近所の歩道橋の下に、除雪用スコップ置き場が出来た。欲しい施設だが、鍵をかけている。いつ使えばいいのだろうか。多分小学生の登下校時の見守り隊の方々は知っているのだろう。
とりあえず電話番号があるのはいいのだが、電話すると鍵の番号を教えてくれるのだろうか。雪が降ったら実験したい。職員が来たとなれば、そいつがやればいいという話になっちゃわないのかな。
スコップを置くのはなかなかいい政策だけど、鍵を掛けるというのはおもしろくない。むしろ「ご自由にお使いください。ただここの雪かきをしていたたければさらに嬉しいです。でもこのスコップを持ち帰って家で保管すると、国家財産法上の悲しい問題が起きます。ご利用後は必ずこのボックスにもどしてください。」程度の方がいいんじゃないのかな。
今日は真面目に仕事をして、米山に着く。
ミュージシャンのK氏が、どえりゃカミングアウトをした。「和声を理解した」。ウン。ここだけでどんだけのカミングアウトかというのは、K氏をわからないと多分わからない。尖った音楽ばっかりやってきた人なんだ。とんがったものをね。おまけに音楽評論もするし美術評論もする。で、なかなかな論客なのだが、並々ならないカミングアウトだ。
いや、まあ彼の評論は好き・嫌いというところは多分にあった。だが「和声を理解した」というのは、彼の今までの発言を全て全否定するものだ。生で合唱を聞いてわかったという。全ての器楽は人の声の代用品だったのだ。だから音の積み上げに意味があり、なぜ積み上げるのかわかったという。
どうしてリゲティを素晴らしいといい切っきたのかを聞けば、あれは2001年宇宙の旅の刷り込みだ。ああいった塊には弱い。
わからんわけでもない。
大体のところオーディオマニアもそうだが、ベースラインから積み上がる音の意味がわからない。メロディーラインがあって伴奏としてベースラインがあると、聞いているところはある。だがダンサブルな音楽では、そうではない。ベースラインが体の動きを作るわけだ。リズムだけで踊っているわけではない。そこから積み上がる音のレイブ感とかがあるわけで、実は和声というのが、壊しながら帰着するとかそういった驚きに満ちた世界なのだが、まあ音楽というのは楽しくない世界でもあるのですよ。
バッハなんて耳で聞く数学、という側面がありますね。
でもK氏はとてもまともだ。大人である限り、誤りとは言わんが、訂正する度量は必要だ。 その上彼の感性はなかなかなものだ。
とはいえ「和声を理解したからには、全ての音楽を理解することができる。今後はモーツアルト以外は完璧に聞くことができるだろう。俺はこの後の人生を全て豊かに過ごすことができるのだ!」
確かにそうなのだが、このコップ半分の水みたいな議論は、お前の40年間はどうなんだという話になる。
もう愚痴はいっぱいあるが、もうこのかっこつけはすごいよ。
お前は美術だ。