前号で私は、去年の春から夏にかけて書いた論考をもとに、不登校児やひきこもり青年によく見られる「強いこだわり」には、文字どおりの「こだわり」と、社会から与えられ取り込んだ「世間の常識」の、ふたつの種類があることをお話しました。
そして「こだわり」を“荷物”に「世間の常識」を“よろい”に、それぞれたとえ“よろい”を脱ぐことも“荷物”を捨てることもなかなかできないことにふれました。
今回は、その理由を考えてみます。
第一に「自尊心」です。論考で、私はこう述べました。
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人は「今」を生きています。たとえその生き方に誤りや無理がありそのために自分がどんなに苦しくても、自分の人生を真剣に生きていることには違いない、ということは、誰にも譲れない一線なのです。
このようなプライド(自尊心)は、人が生きていくためには必要不可欠なものだと思います。(82号)
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第二に、これは論考には書かなかったことですが「価値観・美学」です。彼らは「自分はこういう人間であるはずだ」という“信じたい自己像”と「自分はこういう人生を送りたい」という“望む生き方”と「人間はこうあるべきだ」という“倫理観”を持っています。
にもかかわらず「学校に行けない」「社会に出られない」といった自分の現状は、まさに自分自身の価値観・美学に背くものであり、屈辱的なものです。そのため、価値観・美学(これじたいが“荷物”でもあるわけですが)を捨てるのではなく。価値観・美学に自分を合わせることを、彼はひたすらめざしているのです。
第三に、執着心を捨てられない状況です。これは、論考でお話ししたように“荷物”について特に言えることです。つまり、親との関係など、独自のコミュニケーションがあり、かつ表面化しにくく、周囲の理解も得られにくい“荷物”を抱えていると、お互いに意地を張ってしまったりしていて「ああでもないこうでもない」と堂々めぐりする悪循環から、抜け出すことが難しいわけです。
最後に、そもそも“荷物”や“よろい”を捨てることが、彼らにとってどういうことなのか、ということです。
これは、論考でお話ししたように“よろい”について特に言えることです。論考で私は、こう書きました。
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今の自分の生き方は、自分が育ってくるなかで身につけてきた生き方です。これを否定すれば、自分のそれまでの十何年、二十何年の人生が否定されるように感じるのは、当然のことだと思うのです。
「“よろい”を脱ぐ」ということは「今までの生き方を否定する」という、辛いプロセスを通過しないと、できないことなのです。
彼らにとって「“よろい”を着ている自分」と「“よろい”を着ていない自分」は、別人だからです。
たとえて言うと、彼らにとって「“よろい”を脱ぐ」ことは「生まれ変わる」ことと同じなのです(この「生まれ変わる」ということについては、35号のコラム『生まれ変わるための闘い』をご参照ください)。(82号)
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以上のように見ると、不登校児やひきこもり青年は「ころんでもただでは起きない」人たちであることがうかがえます。“荷物”や“よろい”を捨てることがそう簡単ではないことが、想像できると思います。
それでは、そんな彼らが“荷物”や“よろい”を捨てることができるようになるためには、どうすればよいのでしょうか。
前号でもふれたように、通常「こだわりを捨てる」とは「“荷物”を捨てる」ことだと考えられがちです。そのため、周囲は常に「本人が病的なこだわりを捨てればいい」とだけ考え、それを本人に要求する、という対応が一般的です。
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そうすると、本人と周囲とのコミュニケーションが“荷物”のことに集中します。そのため、本人は“荷物”への関心がかえって強まり捨てることがますます難しくなってしまいます。(78号)
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このような状況に対して「“よろい”を脱ぐ」ことのほうが重要だ、という考え方が、この20年くらいの間に徐々に広まってきました。「おかしいのは本人より社会のほうである」という視点が台頭してきたのです。
この視点は、本人への対応に画期的な変化をもたらしました。つまりこういうことです。
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“荷物”を捨てることは、周囲の人々はそのままで、本人だけにやらせればいいことです。それに対し“よろい”を脱ぐことは、まず周囲の人々がやらない限り、本人にやらせることは困難です。
周囲の人々が、世間の常識を持ったまま、本人に「常識を捨てろ」と言っても、説得力はゼロだからです。
その結果、周囲の人々は、本人への対立的意識がなくなるだけでなく「世間の常識に縛られて生きてきた者どおし」としての共感・連帯感が生まれます。そして「本人を世間の常識に従わせる」のではなく
「本人が自分の意思に従って生きることを応援する」というスタンスになるわけです。(81号)
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このように“荷物”を捨てさせることより“よろい”を脱がせることのほうが、理解ある対応だと言えます。しかし、ここで考えなければならないことがあるのです。それは次回に。
2005.10.19 [No.110]
文中「論考」と呼んでいる部分(78号から84号)をあわせて読む(78号が出ます)
そして「こだわり」を“荷物”に「世間の常識」を“よろい”に、それぞれたとえ“よろい”を脱ぐことも“荷物”を捨てることもなかなかできないことにふれました。
今回は、その理由を考えてみます。
第一に「自尊心」です。論考で、私はこう述べました。
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人は「今」を生きています。たとえその生き方に誤りや無理がありそのために自分がどんなに苦しくても、自分の人生を真剣に生きていることには違いない、ということは、誰にも譲れない一線なのです。
このようなプライド(自尊心)は、人が生きていくためには必要不可欠なものだと思います。(82号)
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第二に、これは論考には書かなかったことですが「価値観・美学」です。彼らは「自分はこういう人間であるはずだ」という“信じたい自己像”と「自分はこういう人生を送りたい」という“望む生き方”と「人間はこうあるべきだ」という“倫理観”を持っています。
にもかかわらず「学校に行けない」「社会に出られない」といった自分の現状は、まさに自分自身の価値観・美学に背くものであり、屈辱的なものです。そのため、価値観・美学(これじたいが“荷物”でもあるわけですが)を捨てるのではなく。価値観・美学に自分を合わせることを、彼はひたすらめざしているのです。
第三に、執着心を捨てられない状況です。これは、論考でお話ししたように“荷物”について特に言えることです。つまり、親との関係など、独自のコミュニケーションがあり、かつ表面化しにくく、周囲の理解も得られにくい“荷物”を抱えていると、お互いに意地を張ってしまったりしていて「ああでもないこうでもない」と堂々めぐりする悪循環から、抜け出すことが難しいわけです。
最後に、そもそも“荷物”や“よろい”を捨てることが、彼らにとってどういうことなのか、ということです。
これは、論考でお話ししたように“よろい”について特に言えることです。論考で私は、こう書きました。
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今の自分の生き方は、自分が育ってくるなかで身につけてきた生き方です。これを否定すれば、自分のそれまでの十何年、二十何年の人生が否定されるように感じるのは、当然のことだと思うのです。
「“よろい”を脱ぐ」ということは「今までの生き方を否定する」という、辛いプロセスを通過しないと、できないことなのです。
彼らにとって「“よろい”を着ている自分」と「“よろい”を着ていない自分」は、別人だからです。
たとえて言うと、彼らにとって「“よろい”を脱ぐ」ことは「生まれ変わる」ことと同じなのです(この「生まれ変わる」ということについては、35号のコラム『生まれ変わるための闘い』をご参照ください)。(82号)
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以上のように見ると、不登校児やひきこもり青年は「ころんでもただでは起きない」人たちであることがうかがえます。“荷物”や“よろい”を捨てることがそう簡単ではないことが、想像できると思います。
それでは、そんな彼らが“荷物”や“よろい”を捨てることができるようになるためには、どうすればよいのでしょうか。
前号でもふれたように、通常「こだわりを捨てる」とは「“荷物”を捨てる」ことだと考えられがちです。そのため、周囲は常に「本人が病的なこだわりを捨てればいい」とだけ考え、それを本人に要求する、という対応が一般的です。
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そうすると、本人と周囲とのコミュニケーションが“荷物”のことに集中します。そのため、本人は“荷物”への関心がかえって強まり捨てることがますます難しくなってしまいます。(78号)
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このような状況に対して「“よろい”を脱ぐ」ことのほうが重要だ、という考え方が、この20年くらいの間に徐々に広まってきました。「おかしいのは本人より社会のほうである」という視点が台頭してきたのです。
この視点は、本人への対応に画期的な変化をもたらしました。つまりこういうことです。
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“荷物”を捨てることは、周囲の人々はそのままで、本人だけにやらせればいいことです。それに対し“よろい”を脱ぐことは、まず周囲の人々がやらない限り、本人にやらせることは困難です。
周囲の人々が、世間の常識を持ったまま、本人に「常識を捨てろ」と言っても、説得力はゼロだからです。
その結果、周囲の人々は、本人への対立的意識がなくなるだけでなく「世間の常識に縛られて生きてきた者どおし」としての共感・連帯感が生まれます。そして「本人を世間の常識に従わせる」のではなく
「本人が自分の意思に従って生きることを応援する」というスタンスになるわけです。(81号)
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このように“荷物”を捨てさせることより“よろい”を脱がせることのほうが、理解ある対応だと言えます。しかし、ここで考えなければならないことがあるのです。それは次回に。
2005.10.19 [No.110]
文中「論考」と呼んでいる部分(78号から84号)をあわせて読む(78号が出ます)