今日は最高気温32度と結構な気温になった。そしてお昼には竜巻注意報がでるとか雨が降りそうな話になっていたが、気象レーダーを見ると雲の動きが変わってきているようだ。これではまず盛岡に雨は降らない。畑に水をやることにした。フジマメの花が結構咲いてきた。
まだ収穫適期がいつかよく分からないフジマメだが、味はかなりいい。青臭さが薄い。さすが関西のインゲンマメだ。ただ平莢や丸莢のインゲンに比べれば収量が少ないのが難だが、そもそも植えた数が少なすぎる。そして平均気温20度以上無いと成長しない。来年度は数で勝負してみたい。東北だと短期収穫。
7月の半ばだと思うのだが、喫茶響でコーヒーの種をもらった。それを播いたところ根のようなものが出てきた。播種後2ヶ月で発芽すると言われているが、1月程度で発芽が始まっている。確実に発芽させるために、浸漬の水はマメに取り替えたり、先に浸漬が終わった豆は浅水で管理したりした。用土も熱湯消毒もした。
ただこういう発芽困難なものは、その後土がカビたりして結構厄介なので屋外管理にしたのも効いたかもしれない。でもここから腐ることもある。慎重になるべきなのだが、やはり泳ぎに行く。
雫石川の河川敷になんかピンクの花らしきものがある。気になっていたので300ミリにテレコンバーターをつけて撮影すると、ピンクのゴミではなく花のようだ。なぜここにピンクの花があるのか分からない。
分からないから藪を漕いで探してみた。
藪を漕いで近ずくと、彼岸花の仲間のリコリスもしくはリクニスなのでは無いのかと。品種はもしかすると今咲いていることと寒冷地ということでスクアミゲラなのでは無いのかとなる。ただその園芸品種がこの雫石川の河川敷の藪の中にあるかという理由が無い。あるとすれば人為的に植えたというものだ。確かに昨年今頃この近くで人が溺れて死んだ。その思い出のために故人が亡くなった時に咲く品種を選んで、この花を植えた。
にしては数が少ない。この写真と近くにもう一つ株があるのだが、人為的なものを感じても数が少ない。だいたいこの品種、通販では15球で2880円だ。国華園だともっと安く買えるだろう。故人を偲ぶためならもっと植えまくるだろう。それではこれはどういったことなのかといえば、大雨で流されてきた球根が根付いたということになる。彼岸花もそういった理由で繁殖地を増やしていった。
そうすると逆も考えられる。この太田橋のたもとは過去には水難事故が多かった。水泳を教える場所がなく、川をせき止めプール代わりにしていた時代があった。泳げる場所ではあったが川なので、事故はあった。ただ昔に遊べる場所だったということで、今でも泳いで遊ぶ人の姿は見ることがあった。さすがに今年は見ないが、かなり昔に遺族か関係者が高価だった時代の球根を植えたのかもしれない。それが河川管理を徹底するようになって、河川敷林床の草刈りをするようになって見えるようになった。そうゆうことなのだろうか。
もう少し現実的に見たい。多分これは仏のお導きなのだろう。ここにある花が誰が植えたのか流されてたどり着いたものかはわからないが、ここで亡くなった人たちと私をつなぐものは、この花だけだ。こういったことに根拠や答えを見つけようとした場合、安心したい自分がいるから答えを求めているのだ。だからいっそのこと神仏のお導きとしてしまった方が、心の合理化には役に立つ。
この橋を渡るたびにここで亡くなった人が多いというのはわかっているし、昨年も亡くなった。花は私に何かを伝えたいのかもしれない。
線香を供えるにしても藪の中だ。このカラカラの天気では危険だ。液体肥料をペットボトルに入れてバラ撒くのが供養かもしれない。少し考えよう。
1000メーター泳いで、あとは落ちた。飛込み台が5メーターまで公開されている。それも16日までなのだが、とりあえず落ちてみようと。怖いと思って落ちるとやっぱり怖いことになる。だから安全に落ちようとすると、1メーターの高さから落ちても5メーターの水底に足がつく。それでは2.5メーターの台だと簡単に底まで落ちるはずなのだが、全くうまくいかない。ほんの少しがどうなっているのかがわからないのが、落っこちる面白さかもしれない。
飛び込み競技ではないのだ。落ちることが大切なのだ。どう落ちれるのか、どういった覚悟を決めれたか、何かそういったものが大きいように感じる。
おっこちていたら小さな友達ができた。名前は交換していない。本当に天然記念物的なクソガキなのだが、面白すぎて飽きない。
日本の未来は明るい。
フと思いついて、盛岡駅裏のミカフェートに行くことにする。プールの塩素水で鼻まで洗われてしまっている状況ではある。コーヒーの味何ぞわかるはずもない。でも今行かないとこの店には行くことがないという確信があった。
だから行くしかないのだがあんまりもの格好だった。紺の古びた4分丈の短パンと紺のボサっとしたタンクトップではあまりにもまずい。バーバルがバーバリーを着るのは正しくても、バーバルがバーバルな服を着たらとりあえす初見の店はまずいだろう。ましてや。カフェだ。シマムラでリネンコトンの半袖シャツを900円で買う。なんとかなるだろう。
そうしてドアを開けた。
先客はジャス愛好者2名と、どうも県議会選の打ち合わせの候補者と支援者という5人だった。おかげさまで、県議会選のウラをチロッっと聞かせていただきました。支援者が候補者をいかに値踏みするのかというのが、なかなかエグいです。他でもこういった公共の場で話が行われるのは聞きますが、どうしてここまでいい加減なのかはわかりません。
盛岡ブレンド480円を頼んだ。コロンビア3種のブレンドという。他のお客さんのオーダーが終わって私のオーダーの番だ。ドリップをはじめて蒸らしのタイミングで、ジャズファンから質問の嵐、そうしてお客さんが駐車場はドコとドアを叩くわけで、その説明だけでオーナーは店の外に出て、となってしまいました。
そのままドリップするのはどうなんかと思い見ていると、ドリップしたのは下げて新たに豆を挽き直して新たにドリップしてくれるじゃないですか。嬉しいですね。
そうこうしていると60台のご夫婦と思われますが、お父さん店に入るとサングラスをカッコよく外してあたりを睥睨します。決して混んではいないのですが、間違いなく店舗設計のミスだと思うのですが、私が一人でソファーを独占しているように思われたかもしれません。次に来た二人組みがカウンター、とは言っても接客も何もない壁のカウンターに誘導されて、一人で一番奥のソファー占拠している私はチェックメイトとなりました。
会計したいんだけど出れない。店も忙しすぎて対応できない、県議会候補は話に夢中で椅子を引かない。そしてサングラスの男は当然引かない。
隙間は20センチ、なんとかなりそうだ。そうして体重80キロの謎の物体は彼らの脇を通りすぎて、会計を済ませた。
盛岡ブレンドという3種のコロンビアのブレンド、コロンビアだけをブレンドというとナゾなのですが、理屈では3つのエリアから選んだ豆を焙煎を変えてブレンドにすればいいのですが、普通はコロンビアのリッチさを追求すると思う。だけどなぜか薄い。そう、私はストロングなコーヒーが好きなのだ。それを確認できただけで来た甲斐があった。
この2年だが、様々な嗜好が変わってきた。一番はやはり311だろう。様々な問題が噴出した。そのポストモダン状況とSNSの新しいネットワークと合わさって、カオスな展開になっていた。そこに何らかの疲れが起きている。
何かどうでもよくなってきたのだ。川内原発再稼働もそうだが、あれもどうでもいい。合理性と感情の狭間で揺れ動くというのに疲れてしまった。合理性なら実は原発全廃ではなく、稼働させて電力会社を儲けさせないと電気代がアップしすぎてどうしようもない。太陽光も風力も蓄電池と合わせてゆかないと難しい。九州電力がきめ細かい管理で太陽光と通常発電との組み合わせで夏場のピークを安定供給して見せたようだ。だがそれを称賛したところで、全廃した時の費用は回り回って、私らにきてしまう。
そして自民党の政策を支持したのは、ほかならぬ団塊の世代になってしまう。いや投票拒否とかはしただろう。だがそれがよくなかった。
いったい何が悪かったのかと考えれば考えるほど、無邪気なほどの無作為の積み上げでしかない。その無作為は感情的に行われてきた。311以降私の見つけたものはこれだった。人は感情でしか動かない。確かに官僚は法学的合理性で判断する。経済人は経済合理性で判断する。だがそこにも感情しかない。そして感情でしかないのに無謬性を追求したがる。
そうなってくると日本の政治家の悪い部分とは何かというのが見えて来る。実はマジメ過ぎるのだ。感情でしか人が動かないなら、さもエリート然として理路整然と話す必要はない。人の感情を動かす演説や言動が必要なのだが、そういった人は政治家になれない。
今日は311の月命日だった。捜索が行われ遺族の声が届いた。
以前阪神大震災の時の本当の衝撃は、大阪の賑わいだったと言ったことがあった。確かに余震が続いた1週間までは自粛ムードのようだったが、その後繁華街に人がすぐに戻った。それでも少なくなったと言われているが、私の目には変わらない大阪の日常があった。
人には生活がある。けっして大阪の人たちは神戸を見捨てて酒を飲んでいたわけではない。日常に早く戻りたかっただけだ。だが今の震災後は、日常というのがむなしく感じられる。忘れられないのに忘れるなと言われ続けても、どうしていいのかわからない。
忘れるなという言葉は、遠い九州や沖縄の人に向けているのだろうか。被害があった東京の人だろうか。誰に言っているのだろうか。