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今日も高松の池だ。他にゆくところがないのだろうか。とりあえず1時間もいれば小ネタを拾える場所でもある。
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今日もシメさんがいた。今日もシメさんの嘴は汚い。
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アカゲラもいたよ。
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教育勅語が話題になっているが、現代ビジネスにちょうどいい記事がある。「教育勅語」復活論者は、単に歴史の無知を晒しているだけ」辻田真佐憲氏の論述だ。
1948年6月に衆参両院でその排除および失効確認が決議されるまでの間に、教育勅語についてどんな議論があったのか、それを知らずに復活を唱えるのはあまりにも無知だという話だ。
「1890年2月、帝国議会の開会を直前に控え、地方の治安維持をつかさどる県知事(内務官僚)たちは、「文明と云ふことにのみに酔ひ、国家あるを打忘れた」自由民権運動を抑制するため、「真の日本人」を育成する国民道徳の樹立を求めた。」
元々はこういったところから出発したが、山県有朋は「軍人勅諭」の民間バージョンを考えていた。そこで啓蒙思想家の中村正直氏に依頼したが、どうしても元々の要請から遠くなってしまう。そこで井上毅氏に依頼する。井上は儒教主義者の元田永孚と組んで草案を書き上げる。だが完璧ではあったが問題もあった。難解なのだ。
「君主たるもの、特定の政治的、宗教的、思想的、哲学的立場に肩入れする言葉を使うべきではなく、またその訓戒も「大海の水」のごとくあるべきで消極的な否定の言葉を使うべきではないと主張したのである。」
ということで言葉は立派なのだが曖昧なところが多く、戦前には教育勅語の解釈本が300本あったという。一応は井上哲次郎の解釈が正しいということになったのだが、不敬事件で彼が去るとこの解釈も曖昧になる。さらに日露戦争以降一等国になったという自負の元、改定しようとしたのだが中心人物の西園寺公がなくなったので頓挫。植民地を得て以降、異民族教育に適合したものにするべきだと改定議論が起きるが頓挫。
「結果的に、「教育勅語」の不足分は、ほかの詔勅の発布で補うかたちが取られた。1908年発布の「戊申詔書」、1939年発布の「青少年学徒ニ賜ハリタル勅語」などがそれにあたる。」
実は教育勅語以外にもこれら文章も失効している。
教育勅語がなぜ改定できなかったかといえば、小学校の祝祭日の行事で読まれたために、特に御真影を前にする行事とかもあったから、教育勅語そのものが神聖化されてしまったということがある。
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戦前の教育勅語には近代ですら問題があったのに、現代では問題が多くなるだろう。例えば前段の「父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭倹己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ」だけでも現代ではえらくめんどくさい。離婚率の高さや子供から大人まで広がるイジメ問題や、そもそも子供の前で近所の人の悪口をいう大人の姿を見れば、まあアウトだな。昔の純朴な小学生ではないのだ。
そうそう。子供が一番嫌うのはドライブ中に聞く、親が誰かの悪口をいうこと、だそうだ。これは私もよくわかる。
「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」は、やはり戦争の時にここが大きく響いたということで、この部分は使用できなくなっている。
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儒教が嫌いなわけではないが、儒教は君主の心得であり臣民の心得でもある。徳がある人が君主になり、それに感化されて徳を積む臣民の理想的姿は、立派だと思う。だが君主だから徳があると逆転したり、臣民には徳はないという断定にもなる。この恣意性が問題だ。首相は権力はあるが徳がない人もいっぱいいたわけで、それでダメだったということはない。清濁併せ持つ人物の方が好ましい。逆に清廉潔白すぎて徳がありすぎた鳩山由紀夫氏は最低の首相になった。そういった現実が政治でもある。
長く生きれば徳を積む時間もあり、立派な人になる。だが徳を積むこともなくただ単に歳をとった人を尊敬したくはない。
恣意的に逆転させられる体系が教育勅語の中には挟まっている。それは現在の民主主義の中では邪魔な存在になる。コミュニタリアンの道徳としてはいいかもしれないが、それを国家が推奨するのは、いいことではない。家庭教育の中で行われる分には問題がない。ただ、そういった方針で子供と接した親は、離婚してはいけないよ。
そもそも多様化してしまったこの時代には、教育勅語は古い。新しい教育勅語を考えるべきなのだが、多分誰も考えられない。それは教育指導要領といいう現代の教育勅語があるからだ。
そして徳の高い君主を想定しない限りは、教育勅語は成立しないのだ。幸いにして素晴らしい陛下がいるのだが、民主主義下ではたまたま素晴らしい陛下が存在しているだけと考えた方がいい。その意味ではイギリス王室というのはなかなかなものだ。
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とりあえず日本が、韓国や北朝鮮や中国になってはいけない。ただ、それを望む人が多いというのは信じがたいのだが、本当のことだ。
そういった社会の安寧を望むのなら、大人が教育勅語を学ぶべきだろう。子供に押し付けて自分が自由に振る舞うのはどうなのかと思う。大人こそ守るべきではないのかな。
大人が守らないことは、子供は守らない。これは事実ではないのかな。子供は守って親が守らない場合、子供は怒るよな。教育勅語を推進していた人が、「常ニ国憲ヲ重シ国法ニ遵ヒ」ではなかったというのは、かなりな問題だ。しかも詐欺だし。彼に対応した公僕も無作為で国法に抵触しているし(文書破棄の問題は、政令が改定された以降なようなので一応は法的な担保はあるが、恣意的な匂いしかしない)、国家が教育勅語に則っていないのなら、これは子供に教えられないだろう。
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高松の池でも福寿草が咲いた。