不登校やひきこもりのお子さんを持つ親御さんのお話をうかがっていると、学校や社会に出られなくても、塾やお稽古事の教室、単発のボランティアなどに出かけることや、友だちと遊ぶことができる――本来適応すべきとされている以外の場なら参加できる――不登校児やひきこもり青年が少なくない、という印象を受けます。
言い換えれば「自分で選んだ場に参加している」というわけです。
そういう本人に対して、親御さんをはじめ周囲の人々は「そういう力があるのに学校・社会に適応できないのは、逃げているから」とか「そういうことしかできない(自分の好きな場にしか参加できない)わがままな連中」などと、彼らのことを評価します。
彼らは、自分で選んだ場に参加しているのに、なぜ学校・社会に適応できないのでしょうか。
私が不登校だった高校2年目(2回目の1年生)の夏休みのことです。
父の知り合いから「自分の兄夫婦が子どもキャンプをやるので、ボランティアで手伝わないか」という誘いを受けました。
前半の3日間は、奥様が主催する「子ども会」のキャンプ、後半の4日間は、旦那様が自営している子ども支援団体主催のキャンプ、ということでした。
学校には時々行くが、それ以外には外出できない私も「夏休みなら大丈夫だし、面白そうだ」と思って参加することにしました。
どちらのキャンプも、中学生から大学生までのボランティア数人が、参加した小学生をサポートする、というシステムです。私は、かわいい子どもたちと共に過ごした楽しい時間が素晴らしい思い出になっただけでなく、ほかのボランティアと同等に扱われ、与えられた役割を果たしたことで自信がつきました。
そのため私は「夏休み明けの2学期からは学校に完全復帰できるぞ」と確信しました。
ところが、夏休みが終わって2学期が始まっても、私は夏休み前と同じように、時々登校することしかできませんでした。
夏休み中にキャンプでのボランティア活動ができたことは、学校への完全復帰とは関係なかったのです。
そこで、学校や社会に適応することと、自分で選んだ場に参加することの違いを考えてみましょう。
学校や社会は、社会通念上誰もが適応するのが当たり前という「標準」として存在している世界です。
ですから、そこに適応するのは人として必須のことだと誰もが信じています。
それに対し、塾やお稽古事の教室、あるいはボランティア活動や友だちとの遊び、という場は、誰もが適応するのが当たり前の世界ではありません。
ですから、やることは個人個人がそのなかから必要に応じて選べばよく、友だちも気の合う人を選べばよいわけです。そして、選んだ場や友だちとの関係に適応すれば足りるわけです。
このように見ると、前者は他律的な場で、後者は自律的な場、ということになります。
つまり両者は、かなり違う性質を持った世界です。ということは、前者に適応するのと後者に適応するのとでは、使う力が違うのです。
前者に適応するために使う力は、好むと好まざるとに関わらず、一律に適応しなければならない世界で使う力ですから、そのまま「適応力」と名づけましょう。
この適応力は、おもに「社会→(学校→)親→自分」という経路で与えられるものです。
後者に適応するために使う力は、自分で判断する力ですから「自律力」と名づけましょう。
この自律力は、主に自分のなかから生まれるものです。
「不登校児やひきこもり青年は力がない」とよく言われますが、その場合は「適応力」だけを指しています。しかし今お話ししたように、人の力には2種類あるのです。そして、自分で選んだ場に参加する不登校児やひきこもり青年には「自律力」だけは備わっている、と言えるわけです。
一般に「支援」と言うときには、適応力をつけることを指していますが、それでは宝の持ち腐れです。
逆に、自律力を活かすことを念頭に支援していけば、本人は学校や社会に「支援のおかげで適応できた」ということではなく「自分の力で参加できた」ということになります。 そういうプロセスを歩むことができれば、自分の人生への深い納得と、自己肯定感と生きる喜びを得られます。そしてそれこそ、生きる力の源泉なのです。
「学校や社会では自分の思いどおりにはならない。適応力がついていなければ、自律力だけで参加できても、周囲とうまくいかなかったときに折り合いをつけることができずに挫折して、不登校・ひきこもりに逆戻りするのが関の山だ」
などという反論が返ってくるかと思います。
ふたつの力は両立しないのでしょうか。次回考えましょう。
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