どうでもいいこと

M野の日々と52文字以上

台風一過

2016-08-10 01:05:52 | 日記

 

わずかに吹き出した雲が掠めただけだったが、真夜中にも雨が降ったみたいで高松の池の釣り堀も、増水していた。カイツブリは驚いたのかいなかった。

最近はポケモンGOの人たちを見ない。どうも暑すぎて出歩けないようだ。だが夜になると様相が一変する。車だ。どうも高松の池のポケモンストップの近くに車を止められるスペースがあるのを発見したようだ。そう正式な駐車場があるポケモンストップもある。なので夜なのに満車になっている。スマホを叩区人がいるので、まあポケモンだ。そして、夜は一般車両よりこの近在の人が帰宅に使う道なので、普段は車のスピードはそれなりだ。だが時速10キロ程度でノロノロ運転している車が目立つ。多分初めての道で暗く細いのでそうなるのだろうが、夜に初めて通る人以外は考え難い。もしかすると助手席に乗っている人がポケモンを探している可能性すらある。

今日の昼過ぎまでは割と気温が低かったのでポケモンの人がチラホラいた。ただ釣り堀の近くの一角では、やっぱり車がいっぱいいた。

 

 

今日は贅沢をして、緑ヶ丘のやま庵で蕎麦をたぐる。毎度思うのだが、この蕎麦が食べられるのは嬉しい。岩手は蕎麦の産地だが、実は旨い蕎麦に巡り会えない。そして響に行きコーヒーをいただく。

コーヒーマニアの知り合いがいたので、いろいろ情報交換をする。サードウエーブの雄、ブルーボトルコーヒーの青山店が流行っていないというのだ。スターバックスの方が流行っているという。スターバックスのコーヒーは素晴らしく美味しいとは言えないが、ブルーボトルのコーヒーのプロ達がテイスティングのための焙煎基準が正しいという考え方はもともと間違っていて、プロは欠点のあら探しのためにわざとまずくして飲んでいるのを客に出していたというのが、出たのだろう。カフェラテとかバリエーションの多い方が勝つに決まっているわけで、バリエーションの作れないまずいコーヒーはブームが過ぎればなくなるのだ。

とは言え今はどう高く売ろうかと商社があの手この手なので、喫茶店そのものもかなり惑わされているだろう。

まあ一番気をつけた方がいい言葉はナチュラルだ。自然乾燥の意味だが、アンウオッシュド、つまりレッドチェリーのまま乾燥する方法だ。これができるのはブラジルとあと少しかない。ブラジル以外の地域で作るとどんなに頑張っても、果肉臭・発酵臭の強い豆になる。ただアンウッシュドをナチュラルと言い換えたというのは罪だと思う。乾燥法と自然農法は違うのだ。

もしも意識が高い店に行って、ブラジルのナチュラルですと言われたら、何にも考えていないやつだと思った方がいい。

等々書けない話ばかりしたが、少し面白い話を聴いた。大手のコーヒーロースターは排ガス規制があるということだ。一回に焼く単位が100キロとかなのでバーナーから、豆から、そこから出る有害物質の除去が求められる。当然粉塵からNOx、CO、匂いの有機物まで除去しなければいけない。このため排煙装置が必要になる。結果排煙をどうするのかで窯の中の内圧も変わり、温度コントロールが難しくなる。そのための制御は空気の流れをコントロールするダンパーで行うが、その数がかなりになりそれらはコンピューター制御で行っているが、同時に排ガスも同時管理するというのだ。

大きくなると、そういった問題が出てくるという当たり前を、考えつかなかったというのは、恥ずかしい。

 

 

今日は嬉しいニュースしかないな。日本体操団体で、金メダル。柔道でも73キロ級で金。北朝鮮と韓国の体操選手がセルフィッシュを取っていたというのもいい話でした。でもね、みんな早く帰ってきてよ。

イチローのメジャーでの3000本安打も最高ですね。イチローはもう少し頑張って記録伸ばしてね。応援するよ。テレビはないけど。

 

 

尖閣諸島で中国の250隻の漁船と海警局の船も最大15隻出た。そして日本の領海にも入ってしまった。ニューズウイークに小原凡司氏が寄稿している。その通りなのだ。全くよくわからない。

小原氏が最後に述べているように、こういった行動が続いて国内が無関心になるのが問題ではある。

だが恐ろしく慎重な考えをしなければいけない。私らは中国人をそんなに知らない。そして中国に住んだこともない。だから彼らが何を考えているのかはわからないし、今日本に住んでいる華僑がどう考えているのかも知らない。身近な中国人の苦悩も知っている。

だが、なぜこんな野蛮なことをするのかは全く理解できない。ここに参加した漁民は軍事訓練を受けた人たちかもしれない、でも国家を背負った軍人ではないわけだ。人口が多すぎるからできるのだろうし、日本は何もしないだろうし、にしても万が一の場合は彼らはどうなるのだ。

そんなことも考えない作戦の意味不明が今回だ。

私は昔に、なりたくないものに中国国家主席とかいたことがあった。13億をどう指導するのか、それだけでも問題なのに無謬性を与えられた天才であるがゆえに、徹底的な孤独に陥る。そして自身の発言が意図しない方向に進んだり、メンツのために余計なことをする。結果最悪まで達する。

そう、今の中国の考える世界観はあまりにも狭すぎる。本来の中国ではない。

 

 

最近マーラーばかり聞いている。相変わらず晦渋な曲だが、この人生きているなと思う。でもなんでがあるのかと思う。中国文学の学者はこのドイツ語訳は相当おかしいと言っている。悲観的すぎる。本来はそこでも生きてゆくという中身があるという。

今中国では、文人たちの自殺が増えているそうだ。体制派であってものようだ。それは歴史の変わり目で起きることのようだ。

「大地の歌」の詩と、詩の作者の自殺があったかどうかは全く考えていない。ましてや死の直前に書かれたものかどうかも確認していない。だが現世の批判の詩ではあるのだ。

なぜ今を避けるのか。生きたいからだ。自殺は、残したいからだ。今の中国にそういった動きがあるとすれば相当厄介だ。

自分が生きた証をだ。だが我々凡人には、そういった手段もない。