当メルマガ8年目の最後の号になりました。
この8年間、151本のコラムをたくさんの方がお読みくださり、それぞれ参考にしてくださっていると思います。そして、お立場により状況により、読み取り方もさまざまだと思います。
前々号で私は「いつまで同じことを続けなければならないの?」という親御さんの言葉に対して、第一に「納得できる対応を見出すことが必要」と、第二に「どんなに適切な対応であっても、効果が出るまでにはタイムラグ(時間のずれ)がある」とお話ししました。
なかでも第一の説明のなかで「まずはその指示の真意をさらに問い直すこと(誤解なさっている方もいらっしゃいます)」と提案しました。
と申しますのも、親御さんが「いつまで同じことを続けなければならないの?」とおっしゃりたくなる理由のひとつに<受容><肯定>といった用語を誤解なさっているケースがあると感じるからです。
たとえば、当メルマガやそれを活字化した「ワンポイントブックレット」の読者のなかに、対応に関する私の意見を「本人のしたいようにさせておく」とか「本人が気づくまで放っておく」などと読み取り「それに従ってわが子の荒れに耐えているが、そういう対応をいつまで続けなければならないのか?」とおっしゃった方がおられるのです。
確かに、私は「不登校・ひきこもりの“終わらせ方”はない」「堂々巡りは本人にしかやめられない」などと「本人しだい」であることを強調してきましたし、111号では「無条件の肯定です。寄り添い続けるのです」と書いています。
そのあたりを捉えて「本人に働きかけてはならない」「本人に何をされても止めてはならない」などと読み取ってしまわれている方がいらっしゃるのかもしれません。
ほかにも、かつてインターネットのある掲示版で「<受容>という言葉を自分に言い聞かせて、わが子からの暴力や使い走りさせられることに耐えている、でもこのままでいいのかとも思う」という親御さんの書き込みを見たこともあります。
<受容><肯定>などの言葉の難しさ、危うさを自戒させられる思いです。
ちなみに、私は<肯定>という言葉はよく使いますが、当コラムのなかでは<受容>という言葉は一度も使ったことがないと思います。
そこで、私が考えるこれらの言葉の意味をご説明します。
もともと不登校・ひきこもりは、一般に「周囲の対応・支援によって直すべきもの」「一日も早く本人を学校/社会に復帰させられる即効的な対応・支援すべきもの」などと捉えられています。
それに対して私は「本人の生きざまであり、無理にやめさせるべきものではなく、本人が自分の足で踏破する(歩き通す)ことを応援すべきものである」と考えています。
そのため、相談場面でも当メルマガでも「本人の気持ちを理解し、その意思を尊重しながら、本人にも周囲にも無理のない自然な対応を積み重ねる」という考え方とその方法を、繰り返し提案しているわけです。
このような言説には、確かに<受容><肯定>などの言葉がよく似合います。
ただし、重要なのはその中身です。すなわち「何を<受容>するか」「何を<肯定>するか」ということです。
123号で述べた「青少年の心には二つの窓口がある」を、ここでの説明に適した表現に書き変えてみましょう。
――人の心には、相手の言動(発言と行動)を受け取る<行の窓口>と、相手の心情(愛情や気持ち)を受け取る<情の窓口>があり、<行の窓口>は「意識」に、<情の窓口>は「無意識」に通じている。
――そのため、相手の言動(発言と行動)は「意識」に届くからすぐ気づくが、相手の心情(愛情や気持ち)は「無意識」に届くからすぐには気づかない(「無意識」の部分は自分では気づきにくいから)。
どうでしょうか。「本人を受容/肯定する」と聞いて、わが子の言動(発言と行動)を「受容/肯定する」と解釈なさってはいないでしょうか。
本人が望んでいるのは「自分の言動(発言と行動)」ではなく、その奥底にある「自分の心情(愛情や気持ち)」を「受容/肯定する」ことなのではないでしょうか。
たとえば、暴力や暴言、無茶な要求を受け入れ続けていて、それらがエスカレートしたり、いつまでたっても止まらなかったりしていないでしょうか。
そのときの本人は「のれんに腕押し」の心境かもしれません。「親が反応しない」あるいは「親が心にもない反応を返している」と感じるからです。そういうもどかしさから、ますますいら立って「これでもか、これでもか」とエスカレートしたり際限なく続けたりするのではないでしょうか。
つまり、本人がそのように感じるのは、親御さんが本人の言動に対して、ご自身に生じた感情を無理に抑えている結果、本人との「心情の交流の回路」が閉ざされているからではないか、と思われるのです。
本人の暴力や暴言、無茶な要求は、本人の心情(焦りや自己否定感や理解してほしい気持ちなど)の表現なのです。だとすれば、それに対する親の心情が返ってきて初めて、本人は親と心情で交流している実感が得られ、徐々に感情がやわらいでいきます。そして本人が求めているのは、親の「わが子の心情を受容/肯定しようとする心情」なのです。
2010.9.8 [No.181]
「肯定」のほうについて書かれている号をあわせて読む
この8年間、151本のコラムをたくさんの方がお読みくださり、それぞれ参考にしてくださっていると思います。そして、お立場により状況により、読み取り方もさまざまだと思います。
前々号で私は「いつまで同じことを続けなければならないの?」という親御さんの言葉に対して、第一に「納得できる対応を見出すことが必要」と、第二に「どんなに適切な対応であっても、効果が出るまでにはタイムラグ(時間のずれ)がある」とお話ししました。
なかでも第一の説明のなかで「まずはその指示の真意をさらに問い直すこと(誤解なさっている方もいらっしゃいます)」と提案しました。
と申しますのも、親御さんが「いつまで同じことを続けなければならないの?」とおっしゃりたくなる理由のひとつに<受容><肯定>といった用語を誤解なさっているケースがあると感じるからです。
たとえば、当メルマガやそれを活字化した「ワンポイントブックレット」の読者のなかに、対応に関する私の意見を「本人のしたいようにさせておく」とか「本人が気づくまで放っておく」などと読み取り「それに従ってわが子の荒れに耐えているが、そういう対応をいつまで続けなければならないのか?」とおっしゃった方がおられるのです。
確かに、私は「不登校・ひきこもりの“終わらせ方”はない」「堂々巡りは本人にしかやめられない」などと「本人しだい」であることを強調してきましたし、111号では「無条件の肯定です。寄り添い続けるのです」と書いています。
そのあたりを捉えて「本人に働きかけてはならない」「本人に何をされても止めてはならない」などと読み取ってしまわれている方がいらっしゃるのかもしれません。
ほかにも、かつてインターネットのある掲示版で「<受容>という言葉を自分に言い聞かせて、わが子からの暴力や使い走りさせられることに耐えている、でもこのままでいいのかとも思う」という親御さんの書き込みを見たこともあります。
<受容><肯定>などの言葉の難しさ、危うさを自戒させられる思いです。
ちなみに、私は<肯定>という言葉はよく使いますが、当コラムのなかでは<受容>という言葉は一度も使ったことがないと思います。
そこで、私が考えるこれらの言葉の意味をご説明します。
もともと不登校・ひきこもりは、一般に「周囲の対応・支援によって直すべきもの」「一日も早く本人を学校/社会に復帰させられる即効的な対応・支援すべきもの」などと捉えられています。
それに対して私は「本人の生きざまであり、無理にやめさせるべきものではなく、本人が自分の足で踏破する(歩き通す)ことを応援すべきものである」と考えています。
そのため、相談場面でも当メルマガでも「本人の気持ちを理解し、その意思を尊重しながら、本人にも周囲にも無理のない自然な対応を積み重ねる」という考え方とその方法を、繰り返し提案しているわけです。
このような言説には、確かに<受容><肯定>などの言葉がよく似合います。
ただし、重要なのはその中身です。すなわち「何を<受容>するか」「何を<肯定>するか」ということです。
123号で述べた「青少年の心には二つの窓口がある」を、ここでの説明に適した表現に書き変えてみましょう。
――人の心には、相手の言動(発言と行動)を受け取る<行の窓口>と、相手の心情(愛情や気持ち)を受け取る<情の窓口>があり、<行の窓口>は「意識」に、<情の窓口>は「無意識」に通じている。
――そのため、相手の言動(発言と行動)は「意識」に届くからすぐ気づくが、相手の心情(愛情や気持ち)は「無意識」に届くからすぐには気づかない(「無意識」の部分は自分では気づきにくいから)。
どうでしょうか。「本人を受容/肯定する」と聞いて、わが子の言動(発言と行動)を「受容/肯定する」と解釈なさってはいないでしょうか。
本人が望んでいるのは「自分の言動(発言と行動)」ではなく、その奥底にある「自分の心情(愛情や気持ち)」を「受容/肯定する」ことなのではないでしょうか。
たとえば、暴力や暴言、無茶な要求を受け入れ続けていて、それらがエスカレートしたり、いつまでたっても止まらなかったりしていないでしょうか。
そのときの本人は「のれんに腕押し」の心境かもしれません。「親が反応しない」あるいは「親が心にもない反応を返している」と感じるからです。そういうもどかしさから、ますますいら立って「これでもか、これでもか」とエスカレートしたり際限なく続けたりするのではないでしょうか。
つまり、本人がそのように感じるのは、親御さんが本人の言動に対して、ご自身に生じた感情を無理に抑えている結果、本人との「心情の交流の回路」が閉ざされているからではないか、と思われるのです。
本人の暴力や暴言、無茶な要求は、本人の心情(焦りや自己否定感や理解してほしい気持ちなど)の表現なのです。だとすれば、それに対する親の心情が返ってきて初めて、本人は親と心情で交流している実感が得られ、徐々に感情がやわらいでいきます。そして本人が求めているのは、親の「わが子の心情を受容/肯定しようとする心情」なのです。
2010.9.8 [No.181]
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