道が計画(四大事業)され 四日市驛から諏訪驛へと賑わいゾーンが出来た。この辻、浜往還、四日市驛、諏訪神社のスクエア(その中央を南浜往還が通るが・・・)が昭和中頃までの繁華街だったことが分かる。中心地は移動している。

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昭和2年の特等地は?

2024年03月06日 | レモン色の町

たいじゅさんが面白い書類を持参いただきました。『昭和2年 市會関係書類 四日市市役所』と名のついた議事録です。

そこには、市内の家屋地等級付けが記録してありました。昭和2年当時、どこの地価が高かったか?という興味深い内容です。

地価の高い土地は移動します。イオンの岡田卓也氏は『大黒柱に車をつけよ』と、久六町から札ノ辻、諏訪新道から近鉄駅前へと1等地を求めて移動していきました。幸い増田武夫さんが東海道筋と浜往還の地図を残して行かれました。さて?昭和2年 昭和天皇 御大典当時(御大典は正しくは昭和3年ですが)の土地の値打ちは?

<特等>お断りしておきますが、1等地ではありません。特等地です。

四日市銀行西支店より東へ竪町、中町、通りを経て濱町 森松吉宅まで

お尋ねしたところ 阪田屋さんに森松吉という方がみえました

三滝橋より南へ北町を経て南町 南川洋服店まで

省線西駅前より踏切を西へ一直線に西へ四日市印刷株式會社まで

赤線で塗ったところが特等地、つまり一番賑やかだった通りでした

<壹頭>

南町・四日市銀行西支店北通り(札ノ辻)を西へ 西町 片倉醤油店まで

同町・南川洋服店より南へ江田 踏切まで(当時は、東海道沿いに諏訪駅がありました。)

濱町・森松吉より東へ濱町を経て蔵町 田中武夫まで

四ツ谷町・省線東駅前より北へ一直線に濱町第一踏切まで

新丁・湊小路一円、但しマルイチ魚問屋を含む

同丁・四日市貯蓄銀行建築用地を北へ一直線に新丁 永田和義宅まで

沖ノ島・新道 三泗電気商会より東へ一直線に四ツ谷 マルサン食堂まで

四ツ谷・伊藤有吉 前通りを一直線に相生橋まで

あと<貮等>と続きます・・・。一等は後日調べたいと思っております。チャンチャン!

あっ!たいじゅさん ありがとうございました 時間の経つのも忘れて楽しませていただいております。

コメント (4)
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岡野繁松先生の諏訪神社

2024年03月03日 | レモン色の町

YouTubeで案内していただいている前田憲司氏の諏訪神社。拝殿前の天水鉢が、横濱製茶問屋からの寄進とあった。

昭和40年発行の”四日市史”を見ると、海外向け輸出欄の処に、綿糸に続く643,072斤とあった。

おそらく三重軌道で四日市驛まで運ばれ、海外に輸出されていたのだろう。大陸向けが大きかったと想像する。訂正! この時、明治40年の段階では、いまだに軽便鉄道は敷かれてはおりませんでした。ゴメン!

本日、諏訪神社へ赴くと、生川宮司さんから下の図面を手渡された。宮司のお父さんが、旧四日市を語る会(岡野繁松先生)から依頼されて描かれたものらしい。只、手渡されずに終わったようである。

その後、岡野先生が旧四日市を語る会での話をもとに描かれたのが 下の図です。

ほぼ同一である。この2枚の図から、明治天皇の記念碑の位置が、生川邸の横にあったことが分かった。

2022年8月13日のブログ記事一覧-花の四日市スワマエ商店街 (goo.ne.jp)

この記念碑は、戦後に川の東側へ移転されたことになる。(このお話はYouTubeでもご紹介してあるのですが、探すのが面倒でしたので、お知らせのみとさせていただきます・・・る)陳謝!(5日現在 いまだ探そうともせず)

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二段ベッドの世界

2024年03月02日 | レモン色の町

今回のYouTube GGシニアの探訪記は、前田憲司様の力をお借りして地元 諏訪神社に挑戦!日頃見慣れた風景の中に新しい発見が続々!まさしく歴史の重みを感じる神域でございました。3回に分けて配信予定だそうでございます。建御名方命さん八重事代主命さん(えびす神) バンザーイ!・・?

諏訪神社探訪第1話 (youtube.com)

昭和こども新聞より 二段ベッドが大人!

本年(昭和35年)マルニ木工より「ボンクベッド」と呼ばれる子供用2段ベッドが発売された。アメリカの家具メーカーと技術提携して開発されたとかで、分解すると普通のベッド2台になるそうだ。とはいえ「家は狭くて子供は多い」という我が国の劣悪な住環境を考えたら、2段で使ってこそ真価を発揮する。だが問題は、子供2人で使う場合、どちらが上に寝るかだ。オネショ癖のある方が上を使うのは言語道断。極端に寝相が悪いのも、転落の恐れがあり危険。そう考えると、安心して上で眠れる子は少ないかも。

2段ベッドが我が家にも来たのは、ずっと後のことだったような気がする。今は随分オシャレになったが、当時は寝るだけの形だった。けれど、上の段に登るとドキドキワクワク感がでて、高いところからの景色が望めて、まさしく俺の城でありました。

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