
今日は降ったり止んだりだった。特に積もる雪もなく、特に晴れるわけでもなく、風だけが冷たい1日だった。

朴槿恵大統領、いやこの時間なら朴槿恵氏だろうか、憲法裁判所で弾劾が決定した。このニュースは11時過ぎに一斉に出回った。全員一致という結果だった。その結論は、法学的にどうなのかという代物に感じた。弾劾に値するのかどうか日本の報道ではどうもあやふやで、法というより現状を追認した言い訳のように感じた。今回はニューズウィークの記事が中心になる。
だがこれがアジア的な法律概念だ。民衆と王との間に不都合が起きた時に、神官が判断する根拠が法だ。時として民意を汲みすぎる判決があるのはこの通りだろう。ライブドア事件などは実際その匂いがある。ただ韓国では今国内が二分された状況にある。その状況で憲法裁判所は、リセットを命じたことになる。民意ではなく彼らの保身を感じるのは私だけだろうか。簡単にいえばいいのに。法的にギリギリだが件数が多すぎて手に余る。その上これ以上続くと我々の生活が危険すぎるので、政治的判断をさせていただく。とにかく新しい大統領を用意してくれ!
民衆と王との間に不都合が起きた時に、神官が判断すると書いた。これが顕著なのは中国だ。なぜそうなるのかといえば儒教だ。儒教というのは統治者の理論でもある。統治者は徳が高くなければいけない。その徳により絶対的な法を解釈し直すことができる。中国共産党は無謬である。最高の徳を備えた政府だからだ。なので尚更その法は絶対であり、その法解釈は絶対なのだ。
法がなぜ絶対なのかといえば、人が作ったものにもかかわらず、天から授かった魔法なのだ。人は人を裁けない。法というのは天から命じられた原則だからさばくことができる。この法に通じた法律家は、その魔力を使いこなせる法力家でもある。
なお古代中国では、法は人を縛るだけではなく天も縛ることができると考えていたようだ。それは最高権力者が天命を受けた天子である以上、彼の作る法は天の法でもあるのだ。その天子の権力が分裂した結果が、三権分立だ。
裁判所が孤高であるのは、神官だからなのだよ。

朴槿恵氏の髪型が40年間変わらなかったという。母が暗殺されて、ファーストレディとして出た時に長い髪を今の髪型にしたという。フカシモリというのだが、盛った髪という意味になる。ただショートヘアーなので相当難しいはずだ。崩れやすく内部にはヘアピンが24本使われているとも言われている。当然自分ではできない。なのでセヴォル号事件の時にも美容師にセットしてもらわないと表に出られなかった。
40年間2回髪型を変えたことがあったという。1987年と2007年だ。二つとも支持者の反対にあってフカシモリに戻したという。その支持者とは崔順実と見られている。
ただそれでもヘアスタイルを変えられなかった彼女は一体何だったのだろうか。自分の人生を切り開いて見える彼女は、延々と父と母の呪縛にあってきたのだろうか。崔順実の影響はあるだろうが、髪型すらも変えられなかったのは何かと言えば、やはり彼女の運命だったのではないのだろうか。呪いといってもいいかもしれない。悲劇のお姫様であり続けなければいけなかった。それは保守派から求められていた姿だし、両親の悲劇から運命を切り開く努力をしつつも母と同じ髪型であることで、両親のことを決して忘れない形にしてしまっていた。
やはり彼女は呪われていたのだ。いや自分でかけた呪いだったのかもしれない。

なぜ今韓国国内が2分しているのかといえば、実は朴槿恵氏が空っぽだったが故に起きた奇跡があったからだ。その任期中中国とアメリカを両天秤にかける外交を成功させたのだ。韓国では相変わらずの受験戦争と就職難でもあったが、景気も良かった。その中での大国をあしらうのは自身が過大に思えるくらいだったろう。韓国国内も強気であった。だが天安門に朴槿恵氏が立った時の表情は忘れられない。
いや、迎え入れる習近平総書記と握手した時から始まっていた。
政治家は何をするべきなのか、あの時気がついたのかもしれないが全ては遅かった。あの時から彼女は本当に空っぽになった。矢継ぎ早で親米路線を鬱が全ては遅かった。

ただこれらは古典的な政治力学の最後の話かもしれない。確かに崔順実氏の影響下にあったとしても、そのポピュリズムはドメスティックな部分が大きい。もともと韓国の国会議員は3期当選で古参と言われるくらいに変化が早い。それがポピュリズムでないはずがない。ただ韓国の場合、中国とアメリカという対立の中でのポピュリズムで、日本はその中で美味しいコマになっているだけだ。北朝鮮以外の仮想敵国を不明瞭にすることで成り立つのだ。
ただいま起きているポピュリズムというのは、反グローバル化と言われているが、グローバル化でアイディンティティを失う前の攻防に感じる。それはヨーロッパで顕著だ。ヨーロッパのように強固なアイディンティティのある国だからこそとも言える。自分たちが積み上げてきたものが変質する、しかも貧しい方向で移行するとなれば、不安になるだろう。
過激派のアイディンティティは除外するが、実は今世界で吹き荒れているのは後200年後に来るかもしれない政界の統一に向けた、潜在的な反発なのではないのかと思うところがある。SF的だが世界経済が統一された世界というのは遠くない。既にある。それが為替変動相場制だ。そして貿易のWTOや各種協定、全てが世界経済統一を目指している。だがその感覚は誰もがわかるものではない。ましてやその世界経済で痛めつけられると、個人は反発するし、陰謀論をたやすく信じやすくなる。何しろ何か理不尽だから。見たこともないバングラディッシュの企業に仕事を奪われたら、どう考える?

経済合理性が多い尽くす世界で、国家というのが存在しにくくなっている。それは為替なり自由貿易なり関税なり見えやすい形で存在する。日本では移民問題は少ないが、大量の移民を抱えたEUが苦労しているのは確かだ。
だがいちばんの問題は、国家と国民の関係が見えなくなったことだ。グローバル化で国家が相対化された結果なのだ。

先進国での相対化された言語はなかなかに見事でもある。ニューズウイークのパックンのコラムは素晴らしい。これはオススメだよ。
「近年、ユダヤ人コミュニティセンターを標的とした脅迫や、ユダヤ人墓地の破壊があり、」というくだりは、ユダヤ人が我々を攻撃する材料として行ったものだという意味になるらしい。

陰謀論は真実とは何かを追い求めた結果の帰着だ。だからこそのオルタナティブ・ライトだが、本質的には今起きていることが理解できないという話だ。
その前に、言葉がなくなってしまったからね。政治家は本質的にいなくなったのだよ。
PS
ダイヤモンドオンラインでワコールの創業者塚本幸一氏の言葉があった。
「人が人を使うということは、出来ると思ってる人があったら僕はそれは間違いだと思います。絶対、人は人を使えないんです」
政治家は肝に命ずる言葉だ。