当メルマガを配信している相談機関「ヒューマン・スタジオ」が、10年目に入りました。
この9年間の、相談をはじめとする支援業務を通じての結論は、前号で申し上げたとおり、子どもの不登校と青年のひきこもりは「本人の生きざまであり、無理にやめさせるべきものではなく、本人が自分の足で踏破する(歩き通す)ことを応援すべきものである」ということです。
そこで私は、面接相談や家族学習会などの現場で「本人が歩んでいるペースに合った対応を」と訴え、本人の前を歩かないのと同時に本人の歩みに遅れ過ぎないような対応を、親御さん方に提案しています。
その結果「つい先を急ぎたくなってしまう」と自覚している親御さんにとっては、私の援助がブレーキになっている一方、前号や6月配信号でお話ししたような「どう話しかけたらいいかわからない」「わが子の荒れをいつまで我慢していなければならないのか?」などとお迷いの親御さんにとっては、私の援助がアクセルになっているようです。
「丸山は親御さんのペースメーカー」といったところでしょうか。
いずれの場合も、前提にしているのは「本人のペース」であり「家族をはじめとする周囲が想定(このくらいだろう)または期待(このくらいであるべきだ)するペース」ではありません。
すなわち、彼らの願いと思いを前提に据え、彼らが持っている良さや力、そして可能性を引き立たせることによって、彼らが納得できるプロセスを、彼らに合ったペースで歩んでいくことができるよう「控えめながら着実な対応・支援に徹する」ということです。
このような私の援助方針は、料理では「素材の味を活かす」という言葉に、メイクでは「ナチュラルメイク」という技法に、それぞれたとえることができるでしょう。
工夫を凝らした味付けや別人のように変身するメイクもいいものですが、不登校児やひきこもり青年の多くは、自分の心を他者に味付けされたり、別人の心のように変身させられたりすることを望んではいないようです。
「変わりたい」と思っている青少年も、あくまで「納得できる方法とペースで主体的に」という条件が付いているように感じられます。
これらを考えあわせると、彼らは「“作り物の自分”ではなく“本物の自分”でありたい」という思いを持っているような気がします。
言い換えれば「自分の気持ちをごまかして/自分に嘘をついて」「学校/社会に復帰したくない」と思っていると考えられるのです。
しかし、親御さんや関係者のなかには「自分の気持ちをごまかしてでも/自分に嘘をついてでも」「早く復帰すべきだ」と信じている方がおられます。一方私は、前述のような彼らの思いが活かされる方向で生きていける方法を、ギリギリまで追求しながら支援しているわけです。
では、親御さんはどうでしょうか。本や講演から得た「知識」や関係者から伝授された「技術」に納得できなくても「自分の気持ちをごまかして/自分に嘘をついて」わが子に対応して、うまくいくでしょうか。
「知識」として頭で理解されているだけでは「わかってはいるんだけど・・・」ということで、なかなか実行できませんし「技術」として指示されたことを実行されていても、わが子が動き出さないと「いつまでこの対応を続けなければならないの?」(179号)という思いがわき上がってくるのではないかと思います。
このことは、その「知識」や「技術」が、親御さんにとって“借り物”であって“本物”ではない、ということを示しているのです。
たとえば、前号でお話しした<受容><肯定>にしても、親御さんが自分なりに手探りで接しているうちに「知識」としてではなく「本人とのつきあいが楽だ」「本人とうまく話せる」などといった「実感」を得たり「技術」としてではなく、日常的に自然にできる対応なのだと気づいたりすることによってこそ「納得」でき、ご自身に合った無理のない方法で本人を「受容/肯定する」ことができるようになります。
このように「模索」から「納得」にいたるプロセスを歩まれることで初めて、<受容>や<肯定>が“本物の対応”になるのです。
もちろん、100%の納得ということはなかなかありません。親御さんも私も、常に模索と納得の繰り返しです。ただ確実に言えることは、親御さんがいくら「知識」を得ても「技術」を伝授されても、それに納得できなければ“本物の対応”はできない、ということです。
ところで、前号で「私は<肯定>という言葉はよく使いますが、当コラムのなかでは<受容>という言葉は一度も使ったことがないと思います」とお話ししましたが、現場でもこの言葉はまず使いません。
私がよく使うのは<認める>とか<受け止める>などの言葉です。
前号でお話ししたように<受容>というのは誤解を招きやすい言葉ですし、正しく理解できてもそう簡単に実行できるものではありません。
<受容>というと「積極的に受け入れる」というニュアンスが感じられますが、<認める>とか<受け止める>というと、必ずしもそれだけではなく「現状を認める」「とりあえず受け止める」といった消極的な意味でも使えますし、それでいいと私は考えています。
大切なことは、用語を頭で理解することではなく、本人と日々つきあうなかで実感を積み重ねていくうちに「これが受容だったんだ・・・」などと、だんだん気づいてくることだと思うからです。
最初は「この子にいくら言っても無駄だな」程度のレベルでいいのです。とにかく<認める>とか<受け止める>ことさえできれば、それが“本物の<受容><肯定>”への第一歩になるのですから。
2010.10.13 [No.182]
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この9年間の、相談をはじめとする支援業務を通じての結論は、前号で申し上げたとおり、子どもの不登校と青年のひきこもりは「本人の生きざまであり、無理にやめさせるべきものではなく、本人が自分の足で踏破する(歩き通す)ことを応援すべきものである」ということです。
そこで私は、面接相談や家族学習会などの現場で「本人が歩んでいるペースに合った対応を」と訴え、本人の前を歩かないのと同時に本人の歩みに遅れ過ぎないような対応を、親御さん方に提案しています。
その結果「つい先を急ぎたくなってしまう」と自覚している親御さんにとっては、私の援助がブレーキになっている一方、前号や6月配信号でお話ししたような「どう話しかけたらいいかわからない」「わが子の荒れをいつまで我慢していなければならないのか?」などとお迷いの親御さんにとっては、私の援助がアクセルになっているようです。
「丸山は親御さんのペースメーカー」といったところでしょうか。
いずれの場合も、前提にしているのは「本人のペース」であり「家族をはじめとする周囲が想定(このくらいだろう)または期待(このくらいであるべきだ)するペース」ではありません。
すなわち、彼らの願いと思いを前提に据え、彼らが持っている良さや力、そして可能性を引き立たせることによって、彼らが納得できるプロセスを、彼らに合ったペースで歩んでいくことができるよう「控えめながら着実な対応・支援に徹する」ということです。
このような私の援助方針は、料理では「素材の味を活かす」という言葉に、メイクでは「ナチュラルメイク」という技法に、それぞれたとえることができるでしょう。
工夫を凝らした味付けや別人のように変身するメイクもいいものですが、不登校児やひきこもり青年の多くは、自分の心を他者に味付けされたり、別人の心のように変身させられたりすることを望んではいないようです。
「変わりたい」と思っている青少年も、あくまで「納得できる方法とペースで主体的に」という条件が付いているように感じられます。
これらを考えあわせると、彼らは「“作り物の自分”ではなく“本物の自分”でありたい」という思いを持っているような気がします。
言い換えれば「自分の気持ちをごまかして/自分に嘘をついて」「学校/社会に復帰したくない」と思っていると考えられるのです。
しかし、親御さんや関係者のなかには「自分の気持ちをごまかしてでも/自分に嘘をついてでも」「早く復帰すべきだ」と信じている方がおられます。一方私は、前述のような彼らの思いが活かされる方向で生きていける方法を、ギリギリまで追求しながら支援しているわけです。
では、親御さんはどうでしょうか。本や講演から得た「知識」や関係者から伝授された「技術」に納得できなくても「自分の気持ちをごまかして/自分に嘘をついて」わが子に対応して、うまくいくでしょうか。
「知識」として頭で理解されているだけでは「わかってはいるんだけど・・・」ということで、なかなか実行できませんし「技術」として指示されたことを実行されていても、わが子が動き出さないと「いつまでこの対応を続けなければならないの?」(179号)という思いがわき上がってくるのではないかと思います。
このことは、その「知識」や「技術」が、親御さんにとって“借り物”であって“本物”ではない、ということを示しているのです。
たとえば、前号でお話しした<受容><肯定>にしても、親御さんが自分なりに手探りで接しているうちに「知識」としてではなく「本人とのつきあいが楽だ」「本人とうまく話せる」などといった「実感」を得たり「技術」としてではなく、日常的に自然にできる対応なのだと気づいたりすることによってこそ「納得」でき、ご自身に合った無理のない方法で本人を「受容/肯定する」ことができるようになります。
このように「模索」から「納得」にいたるプロセスを歩まれることで初めて、<受容>や<肯定>が“本物の対応”になるのです。
もちろん、100%の納得ということはなかなかありません。親御さんも私も、常に模索と納得の繰り返しです。ただ確実に言えることは、親御さんがいくら「知識」を得ても「技術」を伝授されても、それに納得できなければ“本物の対応”はできない、ということです。
ところで、前号で「私は<肯定>という言葉はよく使いますが、当コラムのなかでは<受容>という言葉は一度も使ったことがないと思います」とお話ししましたが、現場でもこの言葉はまず使いません。
私がよく使うのは<認める>とか<受け止める>などの言葉です。
前号でお話ししたように<受容>というのは誤解を招きやすい言葉ですし、正しく理解できてもそう簡単に実行できるものではありません。
<受容>というと「積極的に受け入れる」というニュアンスが感じられますが、<認める>とか<受け止める>というと、必ずしもそれだけではなく「現状を認める」「とりあえず受け止める」といった消極的な意味でも使えますし、それでいいと私は考えています。
大切なことは、用語を頭で理解することではなく、本人と日々つきあうなかで実感を積み重ねていくうちに「これが受容だったんだ・・・」などと、だんだん気づいてくることだと思うからです。
最初は「この子にいくら言っても無駄だな」程度のレベルでいいのです。とにかく<認める>とか<受け止める>ことさえできれば、それが“本物の<受容><肯定>”への第一歩になるのですから。
2010.10.13 [No.182]
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