ヒュースタ日誌

相談機関「ヒューマン・スタジオ」の活動情報、ホームページ情報(新規書き込み・更新)を掲載しています。

秋季休業のお知らせ

2012年11月26日 15時19分19秒 | 運営
 10日付本欄でお伝えしたとおり、勝手ながら当スタジオは明日からの4日間を「秋休み」とさせていただきます。

 期間中、お電話は代表の携帯に転送されますが、メールにはお返事できませんので、お急ぎの方はお電話をお願いいたします。

 また、申込受付中の「メールマガジン『ごかいの部屋~不登校・ひきこもりから社会へ~』創刊10周年記念懇談会」(略称「ご10会」)のお申し込みは、FAXかメールでお願いいたします。休業明けの12月1日(土)に、申込受理ならびに案内書請求へのお返事をまとめてさせていただきます。ご了承ください。

 日に日に寒さが募ってくるこの頃、そうぞお体にお気をつけてお過ごしください。


業務カレンダーで今月の運営日程を確認する
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メルマガ創刊10周年記念イベント申込状況(1)

2012年11月24日 13時07分52秒 | 記念企画
 12月15日に開催する「メールマガジン『ごかいの部屋~不登校・ひきこもりから社会へ~』創刊10周年記念懇談会」(略称「ご10会」)の申込状況を、今週から土曜日ごとに報告していきます。

 きのうまでの時点で「残席数10席」(15席中)です。

 ただし、参加すると発言しながらお申し込みが済んでいない方がいらっしゃいますので、実際には半数程度が埋まったと考えてよさそうです。

 広報作業もまだ途中ですので、今後より多くの方に知っていただけることを期待しています。

 会場のテーブル配置がロの字型のため増席できませんので、事前のお申し込みをお願いいたします。

「ご10会」の詳細を確認する
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コラム再録(7)『適応力より自律力』

2012年11月21日 14時17分43秒 | メルマガ再録
 不登校やひきこもりのお子さんを持つ親御さんのお話をうかがっていると、学校や社会に出られなくても、塾やお稽古事の教室、単発のボランティアなどに出かけることや、友だちと遊ぶことができる――本来適応すべきとされている以外の場なら参加できる――不登校児やひきこもり青年が少なくない、という印象を受けます。

 言い換えれば「自分で選んだ場に参加している」というわけです。

 そういう本人に対して、親御さんをはじめ周囲の人々は「そういう力があるのに学校・社会に適応できないのは、逃げているから」とか「そういうことしかできない(自分の好きな場にしか参加できない)わがままな連中」などと、彼らのことを評価します。

 彼らは、自分で選んだ場に参加しているのに、なぜ学校・社会に適応できないのでしょうか。

 私が不登校だった高校2年目(2回目の1年生)の夏休みのことです。
父の知り合いから「自分の兄夫婦が子どもキャンプをやるので、ボランティアで手伝わないか」という誘いを受けました。
 前半の3日間は、奥様が主催する「子ども会」のキャンプ、後半の4日間は、旦那様が自営している子ども支援団体主催のキャンプ、ということでした。

 学校には時々行くが、それ以外には外出できない私も「夏休みなら大丈夫だし、面白そうだ」と思って参加することにしました。

 どちらのキャンプも、中学生から大学生までのボランティア数人が、参加した小学生をサポートする、というシステムです。私は、かわいい子どもたちと共に過ごした楽しい時間が素晴らしい思い出になっただけでなく、ほかのボランティアと同等に扱われ、与えられた役割を果たしたことで自信がつきました。
 そのため私は「夏休み明けの2学期からは学校に完全復帰できるぞ」と確信しました。

 ところが、夏休みが終わって2学期が始まっても、私は夏休み前と同じように、時々登校することしかできませんでした。

 夏休み中にキャンプでのボランティア活動ができたことは、学校への完全復帰とは関係なかったのです。

 そこで、学校や社会に適応することと、自分で選んだ場に参加することの違いを考えてみましょう。

 学校や社会は、社会通念上誰もが適応するのが当たり前という「標準」として存在している世界です。
 ですから、そこに適応するのは人として必須のことだと誰もが信じています。

 それに対し、塾やお稽古事の教室、あるいはボランティア活動や友だちとの遊び、という場は、誰もが適応するのが当たり前の世界ではありません。

 ですから、やることは個人個人がそのなかから必要に応じて選べばよく、友だちも気の合う人を選べばよいわけです。そして、選んだ場や友だちとの関係に適応すれば足りるわけです。

 このように見ると、前者は他律的な場で、後者は自律的な場、ということになります。
 つまり両者は、かなり違う性質を持った世界です。ということは、前者に適応するのと後者に適応するのとでは、使う力が違うのです。

 前者に適応するために使う力は、好むと好まざるとに関わらず、一律に適応しなければならない世界で使う力ですから、そのまま「適応力」と名づけましょう。
 この適応力は、おもに「社会→(学校→)親→自分」という経路で与えられるものです。

 後者に適応するために使う力は、自分で判断する力ですから「自律力」と名づけましょう。
 この自律力は、主に自分のなかから生まれるものです。

 「不登校児やひきこもり青年は力がない」とよく言われますが、その場合は「適応力」だけを指しています。しかし今お話ししたように、人の力には2種類あるのです。そして、自分で選んだ場に参加する不登校児やひきこもり青年には「自律力」だけは備わっている、と言えるわけです。

 一般に「支援」と言うときには、適応力をつけることを指していますが、それでは宝の持ち腐れです。

 逆に、自律力を活かすことを念頭に支援していけば、本人は学校や社会に「支援のおかげで適応できた」ということではなく「自分の力で参加できた」ということになります。 そういうプロセスを歩むことができれば、自分の人生への深い納得と、自己肯定感と生きる喜びを得られます。そしてそれこそ、生きる力の源泉なのです。

 「学校や社会では自分の思いどおりにはならない。適応力がついていなければ、自律力だけで参加できても、周囲とうまくいかなかったときに折り合いをつけることができずに挫折して、不登校・ひきこもりに逆戻りするのが関の山だ」
 などという反論が返ってくるかと思います。

 ふたつの力は両立しないのでしょうか。次回考えましょう。


続けて次の号を読む
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コラム再録(7)掲載のお知らせ

2012年11月21日 13時54分49秒 | メルマガ再録
 先月から3か月間、メールマガジン『ごかいの部屋~不登校・ひきこもりから社会へ~』の創刊10周年を記念して設定した「ごかいの四半期」。期間通しで実施する唯一の記念企画「コラム再録」は、10年間に掲載したコラム(本文)166本のうち、ご好評をいただいたもの10本を選りすぐり、原則として配信日を除く毎週水曜日の午後2時に1本ずつ本欄に転載していくものです。


 第7回のきょうは、5年前の8月配信号に掲載した『適応力より自律力』を転載します。

 筆者が不登校だった高校2年目の夏休み中「一般の小学生を対象にした子どもキャンプでボランティアをして自信をつけたのに、学校への完全復帰ができなかった」という体験から「学校や社会に適応することと自分で選んだ場に参加することの違い」を考察し、前者を「適応力を使うこと」と、後者を「自律力を使うこと」と論じた文章です。

 このふたつのキーワードは、次の号に掲載した『イチロー選手に学ぶ自律と適応』で提示した「適応力は、自律力のあとに自然についてくる」という主張とあわせて読者の注目を集めたようで「この考え方を自分の生き方の参考にした」と述懐する当事者の方もおられました。

 不登校やひきこもりの青少年に適応力さえ身につけさせれば、本人が満足できる解決につながるのかどうかを、このあと掲載する文章とその末尾にリンクする次の号を続けてお読みのうえお考えいただき、よろしければコメントをいただければなお幸いです。


 では、このあと掲載します。


【おことわり】
 前記「次の号」は、通常使用しているサイトに不具合が発生していてアクセスできないため、違うサイトにリンクさせています。通常使用しているサイトにアクセスできるようになりましたらリンク先を戻します。ご了承ください。
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メールマガジン『ごかいの部屋~不登校・ひきこもりから社会へ~』創刊10周年記念懇談会のお知らせ

2012年11月15日 17時18分07秒 | 記念企画
 当スタジオの目玉業務として各方面から高く評価されているメールマガジン『ごかいの部屋~不登校・ひきこもりから社会へ~』が、10月に創刊10周年を迎えたことを記念して、12月15日(土)に標記ミニ集会を開催いたします。

 前半は筆者と愛読者による『ごかいの部屋』に関する話、後半は参加者全員による不登校・ひきこもりに関するフリートーク、という内容です。

 愛読者は「研究者」「当事者」「親」それぞれのお立場ごとにお願いした結果、『ひきこもりの<ゴール>――「就労」でもなく「対人関係」でもなく』著者の石川良子さん、『安心ひきこもりライフ』著者の勝山実さん、親の会を主宰しているお二人の親御さん、の4名がお話しくださることになりました。

 前後半を通じて『ごかいの部屋』が提示している不登校・ひきこもり論をお伝えするだけでなく、青少年の不登校・ひきこもりへの理解と対応についていろいろな立場の方のお話を聞いたり参加者全員で自由に話し合ったりすることを通じて深く考え合うことを目的としています。

 そのため『ごかいの部屋』の読者やお読みになったことのある方だけでなく、青少年の不登校・ひきこもりに関心ある方ならどなたにもお役立ていただけるイベントです。

 詳細は下記をご覧のうえ、ふるってご参加ください。

詳細を見る
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コラム再録(6)『本人の変わりにくさにどう寄り添うか〔下〕寄り添い続けるということ』

2012年11月14日 13時47分13秒 | メルマガ再録
 前号で私は、去年の春から夏にかけて書いた論考をもとに、不登校児やひきこもり青年が「強いこだわり(自分のこだわり=“荷物”と世間の常識=“よろい”)」をなかなか捨てられない理由と、捨てさせるための対応の変遷について述べました。

 そして“荷物”を捨てさせるより“よろい”を脱がせるほうが、理解のある対応だと指摘しました。

 ところが、ここで考えるべきことがあります。それは、本人のことではなく周囲の人たちの問題です。


++++++++++

 そのため、本人に早く“よろい”を脱いでほしいと願っている親御さんや関係者たちは「“よろい”を脱ぐことを勧める対応は適切である」という確信と、にもかかわらずその対応を受け入れない本人に対する「なぜだろう」「歯がゆい」といった気持ちを、抱きがちです。
 しかし、周囲の人々のこのような気持ちは“よろい”をなかなか脱ぐことができないでいる本人の気持ちに合っているでしょうか?(81号)

++++++++++


 よく考えてみると「“よろい”を脱がせる」は「“荷物”を捨てさせる」と同様「○○させる」という強制的なニュアンスを含んでいます。
 つまり、どちらの対応も「べき」論(“荷物”を捨てるべき、“よろい”を脱ぐき)、すなわち「正論」にもとづいて行われるわけです。

 周囲の側は「“荷物”を捨てる」「“よろい”を脱ぐ」という望ましい結果、つまりめざすべき地点から逆算して、本人を見ているわけです。
 そのため、本人が“荷物”を捨てたり“よろい”を脱いだりできないと、周囲は「なぜできない?」と不思議に思ってしまいます。

 周囲のこのような反応は、本人にとっては、自分の現状を否定する、共感のないただの「命令」「押しつけ」にしか感じられないものです。
 これでは、いくら「“荷物”を捨てさせる対応」から「“よろい”を脱がせる対応」に変わっても、本人は「自分のことを理解してくれた」とは思えないわけです。

 近年、不登校やひきこもりの経験者による体験発表や手記などが増えています(このメルマガも一部そういう要素が含まれています)。経験者は、自分がいかにして“荷物”を捨てたり“よろい”を脱いだりできたかを語ることが少なくありません。なかには<あとに続く後輩(=現在不登校やひきこもりでいる人)>に“荷物”や“よろい”を捨てるこ
とを勧める人もいるでしょう。

 「“先人の教え”の押しつけがましさ」という感覚を経験した覚えのある方がいらっしゃると思います。
 現在不登校やひきこもりでいる人のなかに<先輩>の体験談を、聞いたり読んだりすることを苦痛に感じる人がいるのは、この「押しつけがましさ」を感じるからだと思います。

 つまり、彼らにとって<先輩>の体験談は、今述べている「“荷物”を捨てるべき」「“よろい”を脱ぐべき」という、自分の現状を否定するニュアンスを感じてしまうからだと考えられるわけです。

 それでは、このような複雑な感情を抱いて生きている本人に対して、周囲はどのように対応すればよいのでしょうか。

 まず“荷物”を捨てさせる対応です。論考では、イソップ童話『北風と太陽』を引用しながら述べました。

 ご存知のとおり、これは、北風と太陽が、どちらが早く旅人のマントを脱がせることができるか勝負し、北風が旅人のマントを吹き飛ばそうとしたが、旅人がマントをしっかり押さえて離さなかった。しかし太陽が旅人の体を暖めていくうち、旅人は暑くなってマントを脱いだ--という話です。

 私はこの話を、北風は旅人のマントにねらいを定めたのに対し、太陽は旅人の体とその周辺の空気にねらいを定めた--旅人がマントを必要としない環境を創り出した--と解釈しました。
 それを本人への対応に当てはめると、こうなります。

 “荷物”を捨てられない本人に対して、周囲が“荷物”を捨てさせようとすると、本人は“荷物”を奪われまいとして、ますます“荷物”をしっかり握って、離そうとしなくなります。逆に本人がひっかかっていることを否定せず、むしろその解決を手伝って“荷物”を軽くしたり、“荷物”以外の面に関心を移す、といったことで“荷物”を必要としなくなる環境を創り出せば、本人は“荷物”が気にならなくなるわけです。

 次は“よろい”を脱がせる対応です。論考では「本人の望むとおりにさせること」という、根本的で少々過激な方法を提案しました。

 前々号で述べたように、彼らは、内申点の関係で普通高校に進学することが不可能なのに、フリースクールを選択肢に加えることを拒否したり、ボランティアやアルバイトをせず、最初から正社員として就職することをめざしたりします。

 そのような「“普通の人生”“常識的なプロセス”をあきらめきれない」という本人の「今の思い」を、否定せずに支持し、思いに沿った行動に協力する意思を伝えることです。
 もちろん本人の状態からして、行動に移せずじまいに終わったり、行動しても失敗したりする可能性が高いでしょう。

 でもそのときこそ、そういう自分の現実を受け入れ“よろい”を脱がなければならない本人の苦しみを支えるという「対応」が始まるのです。
 「無条件の肯定」です。寄り添い続けるのです。


2005.11.02 [No.111]


文中「論考」と呼んでいる部分(78号から84号)をあわせて読む(78号が出ます)
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コラム再録(6)掲載のお知らせ

2012年11月14日 13時23分11秒 | メルマガ再録
 先月から3か月間、メールマガジン『ごかいの部屋~不登校・ひきこもりから社会へ~』の創刊10周年を記念して設定した「ごかいの四半期」。期間通しで実施する唯一の記念企画「コラム再録」は、10年間に掲載したコラム(本文)166本のうち、ご好評をいただいたもの10本を選りすぐり、原則として配信日を除く毎週水曜日の午後2時に1本ずつ本欄に転載していくものです。


 第6回のきょうは、8年前に“「荷物」と「よろい」シリーズ”ともいうべき7回にわたって執筆した文章を、翌年に3回完結に再構成し一部加筆した連載「本人の変わりにくさにどう寄り添うか」の最終回を転載します。

 先週転載した第2回の最後に書かれている「本人に“荷物”を捨てさせる(=自分のこだわりを捨てさせる)ことより“よろい”を脱がせる(=世間の常識を捨てさせる)ことのほうが理解ある対応だが、ここで考えなければならないことがある」という点について詳しく論じたうえ、どういう考え方で対応すれば本人が“荷物”を捨てやすく、また“よろい”を脱ぎやすくなるか、について有名な童話を引用するなどして提唱して3回のまとめとしています。

 先々週からの3回分をすべてお読みいただき、よろしければコメントをいただければなお幸いです。


 では、このあと掲載します。
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業務カレンダーに11月の予定を掲載

2012年11月10日 16時20分08秒 | ホームページ
 3分の1を過ぎてしまいましたが、きょう今月の業務日程を入力しました。

 今月の当スタジオは、先月とはうって変わって公開業務も代表の用事もほとんどないため、原則休業日のなかに開けている(青字で「お問い合わせ・ご利用 可」となっている)日があります。ご確認ください。

 なお、4月28日の本欄でお知らせしたとおり、今月は「秋季休業」をとらせていただきます。期間は第4週の水・木とその前後の原則休業日で、この4日間を完全休業させていただきます。

 また、今月はメールマガジン『ごかいの部屋~不登校・ひきこもりから社会へ~の』号外の配信とニューズレター「ヒュースタ通心」の発行がありますので、メルマガの配信予定日を入力しましたが、ニューズレターの発行日は決まりしだい入力いたします。

 そのほか原則休業日の内容(お問い合わせ・ご利用の可否)を変更させていただく場合もありますので、随時ご確認くださいますようお願いいたします。

 今年は気象条件により紅葉の色づきが鮮やかになるとか。ご家族で楽しまれてはいかがでしょうか。


11月の業務カレンダーを見る
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コラム再録(5)『本人の変わりにくさにどう寄り添うか〔中〕“荷物”と“よろい”を捨てられないわけ』

2012年11月08日 14時20分52秒 | メルマガ再録
 前号で私は、去年の春から夏にかけて書いた論考をもとに、不登校児やひきこもり青年によく見られる「強いこだわり」には、文字どおりの「こだわり」と、社会から与えられ取り込んだ「世間の常識」の、ふたつの種類があることをお話しました。

 そして「こだわり」を“荷物”に「世間の常識」を“よろい”に、それぞれたとえ“よろい”を脱ぐことも“荷物”を捨てることもなかなかできないことにふれました。
 今回は、その理由を考えてみます。

 第一に「自尊心」です。論考で、私はこう述べました。


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 人は「今」を生きています。たとえその生き方に誤りや無理がありそのために自分がどんなに苦しくても、自分の人生を真剣に生きていることには違いない、ということは、誰にも譲れない一線なのです。
 このようなプライド(自尊心)は、人が生きていくためには必要不可欠なものだと思います。(82号)

++++++++++


 第二に、これは論考には書かなかったことですが「価値観・美学」です。彼らは「自分はこういう人間であるはずだ」という“信じたい自己像”と「自分はこういう人生を送りたい」という“望む生き方”と「人間はこうあるべきだ」という“倫理観”を持っています。

 にもかかわらず「学校に行けない」「社会に出られない」といった自分の現状は、まさに自分自身の価値観・美学に背くものであり、屈辱的なものです。そのため、価値観・美学(これじたいが“荷物”でもあるわけですが)を捨てるのではなく。価値観・美学に自分を合わせることを、彼はひたすらめざしているのです。

 第三に、執着心を捨てられない状況です。これは、論考でお話ししたように“荷物”について特に言えることです。つまり、親との関係など、独自のコミュニケーションがあり、かつ表面化しにくく、周囲の理解も得られにくい“荷物”を抱えていると、お互いに意地を張ってしまったりしていて「ああでもないこうでもない」と堂々めぐりする悪循環から、抜け出すことが難しいわけです。

 最後に、そもそも“荷物”や“よろい”を捨てることが、彼らにとってどういうことなのか、ということです。
 これは、論考でお話ししたように“よろい”について特に言えることです。論考で私は、こう書きました。


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 今の自分の生き方は、自分が育ってくるなかで身につけてきた生き方です。これを否定すれば、自分のそれまでの十何年、二十何年の人生が否定されるように感じるのは、当然のことだと思うのです。
 「“よろい”を脱ぐ」ということは「今までの生き方を否定する」という、辛いプロセスを通過しないと、できないことなのです。
 彼らにとって「“よろい”を着ている自分」と「“よろい”を着ていない自分」は、別人だからです。
 たとえて言うと、彼らにとって「“よろい”を脱ぐ」ことは「生まれ変わる」ことと同じなのです(この「生まれ変わる」ということについては、35号のコラム『生まれ変わるための闘い』をご参照ください)。(82号)

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 以上のように見ると、不登校児やひきこもり青年は「ころんでもただでは起きない」人たちであることがうかがえます。“荷物”や“よろい”を捨てることがそう簡単ではないことが、想像できると思います。

 それでは、そんな彼らが“荷物”や“よろい”を捨てることができるようになるためには、どうすればよいのでしょうか。

 前号でもふれたように、通常「こだわりを捨てる」とは「“荷物”を捨てる」ことだと考えられがちです。そのため、周囲は常に「本人が病的なこだわりを捨てればいい」とだけ考え、それを本人に要求する、という対応が一般的です。


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 そうすると、本人と周囲とのコミュニケーションが“荷物”のことに集中します。そのため、本人は“荷物”への関心がかえって強まり捨てることがますます難しくなってしまいます。(78号)

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 このような状況に対して「“よろい”を脱ぐ」ことのほうが重要だ、という考え方が、この20年くらいの間に徐々に広まってきました。「おかしいのは本人より社会のほうである」という視点が台頭してきたのです。
 この視点は、本人への対応に画期的な変化をもたらしました。つまりこういうことです。


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 “荷物”を捨てることは、周囲の人々はそのままで、本人だけにやらせればいいことです。それに対し“よろい”を脱ぐことは、まず周囲の人々がやらない限り、本人にやらせることは困難です。
 周囲の人々が、世間の常識を持ったまま、本人に「常識を捨てろ」と言っても、説得力はゼロだからです。
 その結果、周囲の人々は、本人への対立的意識がなくなるだけでなく「世間の常識に縛られて生きてきた者どおし」としての共感・連帯感が生まれます。そして「本人を世間の常識に従わせる」のではなく
 「本人が自分の意思に従って生きることを応援する」というスタンスになるわけです。(81号)

++++++++++


 このように“荷物”を捨てさせることより“よろい”を脱がせることのほうが、理解ある対応だと言えます。しかし、ここで考えなければならないことがあるのです。それは次回に。

2005.10.19 [No.110]


文中「論考」と呼んでいる部分(78号から84号)をあわせて読む(78号が出ます)
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コラム再録(5)掲載のお知らせ

2012年11月08日 14時07分38秒 | メルマガ再録
 先月から3か月間、メールマガジン『ごかいの部屋~不登校・ひきこもりから社会へ~』の創刊10周年を記念して設定した「ごかいの四半期」。期間通しで実施する唯一の記念企画「コラム再録」は、10年間に掲載したコラム(本文)166本のうち、ご好評をいただいたもの10本を選りすぐり、原則として配信日を除く毎週水曜日の午後2時に1本ずつ本欄に転載していくものです。


 第5回は、事情により1日遅れとなりましたが、8年前に“「荷物」と「よろい」シリーズ”ともいうべき7回にわたって執筆した文章を、翌年に3回完結に再構成し一部加筆した連載「本人の変わりにくさにどう寄り添うか」の第2回を転載します。

 先週転載した第1回に述べられていたことをもとに「本人が“よろい”を脱ぐ(=世間の常識を捨てる)ことや“荷物”を捨てる(=自分のこだわりを捨てる)こと」が難しい理由を挙げたうえ、それらに対する周囲の対応の傾向について概観しています。

 先週転載した第1回のほうとあわせてお読みいただき、よろしければコメントをいただければなお幸いです。


 では、1日と1時間くらい遅くなりましたがこのあと掲載します。
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