何かまとまっていないが、書き進んでみよう。どうしようもなくなったら、「おごるなよ、自民党」とでも書いてごまかすか。
ゾンビがはじめて出て来たのは、アメリカ映画のようだ。一応ホラー映画なのだが、なぜか日本ではウケない。なに、急に出てくるだけじゃないか、おまけに弱いしとなる。それでもなぜかアメリカで続々と作られている。多分アメリカ人にとっては恐怖なのだろう。逆に日本では、ゲームの中では躊躇せずに殺せる対象だし、パンデミックもののマンガの中でも危機的状態での恋愛物だったり、最近ではゾンビがいる日常の中に、ゾンビ駆除の職業があるというほのぼのとしたものもある。アメリカ人の意図したものと違う受容のされ方になっている。
とはいえアメリカでも、もうゾンビは怖くない、そういった風潮が生まれている。
さてゾンビの何が怖かったのだろうか。死んでいるのに生きていると言う事だったら、吸血鬼ものがある。なおこれも日本人にはあまり受けが良くない。藤子不二雄の「怪物君」のドラキュラなんて目も当てられない。ついでにフランケンシュタインまでもが、このマンガの中では滑稽に書かれている。他の作品でもドラキュラの神秘性の方が大きく、恐怖の存在ではない。こういった異形には、怖さを感じない。まあこれは日本の鬼が、見た目より余りにも弱かったからだろう。
しかし、不思議な事に妖怪や幽霊のように時空を超えてくるもの、例えば「リング」の貞子みたいなものは根源的に怖がる。
ゾンビの根源的な恐怖は、キリスト教の文脈で考えれば納得出来る。主の再臨とともに、墓の中から若々しい姿でよみがえる、神の戦士たちが「ヨハネによる黙示録」で書かれている。ゾンビはその希望を一切奪ってしまう。墓は再臨まで眠る場所であり、その中は考えては行けないものだ。確かに腐ったり白骨になっているのは誰もが知っている。しかしそれは考えては行けない。主は3日間で復活したが、その姿が腐ってブヨブヨになっているとは誰もが思わない。
その前に魔導士なりにゾンビにされてしまうと言う事は、再臨を前に神の軍団の戦列に立てない。その前に魔導士により悪魔に操られた存在になってしまう。
ゾンビものも、魔導士からウイルス・寄生虫によるものに変わって来ている。実はこれは更に話しを深くしている。それこそ黙示録による、神と悪魔の戦いを書いている。パンデミックものはその流れで考えるとよくわかる。
噛まれたり接触する事でゾンビになると言う事は、生きながらにして悪魔になると言う事だ。神の軍団に立つためには、絶対これは避けなければ行けない。だから主人公は戦うのだ。
しかしヨハネはユダヤ教の一派を「愛」で切り分けた。神の愛による救済。しかし黙示録では余りにも過酷な恐怖を描いている。信仰を試されたヨブより厳しい。愛には気まぐれがないからだ。
アメリカでなぜゾンビがホラーになるのかと言えば、極端なプロテスタンティズム、原理主義的な、福音派などの持つ恐怖感からだろうか。
それではなぜ日本人はゾンビを受容出来るのだろうか。キリスト教徒であっても原罪については日本人は少し甘いように感じる。その上神の軍隊の戦列に加わる事よりも、日々の救いを求めており、行いの結果を神が判断するのであって、謙虚に神の軍団に私は入るとは考えていないように感じる。
多分なのだが、日本人は魂の復活は考えられても、肉体の復活だけは絶対信じていないと言う事だ。ここは神道と仏教の世界だったからかもしれない。
ゾンビが考えられるためには、一つ条件がある。土葬が必要だ。この場合キリスト教と・イスラム教は今でも基本的に土葬だ。この場合は死体を横に長らえる。キリスト教では復活が考えられるから土葬になっている。イスラム教の場合は、ユダヤ教・キリスト教の系列の最後の予言者としてムハンマドが降臨した。だから復活と言う意味合いがない訳ではないのだが、死者を火で焼くと言う事は地獄の劫火に曝すのと同じとして禁止している。
イスラムの埋葬はこんな具合だ。体はきれいに洗われ清浄な布で巻かれ、深さ3メーターほどであろうか長方形のまっすぐな穴に沈められる。身体の向きはメッカを向くように置かれ、小さな祭壇が穴の中に組まれている。そして歌われるように土がかけられてゆく。荘厳な祝福の儀礼に感じた。死は祝福でもある。
魂と肉体が分離していない。そう考えるのが妥当と。ヒットした歌曲「千の風になって」はかなりキリスト教にとって異教徒的な歌と思う。それが日本人に訴えたのは、魂と肉体の分離が当たり前だったからだ。
復活まで身を横たえて眠るキリスト者に対して、日本の土葬は主に屈葬だ。様々な形式があるが体育座りをさせられて埋められる。土地が少ないとか穴を深く掘るのが大変とか様々な理由があるが、以外と縄文時代から変わっていない。まあ縄文時代には死体に石を抱かせたり、足の骨を折ったりしている。
そして土葬して盛り上がった土の上に、刃物を置いたり吊るしたり、なんらかの封じ込めをしている。
全国的にではないと思うが、そうした土葬したものを改葬すると言う風習もある。つまり土葬したものを掘り起こして別な墓に移すのだ。なぜあらためるのか、実は面積だけの問題ではないと思う。確認しているのだ。死んだと言う事を。肉体に魂が戻る事がなかったと言う事をだ。
明治維新以降、日本は火葬が主流になった。これは政府が土葬は不衛生だと言った事からはじまる。確かに各地で風習は変わる。そこで土葬が可能な場所とかが作られたが、実際はあっという間に火葬に変わった。先の改葬の話しだが友人が体験した話しだ。今から20年前の話しだろうか。彼は頭を持ったのだが、中がタプンタプンしているのが気持ち悪くてたまらなかったと話していた。
火葬が受容されたのは、そういった気持ち悪さもあるが、究極の封じ込めであった。
魂は肉体に決して戻らないのだ。
日本にはゾンビはいないのだ。
ここでこの話しは終わる。ここから別な話しになる。
なぜ遺体が必要なのかだ。なぜ死を確認しなければ行けないのかだ。
死はなぜ儀礼的に行われるものなのか。ネアンデルタール人ですら花に覆われて埋葬されている。復活を望もうが望まないが、儀礼は死につきまとう問題だ。
儀礼は生者のためにある。離別の苦しみを和らげる効果がある。しかし確認出来る死体がないと、離別した事が実感出来ない。
死の恐怖と言うのは、死を自分で確認出来ないと言う事もある。その前にもう一つ、死体に対する恐怖がある。
メメントモリとかそういった気の効いた言葉もあるが、何か別な死体そのものに根源的な何かがあるのだと思う。
死体の恐怖は、封じ込めになったり、ゾンビ映画になったりするが、目の前にある大量の死は畏れそのものと感じている。
海底に生じた巨大な裂け目が、日常を飲み込んでゆく。これこそが神の現れなのだ。封印して来た死も、死体として顕現した。
それでも私らは異常な努力をして来た。事故現場にいつも花が飾られ、幣が祭られ、町のあちこちや街道のあちこちで碑が建てられ、地蔵が置かれ、神が仏になりたいと言い出すまで努力した。そして仏になった神を、人は大切にした。
そうか。私が死と死体を分けて考えている時点で、裂け目が説明出来ない。
生と死の間には薄い膜があり、いや同居している。その裂け目から悪しきものが溢れ出す。と言う理論もあります。
ただその理論は、人の死と、死体への恐怖を説明出来ません。
石原慎太郎が神罰と言った事を未だ持って恨んでいる。
ゾンビがはじめて出て来たのは、アメリカ映画のようだ。一応ホラー映画なのだが、なぜか日本ではウケない。なに、急に出てくるだけじゃないか、おまけに弱いしとなる。それでもなぜかアメリカで続々と作られている。多分アメリカ人にとっては恐怖なのだろう。逆に日本では、ゲームの中では躊躇せずに殺せる対象だし、パンデミックもののマンガの中でも危機的状態での恋愛物だったり、最近ではゾンビがいる日常の中に、ゾンビ駆除の職業があるというほのぼのとしたものもある。アメリカ人の意図したものと違う受容のされ方になっている。
とはいえアメリカでも、もうゾンビは怖くない、そういった風潮が生まれている。
さてゾンビの何が怖かったのだろうか。死んでいるのに生きていると言う事だったら、吸血鬼ものがある。なおこれも日本人にはあまり受けが良くない。藤子不二雄の「怪物君」のドラキュラなんて目も当てられない。ついでにフランケンシュタインまでもが、このマンガの中では滑稽に書かれている。他の作品でもドラキュラの神秘性の方が大きく、恐怖の存在ではない。こういった異形には、怖さを感じない。まあこれは日本の鬼が、見た目より余りにも弱かったからだろう。
しかし、不思議な事に妖怪や幽霊のように時空を超えてくるもの、例えば「リング」の貞子みたいなものは根源的に怖がる。
ゾンビの根源的な恐怖は、キリスト教の文脈で考えれば納得出来る。主の再臨とともに、墓の中から若々しい姿でよみがえる、神の戦士たちが「ヨハネによる黙示録」で書かれている。ゾンビはその希望を一切奪ってしまう。墓は再臨まで眠る場所であり、その中は考えては行けないものだ。確かに腐ったり白骨になっているのは誰もが知っている。しかしそれは考えては行けない。主は3日間で復活したが、その姿が腐ってブヨブヨになっているとは誰もが思わない。
その前に魔導士なりにゾンビにされてしまうと言う事は、再臨を前に神の軍団の戦列に立てない。その前に魔導士により悪魔に操られた存在になってしまう。
ゾンビものも、魔導士からウイルス・寄生虫によるものに変わって来ている。実はこれは更に話しを深くしている。それこそ黙示録による、神と悪魔の戦いを書いている。パンデミックものはその流れで考えるとよくわかる。
噛まれたり接触する事でゾンビになると言う事は、生きながらにして悪魔になると言う事だ。神の軍団に立つためには、絶対これは避けなければ行けない。だから主人公は戦うのだ。
しかしヨハネはユダヤ教の一派を「愛」で切り分けた。神の愛による救済。しかし黙示録では余りにも過酷な恐怖を描いている。信仰を試されたヨブより厳しい。愛には気まぐれがないからだ。
アメリカでなぜゾンビがホラーになるのかと言えば、極端なプロテスタンティズム、原理主義的な、福音派などの持つ恐怖感からだろうか。
それではなぜ日本人はゾンビを受容出来るのだろうか。キリスト教徒であっても原罪については日本人は少し甘いように感じる。その上神の軍隊の戦列に加わる事よりも、日々の救いを求めており、行いの結果を神が判断するのであって、謙虚に神の軍団に私は入るとは考えていないように感じる。
多分なのだが、日本人は魂の復活は考えられても、肉体の復活だけは絶対信じていないと言う事だ。ここは神道と仏教の世界だったからかもしれない。
ゾンビが考えられるためには、一つ条件がある。土葬が必要だ。この場合キリスト教と・イスラム教は今でも基本的に土葬だ。この場合は死体を横に長らえる。キリスト教では復活が考えられるから土葬になっている。イスラム教の場合は、ユダヤ教・キリスト教の系列の最後の予言者としてムハンマドが降臨した。だから復活と言う意味合いがない訳ではないのだが、死者を火で焼くと言う事は地獄の劫火に曝すのと同じとして禁止している。
イスラムの埋葬はこんな具合だ。体はきれいに洗われ清浄な布で巻かれ、深さ3メーターほどであろうか長方形のまっすぐな穴に沈められる。身体の向きはメッカを向くように置かれ、小さな祭壇が穴の中に組まれている。そして歌われるように土がかけられてゆく。荘厳な祝福の儀礼に感じた。死は祝福でもある。
魂と肉体が分離していない。そう考えるのが妥当と。ヒットした歌曲「千の風になって」はかなりキリスト教にとって異教徒的な歌と思う。それが日本人に訴えたのは、魂と肉体の分離が当たり前だったからだ。
復活まで身を横たえて眠るキリスト者に対して、日本の土葬は主に屈葬だ。様々な形式があるが体育座りをさせられて埋められる。土地が少ないとか穴を深く掘るのが大変とか様々な理由があるが、以外と縄文時代から変わっていない。まあ縄文時代には死体に石を抱かせたり、足の骨を折ったりしている。
そして土葬して盛り上がった土の上に、刃物を置いたり吊るしたり、なんらかの封じ込めをしている。
全国的にではないと思うが、そうした土葬したものを改葬すると言う風習もある。つまり土葬したものを掘り起こして別な墓に移すのだ。なぜあらためるのか、実は面積だけの問題ではないと思う。確認しているのだ。死んだと言う事を。肉体に魂が戻る事がなかったと言う事をだ。
明治維新以降、日本は火葬が主流になった。これは政府が土葬は不衛生だと言った事からはじまる。確かに各地で風習は変わる。そこで土葬が可能な場所とかが作られたが、実際はあっという間に火葬に変わった。先の改葬の話しだが友人が体験した話しだ。今から20年前の話しだろうか。彼は頭を持ったのだが、中がタプンタプンしているのが気持ち悪くてたまらなかったと話していた。
火葬が受容されたのは、そういった気持ち悪さもあるが、究極の封じ込めであった。
魂は肉体に決して戻らないのだ。
日本にはゾンビはいないのだ。
ここでこの話しは終わる。ここから別な話しになる。
なぜ遺体が必要なのかだ。なぜ死を確認しなければ行けないのかだ。
死はなぜ儀礼的に行われるものなのか。ネアンデルタール人ですら花に覆われて埋葬されている。復活を望もうが望まないが、儀礼は死につきまとう問題だ。
儀礼は生者のためにある。離別の苦しみを和らげる効果がある。しかし確認出来る死体がないと、離別した事が実感出来ない。
死の恐怖と言うのは、死を自分で確認出来ないと言う事もある。その前にもう一つ、死体に対する恐怖がある。
メメントモリとかそういった気の効いた言葉もあるが、何か別な死体そのものに根源的な何かがあるのだと思う。
死体の恐怖は、封じ込めになったり、ゾンビ映画になったりするが、目の前にある大量の死は畏れそのものと感じている。
海底に生じた巨大な裂け目が、日常を飲み込んでゆく。これこそが神の現れなのだ。封印して来た死も、死体として顕現した。
それでも私らは異常な努力をして来た。事故現場にいつも花が飾られ、幣が祭られ、町のあちこちや街道のあちこちで碑が建てられ、地蔵が置かれ、神が仏になりたいと言い出すまで努力した。そして仏になった神を、人は大切にした。
そうか。私が死と死体を分けて考えている時点で、裂け目が説明出来ない。
生と死の間には薄い膜があり、いや同居している。その裂け目から悪しきものが溢れ出す。と言う理論もあります。
ただその理論は、人の死と、死体への恐怖を説明出来ません。
石原慎太郎が神罰と言った事を未だ持って恨んでいる。