ヒュースタ日誌

相談機関「ヒューマン・スタジオ」の活動情報、ホームページ情報(新規書き込み・更新)を掲載しています。

年末年始休業のお知らせ

2012年12月27日 12時49分39秒 | 運営
 厳寒のなか仕事納めの時期を迎えました。皆様いかがお過ごしでしょうか。

 さて、当スタジオは明日28日(金)と明けて1月4日(金)がともに原則休業日にあたっておりますので、本日13時から1月5日(土)13時までを年末年始休業とさせていただきます。

 この間「業務カレンダー」ではすべての日を「お問い合わせ・ご利用 不可」としてありますが、ご利用中の方はどの日でも代表の都合のつくかぎり対応いたしますので、ご予約はもちろん、緊急の場合もお気軽にご連絡ください。

 また、新規の方はご利用はできませんが、新年のご利用に関するお問い合わせまたはご予約のみ、都合のつくかぎりお受けいたしますのでこの間にご連絡ください。

 以上の運営スケジュールは「業務カレンダー」に掲載しましたのでご覧ください。


今月と来月5日までの業務カレンダーを見る


 なお、きのう最終回を迎えた当ブログでの「コラム再録」ですが、すべての回でコメント欄を休業中も開放しております。書き込んでいただいたコメントは休業明けに公開させていただきますので、ぜひご一読のうえコメントをくださいますようお願いいたします。また、1月12日(土)開催の親の会「第12回しゃべるの会」へのお申し込みも、FAXとメールで受け付けております。

 今冬は数年ぶりの寒さのようです。どうかご自愛のうえよいお年を迎えられますようお祈り申し上げます。
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コラム再録(10)『願いと思いの葛藤ロード』

2012年12月26日 14時20分24秒 | メルマガ再録
 2010年度が始まりました。不登校状態からの進級進学や留年などで新しく出発した人、ひきこもり状態からアルバイトや仕事を始めた人、そのような目に見える進展がなかった人、・・・などそれぞれの春を迎えておられることでしょう。

 本人またはご家族からご相談を受けていて、本人が進級進学を果たしたケースのなかには、年明け前(今年なら去年、去年ならおととし)に「今の状態では難しい目標を設定している」と感じ、それがうまくいかなかったときの対応を想定して待機していたが、結局その必要がなかった、という場合があります。

 これは、前号でお話しした「無理しているから必ず挫折するとはかぎらない」という例に当てはまるケースだと言えます。

 もちろん、これで全面解決だと断定できるかどうかは誰にもわかりません。171号で使ったたとえで言えば「ホームランを打ったが試合はまだ続いている」といったところでしょうか。いずれにしろ、大きな一歩を踏み出した本人の決意と努力に拍手を送り、前途に幸あらんことを祈っています。

 ところで当メルマガは、今年度ひとつの節目を通過します。それは、次々号でコラムが150本目になることです(号数より少ないのは「情報版」というコラムのない号と、交互に配信していた時期があるため)。

 これだけの数の文章で、私はいろいろなことを書いてきましたが、そのすべてを貫いている論旨は「不登校児やひきこもり青年への対応は、本人の願いや思いを前提に判断され実行されるべきである」ということに集約できます。

 逆に言えば、対応は周囲の願い――多くは「学校/社会への復帰」――を前提に判断され実行されるべきではない、ということです。

 そのため私は「本人はこんなことを思い、あんなことを願っていますから、それに沿ってこういう対応をしてください」と提案することになります。

 こう申し上げると、新しい読者の方には「“学校/社会に復帰しなくてもいい”と無責任に煽るメルマガなのか?」と誤解されそうですが、そうではありません。

 と申しますのも、不登校児やひきこもり青年は「学校になんか行くもんか」「社会に出ずにすむならそうしたい」どころか、往々にして「学校/社会に復帰したい」と願っているものです。

 つまり、周囲が願わずともほかならぬ本人自身が「学校/社会に復帰したい」と願い、そしてそれを実現しようとするわけです。このことは「本人が無理な目標を設定している」と私が感じても、それをクリアする人がいる、という冒頭のお話からもおわかりいただけるでしょう。

 「それだったら話は早い。本人と周囲の願いが一致しているのだから、学校/社会への復帰めざして一緒にがんばればいい」ということで話が終わりそうですが、事はそう簡単ではありません。

 私が前提にすべきと考えている「本人の願いや思い」は、そこから先の話なのです。

「本人が復帰を望んでいるから復帰させてあげているのだ」
――不登校児の学校復帰やひきこもり青年の社会復帰を推進している教師や専門家や団体の方の、そんな発言や文章をよく見聞きします。
 確かに、前述のとおり本人の多くは「学校/社会に復帰したい」と本気で言います。その言葉に嘘偽りはこれっぽっちもありません。

 しかし、それなら彼らはなぜ担任の先生やクラスメートやメンタルフレンドの訪問を嫌がるのでしょうか。なぜ居場所など支援の場に行けないのでしょうか。なぜ就労支援を利用しようとしないのでしょうか。
 そして何よりも、なぜ学校/社会に復帰しても楽になれない人が少なからずいるのでしょうか。

 このように考えていくと「学校/社会に復帰したい」という、彼らの「願い」の奥には、彼らの多くも自分で気づいていない「でも・・・」という「続き」があるとしか思えないのです。

 先ほど私は「本人の願いや思い」と「周囲の願い」というふうに、本人には「願い」のほかに「思い」があることを示唆しました。
 「でも」から始まる「続き」が、この「思い」に当たる部分です。

 それは「でも復帰できない」という“現状を訴えるもの”だけではなく「でもまず自分を創り直したい」「でも周囲に合わせるのではなく自分に合った生き方がしたい」「でも導かれるのではなく自分の足で歩きたい」などといった、複雑な心境や深い欲求も含まれています。

 ですから、それらをも包含した奥行きと深さのある「願いと思い」をすべて認めて受け止めることによって、彼らは初めて楽になって元気を取り戻し、自分の主体的な意思で学校/社会とどう向き合っていくかを決めて実行することができるようになるのではないでしょうか。

 それとも「思い」を認めずに「願い」だけで頭がいっぱいのまま、脇目も振らずまっしぐらに突き進んで復帰を果たしたほうが、その先の人生に深い納得と肯定感が得られるのでしょうか。

 私は「願い」と「思い」のどちらを否定しても、本人は楽にならないように思います。したがって “願いと思いの葛藤ロード”を歩み続けて自分の生き方を見出したときに「自分の生き方に何が必要か」を自問した結果「学校だ」と判断すれば学校に復帰すればいいし「仕事だ」と判断すれば仕事に就けばいい、それでこそその先の人生に深い納得と肯定感が得られる、と考えるのです。


2010.4.14 [No.176]


文中に挙がっていた171号を読む
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コラム再録(10)掲載のお知らせ

2012年12月26日 13時50分50秒 | メルマガ再録
 暮れも押し迫ってきました。皆様いかがお過ごしでしょうか。

 10月から3か月間、メールマガジン『ごかいの部屋~不登校・ひきこもりから社会へ~』の創刊10周年を記念して設定した「ごかいの四半期」。期間通しで実施する唯一の記念企画「コラム再録」は、10年間に掲載したコラム(本文)166本のうち、ご好評をいただいたもの10本を選りすぐり、原則として配信日を除く毎週水曜日の午後2時に1本ずつ本欄に転載していくもので、いよいよ最終回となりました。


 10本目=“大トリ”は、当メルマガの趣旨を体現している、その意味で“代表作”である、と言っても過言ではない『願いと思いの葛藤ロード』を転載します。

 「学校に行きたい」「社会に復帰したい」・・・不登校やひきこもりの青少年の多くが口にする言葉。しかし実際にはそれがなかなか実現しない。その言葉は嘘なのか、はたまた建前に過ぎないのか・・・。

 筆者は、その言葉を「願い」と、その実現を阻んでいるものを「思い」と、それぞれ表現し、そのどちらも嘘偽りのない本音であると考えます。

 ところが、多くの支援は「思い」を無視して「願い」を錦の御旗にして実践されています。「本人が学校に行きたいと言っているから」「本人が社会に出たいと言っているから」と・・・。

 しかし、その奥深くにうずいていて、本人もなかなか気づかないことが多い「思い」を汲んでこそ、本人への理解と対応が正しくできるのだというのが、筆者の主張です。

 この説は講演などでもよく話しており、そのたびに「面白いとらえ方だ」「いちばん印象に残った」「ほかには聞いたことがないがなるほどと思った」などという好評の声が必ず上がります。

 ぜひご一読のうえ、コメント欄にご意見ご感想をご記入ください。


 では、このあと掲載します。
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「しゃべるの会」第12回開催のお知らせ

2012年12月22日 16時37分24秒 | 家族会
 当スタジオ独自の親の会としてご好評いただいている標記の会も、来年1月12日(土)に3年目の最後となります。会場は前回同様「神奈川県立青少年センター別館青少年サポートプラザ」のふた部屋を使って開催されます。

 当日は、階段を上がって/エレベーターを降りて、最初に右奥の部屋に集まっていただきます。そこで前半のテキスト読み上げと参加者の自己紹介(パス可)が終わったあと、人数が多ければふた部屋に分かれて少人数でじっくり話し合っていただくことにしています。

 テキストは、メールマガジン『ごかいの部屋~不登校・ひきこもりから社会へ~』197号です。195号で書かれた「支援の言葉と日常の言葉」という内容を受けて、親子のコミュニケーションを深めていく道筋を提案しています。「支援の利用や家計の見通しや学校復帰/社会復帰への道、などといった大事な話ができるようになるには?」など話し合うきっかけになる材料です。もちろん、それ以外にも何でもお話しいただけます。

 詳細は下記ページをご覧ください。また案内チラシもご用意していますので、よろしければご請求ください。


「しゃべるの会」(第12回)の開催要項を見る
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『ごかいの部屋』第197号配信

2012年12月20日 13時03分18秒 | ホーププロジェクト
 本欄への掲載が「コラム再録(9)」のあとになってしまいましたが、先週金曜日(14日)の夜に配信しました。遅くなりましたことをお詫び申し上げます。

 今号のコラムは、前々号の内容を受けて親子間のコミュニケーションを「日常会話」「深い話」「本題(核心)」の3段階に分け、順に定着させていくことを勧めています。

 親御さんが三つ目の「本題」「核心」の話ばかりして、日常会話から何からごっちゃに話しているうち、コミュニケーションがギクシャクするようになったり、本人が口をきいてくれなくなったりしている場合は「日常会話だけ→日常会話プラス深い話→日常会話プラス深い話プラス本題(核心)の話」という順にコミュニケーションを深めていこう、ということです。

 そしてそのように心がけていると、コミュニケーションがどのように進展していくかが具体的に示されています。

 「わが子が口をきいてくれない」「わが子にどう話しかけたらいいかわからない」などとお悩みの親御さんには大いに参考にしていただける一文ですので、どうぞご一読ください。


『ごかいの部屋』197号を読む
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コラム再録(9)『「私(たち)がいなくなったらどうなるのでしょう」』

2012年12月19日 14時04分59秒 | メルマガ再録
 年齢の高いひきこもり青年の親御さんは高齢ですから、お子さんの行く末をこのように心配されていることでしょう。事実この言葉は、親の会などでよく聞かれます。

 前号まで、親御さんのさまざまな言葉に意見を返していた私も、これを言われると返す言葉が見つかりません。もちろん、これから意見を申し上げますが「何を言っても気休めにしか聞こえないだろう」という忸怩(じくじ)たる思いがあります。

 それは、この言葉が正論だからです。親である以上そういうふうに心配して当然ですし「大丈夫。必ず社会に出られるようになる」などと、将来を予言するような励ましを言っても、リアリティを感じていただくことができないことは、私にもよくわかっています。

 現代社会は、それほどまでにブランクのある若者に冷たい社会ですから。

 そう認識しながらも、あえて私がコメントするとすれば、次のようになります。

 親御さんの、自分(たち)がいなくなったあとのお子さんの行く末へのご心配の内容は、大まかに言って次の三点ではないでしょうか。

 1. 親無しで社会参加できるようになるのか。
 2. 社会参加できるようになるまで、誰が経済的な面倒を見るのか。
 3. 社会参加できるようになったとして、就職口があるのか。

 しかし、よく考えると、これらはすべて社会の側の課題であることに気づきます。一点目は支援システムの充実、二点目は社会保障制度の運用、三点目は企業社会の柔軟性、という課題に行き着くのです。

 言い換えれば、ひきこもり青年に対するこれらの課題への取り組みが進めば進むほど、誰にとっても生きやすい社会になっていきます。その意味でも、ひきこもり青年だからということではなく、誰でも生きやすい社会を実現する一環として、ひきこもり青年に社会が対応することの重要性を、現代人は認識する必要があると私は考えています。

 「そうは言っても・・・」ということですよね。

 社会が進歩するまで何年かかるのか。それまでの間、わが子はどうなるのか。
 あるいは、社会保障のお世話になるような、みじめな人生を送ることになってしまうのか。
            
 親というのは「自分が生きている間に、わが子に一人前になってほしい」「わが子がまともに生きていけることを見届けるまでは死ねない」などとお考えになるものだと思います。

 この思いを私なりに翻訳させていただくなら「親が生きている間に結果を出してほしい」ということになるのではないでしょうか。

 「結果を出す」というのは無味乾燥な表現ですが、学校を卒業する、就職する、あるいはそこまで行かなくても、せめて他人の中に入っていけるようになる、外出できるようになる、・・・など“精一杯譲歩しながらの切なる願い”を指しています。

 ただ、そのことは、お子さん自身もよくわかっていると思います。

 前号でもお話したように、本人は常に「何かしなければ」と焦っていますし、その気持ちの背景には「親が健在なうちに」という要素も含まれていることが多いはずです。

 しかし、本人が計画的に「あと何年で結果を出す」と決められるものではありませんし、支援者が強制すれば実現するものでもありません。
 本人がいつ「結果を出す」かは、誰にも予想できない、極論すれば、“神のみぞ知る”というレベルの事柄です。

 ただし「親が生きている間に結果を出す」ことにこだわらなければ、現在の親御さんの対応によって、わが子の行く末に良い影響を与えることは可能です。

 それはどういう対応なのか。いささかロマンチックに過ぎるというそしりを覚悟の上で、私の考えを申し上げます。

 家庭のなかで、小さなことでもいいから喜びや楽しさを見つけて本人と笑い合う、そんな楽しい生活を、最後の最後までやり抜くことです。

 楽しい生活は「生きる喜び」という栄養になります。それはお子さんの心身にも蓄積され、将来ひとりになったとき、生きるエネルギーとして使われ始めるのです。

 私はこのことを、次のような“法則”として端的にまとめています。

 親亡きあと、本人が幸せに向かってしっかり生きていけるかどうかは、親子で生活していたときの本人の笑顔の数に比例する。

 現在のお子さんとの生活で、お子さんが笑顔をたくさん見せるほど、将来ひとりになったとき、前向きに生きる力がより多く蓄えられていくのです。


2006.08.02 [No.126]


このシリーズおよびこの文章に対する感想を紹介した次号を読む
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コラム再録(9)掲載のお知らせ

2012年12月19日 13時35分07秒 | メルマガ再録
 10月から3か月間、メールマガジン『ごかいの部屋~不登校・ひきこもりから社会へ~』の創刊10周年を記念して設定した「ごかいの四半期」。期間通しで実施する唯一の記念企画「コラム再録」は、10年間に掲載したコラム(本文)166本のうち、ご好評をいただいたもの10本を選りすぐり、原則として配信日を除く毎週水曜日の午後2時に1本ずつ本欄に転載していくもので、いよいよ残り2回となりました。


 第8回のきょうは、6年前の6月から6回シリーズでお送りした「親の気持ち・親の疑問」シリーズの第5回『私(たち)がいなくなったらどうなるのでしょう』を転載します。

 おとなのひきこもりは、その行く末を見通すことがなかなかできず、いつ終わるとも知れない困難な道のりです。それだけに、相談や親の会などの場で必ず出てくるのがこの言葉。
 それに対して筆者は、最初に「それまでの4回で取り上げた言葉には意見を返していた私も、これを言われると何を言っても気休めにしか聞こえないだろうという忸怩(じくじ)たる思いがあります」などという“おことわり”から語り始めます。

 まず「親御さんの、自分(たち)がいなくなったあとのお子さんの行く末へのご心配の内容」を挙げ、それらはすべて社会が取り組むべきことであることを明らかにします。

 次いで「そうは言っても」という親御さんの気持ちを考えたうえで、それに対する自分なりの答え(法則)を提示します。

 この「法則」は、読んだ親御さんや講座などで筆者から聴いた親御さんのなかから「感動した」というご感想が複数寄せられるなど、反響の大きかったくだりでしたが、
文中「いささかロマンチックに過ぎるというそしりを覚悟の上で」と筆者もことわって書いているように、ある意味では“問題作”とも呼べる1本でありましょう。

 ぜひご一読のうえ、コメント欄にご意見ご感想をご記入ください。

 このシリーズは、面接相談や親の会などの場で、わが子の不登校やひきこもりに直面した親御さんと話していて、印象的な言葉に考えさせられたり、親御さんの多くがおっしゃる言葉があることに気づいたりしてきた筆者が、そのような言葉のいくつかを取り上げ、それらに対する意見をお伝えするもので、10月24日本欄『子育てが間違っていました』に続く2度目の転載になります。


 では、このあと掲載します。
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メルマガ創刊10周年記念イベント申込状況(3)

2012年12月08日 12時21分56秒 | 記念企画
 今月15日に開催する「メールマガジン『ごかいの部屋~不登校・ひきこもりから社会へ~』創刊10周年記念懇談会」(略称「ご10会」)の申込状況の、3度目のご報告です。

 きのうまでの時点で「残席数3席」(15席中)です。

 いよいよ「残席あとわずか」となってきました。しかも、先月の予定だった機関紙「ヒュースタ通信」あらため「ヒュースタ通心」の発行が来週にずれ込むことになり、当スタジオの情報を同紙だけで入手している方にはまだ会の開催が知られていません。
 
 そこで、本日からの残り1週間は、当スタジオの利用者(相談業務の利用者と親の会「しゃべるの会」やイベント「青少年支援セミナー」など公開業務の参加者)および過去の公開業務にご出演くださった個人・団体など同紙をお渡しまたはお送りしている方からのお申し込みを優先して受理する期間とすることになりました。

 このため、引き続きどなたでもお申し込みいただけますが、定員を超過した場合は前記以外の方にはお断りすることがありますのであらかじめご了承ください。もちろん定員に達しないかぎりそういうことはありませんので、今からでもふるってお申し込みください。

 「残席0」になりましたら当ブログでお知らせします。


「ご10会」の申込方法を含む詳細を確認する
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コラム再録(8)『不登校・ひきこもりの“終わり”へ 〔上〕心は不死鳥』

2012年12月05日 16時50分37秒 | メルマガ再録
 今号から3回にわたり、不登校とひきこもりが“終わる”瞬間を描きながら、その意味や「終わらせ方はあるのか」というあたりについて、私の意見を述べてみます。

 これまでお話ししてきたように、私はかつて、不登校もひきこもりもやっています。ということは、両方を終わらせてきているわけです。そこでまずは、これまでのコラムからその部分を抜粋しながら、私の“終わり方”をおさらいしてみましょう。


                 ●


※不登校の“終わり方”
(高校入学半年後から不登校になり、すでに3回留年していた高校4年目)

 この年、回復への意欲が出てきて、何とか立ち直ろうともがいて、進級まであと一歩のところまで出席日数を積み重ねたものの、結局崩れて、今度こそ退学だろうという切迫した事態に直面したとき、学校価値に囚われていた人生観が“クルッ”と転回して、人として本当に大切なものに気づいたとき、私はもがくのをやめた。(7号)

 「学校とは関係なく、このままでは自分がだめになる」という危機感に心が揺さぶられた次の瞬間「この学校を卒業するなんてことは、人生の目標としては小さすぎる」という、今にしてみればごくあたりまえの考えがひらめき、続いて「退学しても、精神的に成長しながら元気で生きていこう!」と、希望に満ちた気持ちで決心がついたのでした。

 すると、目の前がパーッと開けたような明るさと、からだの中からこんこんと湧き出るエネルギーが感じられたのです。心が澄み切っていて、何とも言えない、神秘的な境地でした。(5号)


※ひきこもりの“終わり方”
(大学卒業1年後からひきこもりになり、その数年後)

 ひきこもりに終止符を打つべく就職を模索したのに、すでに手遅れだったという思いが、自分が存在価値のない人間だという絶望感に、私を突き落としました。
 それはまさに「万策尽き果てた」という感覚でした。(22号)

 「死」が身近に感じられるほどだった。(64号)

 そんなある日、私の頭に、こんな考えが浮かぶようになりました。
 「自分はもうどうなっても構わない。ホームレスになろうと、人知れず死のうと、みんなが自分のことを忘れようと、何とも思わない。野性動物は、誰に知られて死ぬわけでもなければ、死んでからも誰かに覚えられてはいない。自分も野性動物のように、自然のままに生き自然のままに死ねればそれでいい。」
 何日間かそんなことを考えているうち、絶望の苦しみがだんだん軽くなっていくのが感じられるようになりました。(22号)


                 ●


 このように、私の場合、不登校のときもひきこもりのときも、その終わり方は「どん底まで落ちてから」「生きる希望を失うくらいの境地にいたってから」「突然人生観が変わって楽になった」といった共通点があります。

 ここまでお読みいただいて「これは<底つき>だな」と思った方もいらっしゃると思います。たとえば、アルコール依存症の人が、家族に逃げられ、自己破産し、肝臓を病み、といった、絶望的な状態に落ち込むことを<底つき>と言います。これは、依存症が終わるきっかけになるプロセスですが、私の不登校とひきこもりが終わるプロセスも、確かにそれと似ています。

 そのあたりについては以前64号でお話ししましたので、そちらをご参照いただくとして、ここでは「そこまで落ちてから、あっと言う間に人生観が変わって楽になり、元気になる、ということが本当にあるのか」について話します。

 神話に出てくる「フェニックス」という鳥の名前をご存じかと思います。500年に一度、自ら香木を積み重ねて火をつけ、炎のなかに飛び込んで灰になる。そして、灰のなかから幼鳥としてよみがえる、というやつですね。

 つまり、死んでも死んでも生まれ変わる「不死鳥」なわけです。
 人の心も、同じだと思うのです。「心が死ぬ」「心が生まれ変わる」というのはわかりにくい表現かもしれません。でも、ほんとうにそうとしか表現できないのです。

 「もうだめだ」「もう生きていけない」という“絶望の炎”に心が焼き尽くされたとき、その灰が再び新しい心になってよみがえるのです。
 たとえば私の場合は、不登校とひきこもりの最後に「今の人生が破綻した」という絶望感に打ちひしがれたわけですが、この出来事は、象徴的に「それまでの自分が死んだ」と表現できるものです(こう表現して初めて「君の不登校が終わった理由が理解できた」とおっしゃった方がいます)。

 そして、生まれ変わった新しい自分は、大空に飛び立つ鳥のように、若々しいエネルギーに満ちあふれ、イキイキと生きるようになるわけです。


2005.02.16 [No.95]


このシリーズのあと2回を読む(次の〔中〕が出ます)
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コラム再録(8)掲載のお知らせ

2012年12月05日 14時33分17秒 | メルマガ再録
 10月から3か月間、メールマガジン『ごかいの部屋~不登校・ひきこもりから社会へ~』の創刊10周年を記念して設定した「ごかいの四半期」。期間通しで実施する唯一の記念企画「コラム再録」は、10年間に掲載したコラム(本文)166本のうち、ご好評をいただいたもの10本を選りすぐり、原則として配信日を除く毎週水曜日の午後2時に1本ずつ本欄に転載していくものです。

 先週は秋季休業中のためお休みさせていただいたうえ、きょうは約3時間遅くなりまして申し訳ありません。

 さて、2週ぶり8回目の転載コラムは「不登校・ひきこもりの“終わり”へ」という3回シリーズの1回目『心は不死鳥』です。

 不登校やひきこもりの青少年のなかには、支援を拒み続けていたり、自分で何とかしようともがいていたりした末に「もうダメだ・・・」と絶望のどん底に落ちてから、生まれ変わったように動き出した人が少数ながらいます。

 ここでは、不登校のときもひきこもりのときもそういうプロセスを経てきた筆者が、自分の体験について過去の記述を引用しながら「その瞬間に何が起こったのか」を描き出したうえで「そういうプロセスがどんな意味を持っているのか」を語っています。

 筆者は“底つき”というキーワードを用いて説明しているのですが、読者の方や筆者の体験談を聴いた方のなかには、この筆者の不登校とひきこもりの終結のプロセスが印象に残った方が少なくないようで、15日の記念懇談会でお話しくださる勝山実氏など筆者の周囲の方の間では「不登校・ひきこもりで“底つき” と言えば丸山」というイメージが持たれているようです。

 なお、このコラムは前述のとおり3回シリーズですので、続けてあとの2回もお読みいただくことにより、筆者が「“底つき”で終わるプロセスが一番だと考えているわけではない」ということをご理解いただければ幸いです。

 それではお待たせしました。このあと転載します。
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