大変天気が良いせいか、放射冷却現象が起きたようだ。マイナス4度以下とかなりの冷え込みだ。今日も1日引きこもろうとも思ったが、結局高松の池にゆく。
昨日は響で酒を飲んだ。オーディオの話にはなるのだが、最近疑問だったことを聞いて見る。「プリント基盤の銅の厚さを特に厚くしたとか無酸素銅にしたとか、銀メッキしたとか、超高級オーディオでそんなのあります?」熱田氏も一例はあったような気がするが、ガラスエポキシ基盤がどうかというものだったような気がする、という。つまりプリント基盤にこだわった超高級オーディオは存在しないようだ。
なぜこの疑問を持ったのかといえば、自分でプリアンプを組み立てていて、そのハンダごての技術とかもさることながら、部品のレイアウト技術というのはすごいものだと考えるようになったからだ。プリント基盤のデザインは音質の根幹にかかわる問題なのだ。だがその基礎である紙エポキシやガラスエポキシを特に厚くしたとか、銅箔の厚さを特に厚くしたとかそういったことがないとすれば、メーカーは基盤の材質は音に関係ないと考えている、そうなる。むしろ変なことをやって作りにくくなるのを避けているのかもしれない。
とすればオーディオマニアたちがスピーカーケーブルに1メーター1万とかかけている意味はなんなのだろうか。回路として考えれば、あまり意味がないということになる。
こういったことは自分でやってみないと見えてこないものだ。
オオバンが飛んできた。
今日のニュースでカナダガンを根絶したというのがあった。全く背景がわからないものなので、調べたら微妙なものだった。
この方のサイトが詳しい。関西創価学園の生物の久米先生だ。学生時代は山階鳥類研究所にいたというのだからかなり優秀なのだろう。
いい研究していますね。まずニュージーランドやイギリス等では狩猟用の鳥として放されたものだということだ。だいたい4.5キロと大きく美しくはないが、見栄えはする。だが繁殖力が強く、農業被害があるということだ。つまりデカイから大食い、デカイから重くて農地を踏み荒らす。ああ私のことが言われているようだ。白鳥はどうするんだと言いたいところだ。だが繁殖力が強く、ヨーロッパにいる近縁種との交雑の危険もあった。繁殖力が強いというのは私には当てはまらない。よかったよかったって、全然よくない。
で、日本の場合微妙なのは、1985年迷鳥としてやってきたのが、富士桜自然墓地公園という静岡県富士宮市の墓地の池だったところから始まる。ここで日本種の希少種シジュウカラガンと勘違いされたことだ。正確に言えばこの2種はカナダガンの本流と日本のシジュウカラガンの亜種という関係にある。なので当時は和名がどちらもシジュウカラガンだったのだ。一応新聞等では別だと書かれてはいるが、こりゃ混同する。
迷鳥と希少種というのはどちらも珍しいからだ。一般人にとってはどうでもいいことで、むしろ可愛らしい雛を子育てする姿などで人気になった。だがそこまでは誰もがこいつヤバイというのに気がつかなかったようだ。その上ここは墓地だ。どうも創価学会の墓地に感じられる。なにしろ聖教新聞の報道が多い。そうなればもうもう大切にされるわけだ。
そこを久米先生が甥の墓参にゆくとアリャ変な鳥がいっぱいいるではありませんか。ただナゾなのは久米先生と山階鳥類研究所と日本雁を保護する会の共同調査計画が1992年。先生が甥の墓参に行ったのは1993年とずれていますね。この識別標調査計画はこの墓地の管理者により拒否されています。なので先生、墓参と称して調査したのでしょうか。ただその後のモニタリング調査からかなり広範囲に繁殖地を広げそうだというのがわかって、特定外来種に指定されたわけだ。ただそれでも100羽しかしなかったようなので初期に駆除されたと言えるのではないのでしょうか。
スズメのドヤ顏です。ちょっとつり目ですね。
そういえば、このカナダガンですが一羽で一日0.7キロの糞をするという。10羽で年間2.5トンという。大きいからそうなんだろうな。自分でも年間推定で、糞だけで0.7トン、尿だと多分2トンだろうな。カナダガン10羽と大して変わらない。
まあ種族が違うからこうなる。鳥類だから糞と尿は一緒だ。そしてカナダガンは一羽4.5キロだから45キロとなる。私は80キロだから、糞尿/体重は55と33になる。体重1キロあたりの年間糞尿だ。鳥類は成長は早いが哺乳類に比べる消化効率が悪い。ここがこの数字になる。私もあまり効率がいい方ではないが、カナダガンに比べれば楽勝だ。
夕日に染まるユリカモメです。
この前、方言のことが話題になった。用例は覚えていないが、それは鎌倉期の文法だというのに気がついた。まあ東北で南部藩ならそうでしょう。津軽弁は平安期とも言われている。地方には古い言葉が残るものです。
筒井康隆が最近誰でも小説家になれると大見得を切った。その文章の中に文法は以外とどうでもいいという内容があった。
この2点から変なことを感じていた。かなり吹っ飛ぶのだが、なぜ日本人は外国人が日本語を話すと、喜ぶのかという問題だ。確かに外国人に日本語で話してもらうと遠く感じていた相手が近く感じられる。そういった効果がある。
だがこの10年くらいだろうか、日本語教授法のメソッドがものすごく良くなったと思う。以前だったらありえないほど流暢な日本語を話す外国人が増えている。特にインド人はなかなかだ。
その彼らが「いや~日本語って難しいですね」と言われると、少し嬉しくなる。そう感じる方の方が多いのではないのか。そう、そうなんだよと膝を打つ日本人が多いと思う。
まず日本語には感情表現を上手く伝えられる地方言語の方言がある。そして効率のいい共通語がある。で、明快な文法というものがない。文法的に言えば古語の文法と現代語の文法が混ざった状態だ。その上、例えば「ら」抜き言葉がよく批判されるが、この「ら」の活用があんまりにも広範囲すぎて、実は使いにくい。丁寧語の「ら」もあるからだ。謙譲語の「ら」の活用もある。なのでイチイチいうんじゃないとも思う。その辺りを表現として最適であればいいという、筒井康隆氏は全く当然だ。
だがなぜ外国人が日本語を難しいというかといえば、日本語でコミュニケーションをとるのが難しいからだ。
日本語には決まった文法があるといえばある。あるが鵺のようにヌルヌルと使うことができる。不明解な倒置法や超不明瞭な断定をたった一個の助詞に込めてしまう。その曖昧さがえらくめんどくさい。だから豊かな表現にもつながるのだが、普通はそうもいかない。
日本人が日本語を難しいと思うのは、コミュニケーションが難しいからだ。誰もかれもがこれで失敗したことがある。日本人でもだ。それが外国人だったら尚更だろう。
その難しさを外国人と共有した、というのが嬉しいのだ。
日本人じゃなきゃよかったなと、思ってしまう瞬間なのだ。
言葉はもともと難しいよ。
定番になりました。
オナガガモのようです。
最近中高年のフリーターが激増しているようです。まあ理由は日本語が難しいからでしょう。