どうでもいいこと

M野の日々と52文字以上

盛岡私的観光案内 盛岡城跡公園1

2011-11-16 19:29:39 | まち歩き
観光の最大の目玉の岩手公園です。史跡に指定されたので名前をどうしようかと公募した結果、盛岡城趾公園という味気ない名前になりました。不来方(こずかた)という呼び名もあったのですが、江戸初期の城を不来方城と呼ぶ事から、この名前になったのかと。
一部の写真で、露光補正のための多重合成を行っています。なのでウソ臭さがありますが、見やすくするために行いました。ウソはついていません。ご安心ください。


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観光拠点であるので、1967年に作られた県立図書館を増改築して、もりおか歴史文化館という建物にリニューアルしました。もともとが清竹清訓氏の設計なので、これは良い事です。清竹清訓って言う方はぜひググってください。私でも知っている建築家です。
まずここは後にします。



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県の防災ヘリが県警の屋上から離陸してゆきます。震災で亡くなられた方の捜索が、続いています。



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中津川と中の橋近辺です。左のレンガ作りの岩手銀行が素敵です。木でよく見えませんがおでってプラザという建物があります。これも観光発信の建物ですが、中途半端な中身になっていて、イマイチです。



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公園の中津川沿いです。市民の憩いの場所です。右側のベンチには灰皿がすべてにありましたが、無くなっていました。犬好きには良い場所です。このあたり所得の高い人が多いので、いろんな犬が散歩しています。もちろんご主人を連れてですが。



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この辺りは芝生広場と言われています。上級武士の家があったかもしれません。古地図をみても要領を得ないのですが、史跡ではないらしいです。落ち葉の回収が目立っていますが、これと放射能は関係ありません。



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ここの片隅にある、ナゾの像。あまりうまいものではありません。旧女子師範学校にあったもの。水泳の授業中溺れた子供を助けてなくなった先生を顕彰したものだそうだ。補足しますと、当時水泳の授業は川を塞き止めて行っていたので、流れは残っていました。なのでかなり危険なものでいた。盛岡では昭和30年代まであったようです。



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橋を渡って、城に向かいます。



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堀の跡です。現在では鶴池と呼ばれています。



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ここからいきなり二の丸まで上れますが、右に進みます。



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いきなり広場です。御台所と呼ばれていたようです。あまり建物が無かったようで、何かのときに兵隊が集まる機能だったのでしょうか。普通これは外にあるはずなのですが。




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御台所から三の丸に向かいます。明治時代に公園として整備されたので、道が単純なのかもしれませんが城にありがちなトラップが少ないようにも思います。



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なんでこうなっているのかと言えば、大きく蛇行した北上川と中津川の合流点に近い小丘に築城したため。ある意味難攻不落なのですが、丘の面積が小さすぎて城がコンパクトになってしまった。また江戸初期は10万石だったこともある。
さて三の丸には石割桜ならぬ石割り欅があります。こちらは観光名所になっていません。この辺りにはこういった巨石がいっぱいあったようです。




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三の丸には烏帽子岩があります。それ以外にもこうして埋まっている石があります。北上川や中津川から流れてきた巨石がつもっているのでしょう。またそういった豊富にある石を使って築城したのでしょう。



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三の丸の瓦門です。実は露出をそろえる多重合成をしています。なので幽霊みたいな人物が写っています。こういった目立つ所の石組みは立派です。



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石川啄木は旧制盛岡中学(現盛岡第一高等学校)の出身です。この啄木の歌に「不来方のお城の草に寝ころびて 空に吸われし 十五の心」という歌がありますが、啄木がどこで寝転んでいたかは不明です。ただ岩手山が見える所だろうとなっていますが、現在ではビルに囲まれてこんな感じにしか見えません。
なお盛岡第一高等学校は上田にあります。なので授業をさぼって城で寝転ぶのは大変なのですが、当時は城のそばにありました。この石川啄木のために盛岡第一高等学校では在籍者名簿が重視されています。カンニングで中退した啄木ですが、夜の校舎の窓ガラスを叩き割ったり、盗んだバイクで夜の街を走り回ったほどではありません。



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石垣が自慢のお城です。



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二の丸は紅葉の名所です。正直な所地味な印象がある城ですが、この季節はしみじみしていい所です。四季を通して楽しめます。



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二の丸は妙に整然としています。これは公園として設計し直したためと思います。


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二の丸から本丸に渡る橋です。ここでオソロシイ話しが。実はここに昔あったのは三階建ての幅4間とか6間の建物だったらしいということ。どうもよくわからないそうです。




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二の丸と本丸はこうして分けられているのですが、城としてはそういった橋があったら攻撃されやすい弱点だったと思うのですが。どうもお城の敷地が狭すぎた結果のようです。



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本丸には楠木正成公を顕彰する巨大な銅像があったようです。戦時中接収されてなくなって土台だけ残っています。
現在北朝系の天皇家なのですが、どうして南朝系の忠臣の楠公を祭っていたのかと言えば、歴史のねじれと賊軍だった盛岡の悲しさでしょうか。



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本丸から、腰曲輪に降りてゆきます。石垣には各年代があるようです。初めに築城したものは不来方城と呼ばれて、江戸中期から以降の完成したものを盛岡城というようです。なのでこれは盛岡城の石垣なようです。
そういった考古学的な概念が、味気ない名前になった理由のようです。



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腰曲輪から、米蔵の大屋根を超えて中津川の下の橋が見えます。




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その米蔵を見下ろします。
盛岡でも大きな資産家だった中村家が収集してきた、馬に関する資料をここに納めるという話しがありましたが、ご破算になりました。現在その資料は青森県十和田市に移管されています。地味ながら馬に関してはとんでもない資料で、日本人と馬の歴史を網羅するものだったのです。南部藩に相応しい資料でした。
まあなぜそうなったのかと言えば、当時の市長がその資料の意味をとっても軽くみていたのが原因。寄贈するという中村家の考えを一旦拒否。あれが寄贈されるのかと考えた十和田市が、馬に関する博物館と牧場を併設する構想を立てて中村家と交渉。慌てた盛岡市がここに博物館を作ると言ったのがこの蔵。
結果十和田市に資料が移った訳だが、中村家も愛想を尽かして盛岡からいなくなったようです。現在中村家の遺構が残っているのは、中央公民館の民家のみです。
ここから伝わっている話しで面白かったのは、戦国時代の馬の調教の仕方。馬はわずかながら横蹴りができるのですが、人に囲まれるとその横蹴りをはじめて、暴れまくるように調教されていたそうです。
中村家と言えば三菱からのお嫁さんですが、一度会った事がある。なんと言えば良いのか。妖精のようなおばあさまだった。とてもきれいだったが、世界が違った。



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吹上門の坂。右に枝垂れている植物はなんでしょうか。




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イチイの木です。こういった所に植えられると枝垂れるのかな。


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もう一度本丸に戻ります。ここも紅葉がきれいな所です。全体で桜が少ないのはいいことです。



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腰曲輪の紅葉もきれいです。石垣とあっています。



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菜園の交差点まで降りてきました。とにかくコンパクトなお城です。ちょっと散策には良い所です。
私の説明はよくないので、市の広報のURLをつけます。
http://www.city.morioka.iwate.jp/14kyoiku/bunka/sitei/kuni-sitei/kuni-moriokajo03.html
詳しくはこちらまで。