どうでもいいこと

M野の日々と52文字以上

2度目のシン・ゴジラ

2016-09-21 01:36:30 | 日記

 

今日も時間を作ってシン・ゴジラを見に行く。2度目だ。フォーラムでは切符のもぎりがミニラのような可愛らしい男の子だった。なんかサプライズな演出だ。40万人オーバーの記念シールをもらう。1日違いでもらえなかったシールだ。なんとなく嬉しい。そして7番シアターに入るとゴジラみたいな人がチラホラいる。ゴジラ感満載だ。ゴジラがゴジラを見るというのは愉快だ。ゴジラがカリウム同位体入りのポップコーンをボリボリしているのは想像しただけで楽しい。LLカップのコーラも頼もしい。

なお、カリウム同位体は自然にいっぱいあるので、皆様ご安心ください。

フォーラム盛岡はもしかするとシアターごとで少しだけ音響が違うかもしれない。前は5番だと思ったがサラウンドスピーカーから出るホワイトノイズが少し大きかった。7番はもノイズはあるが5番ほどではない。5番は思えば中低域が強い音だったが、7番はバランスが良い状態のようだ。ヤシオリ作戦の時の音楽はやはりエフェクトがかかっていて、くぐもった音質になっているが、5番ではくぐもった印象が強くなり、7番では気がつかない程度になっていた。シネマコンプレックスの最大の欠点である漏音はどっちもどっちもだが、7番の方が気になった。

2度目ということで、かなり余裕をもって観れた。ほんとこのスピードにはついていけない。2度目ということで画面にもセリフにもようやく追いついた気がする。ウワサである、がれきから人の手が出ているというのは確認できなかったが、最期の尻尾のシーンは確認できた。確かに人らしき形はいっぱいある。一つではないのだ。

 

 

映画館から出ると雨だった。今回は映画館にゴジラのような人がいたが外ではいなかった。

ラストの尻尾の人形なのだが、初代の「第2次世界大戦の英霊や民間人の霊」という説をとるならば、311の津波に遭った人たちの霊となる。ただこの靈説はとても魅力的だが、それは初代までだ。なぜならそれは東京大空襲のコースだからだ。だから見るべきものを観てゴジラは帰ったのだ。まあ多分天皇が抑えたのだろう。

311靈説になるなら、かなり様相は変わる。なぜ東京なのかというお約束が成立しなくなる。東北沿岸から出現しなければいけない。だってそうでしょ、そこから千葉県を通って東京湾に入らなければいけない。ということで靈説はこの映画ではあまり意味がない。(ないわけではない)

設定では明快になっていない核投棄場所だが、マリアナ海溝と考えて良いだろう。そこが世界で一番深く日本に近い場所だからだ。にしては写真が鮮明なのはどうかと思うが、そこから生まれた生物が単体進化、もしくは変態を続けながら成長してゆく。進化する過程と合わせてのドラマがこの話になるのだが、一番近い所に上陸したというのが正しいだろう。それ以外は考えにくいのだ。

それではエヴァンゲリオンと同じように、人体から生成された生き物であるという説にはまったく同意しない。庵野監督がそれをするはずがない。全く違う世界観をつなげるというのは、ゴジラ世界ではやってはいけないことなのだ。特撮オタクでもある庵野監督はそこは重々分かっているはずだ。

牧博士説もない。理由は個体が多いからだ。この件で出た死者を全て取り込んだとしても、そもそもどうやって取り込むのだ?

その前に公開されている例の折り紙分子構造が、依り代のような人形になっていることに注目したい。その分子構造が蓄積した結果人体のように見える構造になったと考えるのが合理的だろう。

だが骨格構造が人体のつなぎ合わせのようにできている、巨大生物にしてはまったく非合理なのだ。そこで、第5形態のゴジラが生成される直前で止めたのだという仮説もある。これが今は有力だと思う。なぜなら完全生物である以上、大きさは必要がない。大きいが故の大きすぎる熱量に対して小型化するというのが、体積と表面積の関係であるわけだ。進化過程を出した上では、ひとっ飛びに人類にたどり着く可能性を担保している。急速に適応するのだ。

つまり第5形態は、一気に分裂してゴジラ遺伝子を持つ、別な人種が登場する世界になる。多分巨人(とは言っても3メーターは超えない)だろうが、どんどん人類に近くなるのだろう。そうすると「進撃の巨人」とリンクする可能性もある。

 

 

上田に白い雀がいるときいていたが、ようやく見た。アルビノではなく部分的に色素欠落の個体だった。だが少しおっとりしていたのと、群れから少し避けられていた。だが写真には撮れなかった。この雀は、少し痩せすぎている。

「春と修羅」と、シンゴジラの関連性はいくらでも見つかるが、全体でここがこうだからこうということは全くない。ただゴジラという現象が反転した世界として合わせて読むとかなり面白い。それはもしかすると庵野の見る世界であり、牧博士の見る世界であり、ゴジラの見る世界だと思う。ゴジラはただ単に何処かに行きたいだけなのだ。まるで徘徊老人のようにひたすらまっすぐ何かを求めて動くのだ。結果鉄道沿線でラーメン二郎があるわけだが、動物である限り最も楽な人の作った道を進み、時には真直ぐに進む。何を求めているのかは、わからない。

ゴジラの尻尾に出たあの構造は、穏やかであり剣呑であり、産業的だ。そこのは歴史があり、そこに修羅として生きていた人類の姿がある。それは平凡なものかもしれない。修羅という角の生えたようなものではない。彼の考えている修羅とはこの世の中全てなのだ。

アメリカの研究とか陰謀的なところはいっぱいある。世界情勢から混沌としたパワーゲームの中で出てきたのが修羅であるゴジラだ。

ゴジラの尻尾には、そう無理やりビームを出して焼け焦げた先にできた人形は、世界が修羅である以上、「仮定された有機交流電燈の 一つの青い照明」が全てにあると言い切ったのかもしれない。

そう誰もがゴジラなのだ。誰もが修羅なのだ。だからあそこには「ひとがた」があるのだ。生きている人間も、見えない人間も、全て修羅であり、修羅の中でこその人生という、どこにでもある命題になる。

 

 

さてこのシールどこに貼ろうか。無邪気であった時はどこででも貼れたんだろうが、修羅となると難しいね。この中で一番好きなのは「仕事ですから」です。よくいう言葉なんですけど、ここでこの言葉は「仕事」の意味を考えさせられました。

 


予言は当たるとロクでもない

2016-09-19 21:10:56 | 日記

 

今日は盛岡市総合プールに泳ぎに行きます。7月から国体のために水を入れ替えて、ほぼ閉鎖状態でした。水質最高の状態でしょう。

 

 

久しぶりに太田橋を渡る。

 

 

サブプールと飛び込み台を覆う仮囲いが撤去されていた。ウン、ゴジラだね。もうこういったのみれば全部ゴジラの後にしか見えない自分が、おかしい。

 

 

屋外のベンチもペンキが塗られ、階段には滑り止めのシールが貼られた。もう安全。

 

 

更衣室の床は、すのこを止めてしまって、かなりビチョビチョになっていると聞いていた。プールまで全部滑り止めの床材を貼って、今まで滑りやすかったところが全部解決したのだが、更衣室の床だけはどうしようもない。

で、プールだ。実は覚悟していた。連休最終日で、混むと思っていたのだが全然ガラガラだった。例年の水入れ替え直後もそうなのだが、客数は減る。ただ連休だと思えば、以前の平日より少ないというのはものすごいことだ。

 

 

ブログの中で何回か書いている。公共プールで泳いでいる人は民間のプールに移行しない。理由はたとえ料金が同じでも敷居が高く感じられるからだ。健康増進のために泳ぎたくとも、フィットネスクラブはスポーツというイメージが強い。スポーツの人にとってはハァ?というのも一般的には敷居が高い。ただインストラクターがいていい環境なのだが、別料金が発生する。その上自主運営が基本なので、いつでも泳げるコースが確保しないこともある。好きな時に好きなだけ泳いでいたスイマーにとっては、最悪なのだ。

その意味では、公共プールのお客さんは公共プールに移行するのだが、都南もゆぴあすもそれで増えたという印象がない。多少増えた感じはあるが、数人といった感じだ。

長期に公共プールが閉鎖することで、水泳をやめる人が増えるのではないのかという仮説があった。水泳を続けたい人は民間に流れ、自由な時間で無理なく泳ぎたい人たちは、都合のつかなくなったプールで泳ぐことをやめるのではないのか。それでは引越しするかといえば、観察する限りなかった。

私の公共プールを利用する時間帯は、午後しかない。夜はないし午前中はない。そこでは高齢者が多い。その高齢者はどういった動きをするのだろうか。私の年代あたりまでだと、泳ぎたい・いつものプールは休み・他を探す・泳ぐ・居心地が良くて別なプールに移る、もしくは幾つかのプールを利用形態に合わせて使い分ける、まあ私だ。だが知る限り、プールが閉鎖される期間が長ければ、水泳するという習慣がなくなり、泳ぐことがなくなる。

これは閉鎖された肴町プールでも観察されたことだ。閉鎖後にある老人クラブが幕を閉じた。会員が激減したからだ。その最大の原因は、街の真ん中にあったプールだが故の利便性の良さで成立していたのが、交通手段がない人たちが一気に離脱したのだ。

この事例から、国体で長期閉鎖することで水泳人口が減る、という考えを水泳関係者に話したが誰も相手にしなかった。誰も危機感を持たなかった。

もうしばらく見ないと結論はつけられないが、10月10日の体育の日まで客数が回復できないと、かなり危機的だと思う。

 

 

明日はゴジラに会いに行こう。


シルバーウイークをなめていました

2016-09-19 01:10:30 | 日記

 

今日も何もないので、近所のスーパーに買いものに行きます。すると、お菓子の棚に大異変が起きています。ナビスコの商品が大幅に無くなってナゾのYBCというメーカーに置き代わっています。以前書いたことのある、ナビスコブランドを所有する米モンデリーズ社がナビスコブランドの独自販売を行い、ヤマザキ・ナビスコは解消して、日本ではモンデリーズが販売しヤマザキパンが下請けに入るという戦略だった。ブランドが確立しているから可能と考えたようだが、ヤマザキがこれを拒否。そこでブランドとして浮上したのが今まで日本のナビスコブランドで製品を作っていた、ヤマザキビスケット株式会社(YBC)だ。ナビスコの方は逆にクラッカーのリッツはインドネシア、オレオは中国からの輸入になる。その隙に一気に商品展開してきた。

まあ元々ヤマザキ・ナビスコの「チップスター」はヤマザキの商品だった。ナビスコの商標で出ていたがこれがヤマザキ・ナビスコの売り上げの6割を占めていたわけで、売り上げが減っても体力はある。そこでオレオ以外の競合商品を一気にぶつけてきたわけだ。独自の流通網がこの急展開を可能にしたのだろう。

だがヤマザキはすでにナビスコブランドの安売りを進めていなかったか?棚をそれで開けさせて競合製品を投入していなかったのか?そういう気がしてきている。9月1日から始まっていたはずで、実はもう少し前に棚は完成していたのかもしれない。

本来なら17年12月までナビスコブランドの商品を作れるはずなのだが、一気に叩き潰しに向かう感じが、ヤマザキの本気をうかがわせます。そういえば、ヤマザキーローソン戦争ってあったな。あの時もヤマザキの完勝だった。ローソンが独自生産のパンを作るからパンの流通は全部ローソンでやるから倉庫搬入でいい、という割といい話のように見えた。だがヤマザキは独自搬入でないとダメだと言い切って、取引を停止した。ここは私の勘違いがあるかもしれない。ローソンがヤマザキの製品を全部独自ブランド化しようとしたと、当時は思われていたのでヤマザキは悪ものくさかったのだが、多分独自流通へのこだわりだったのではないのかと。ただ、この件ネットではどうも落ちていないようだ。なので詳細は不明だが、今でこそヤマザキはOEM商品を作るが、当時は全く考えなかったし流通も今もそうだが、独自路線を貫いている。

ただ一つだけわからないのは、モンデール社がヤマザキという会社をなぜ理解しなかったかということだ。ヤマザキの独自の流通網をなぜわからなかったのかということが、ナゾでしかない。ローソン事件もあった。そしてアメリカ本社がよくあるブランド管理をしようとした結果なのだが(現在大迷走中のマクドナルドがそうだな)、そこに反発する人がいる。特に流通ではあったと思う。今後の出方がよく分からないモンデールより、安定して特売などにも対応してくれるヤマザキを選ぶのは当然だ。そして中国製のオレオはやっぱりどうかとなるのだ。

棚に余裕のある大きなスーパーとか逆に過激な競争のコンビニとかはまだ観察していないが、ヤマザキパンはやっぱり徹底しています。なお東ハトと不二家もヤマザキ系列なので、この搦め手からオレオを攻略されたらたまらんですね。実はすでに始まっているようだ。

だってオレオってクリームが不味いんだから。アメリカのレシピだから不味いというのは、誰もが知っている。

 

 

ということで、シンゴジラを2度見しようといったら、ああ「いしがきミュージックフェスティバル」だったけか。イベントだ。自転車置けないし、ギリギリで家を出たものだから、開演時間もギリギリ10分。これ映画無理だよねと思ったら、やっぱり受付に長蛇の列。まあ新海監督の「君の名は」なのだろうが、シンゴジラも客席数に△マークが出ている。

そう、シルバーウイークなのだよ。連休なのだよ。すっかり忘れていた。

 

 

ゴジラにわかれをつげて、仕事をすることにします。

宮沢賢治の「春と修羅」を読んでいますが、読めば読むほどわけわかんないですね。でもゴジラからどんどん離れて行っています。ゴジラはここまで知的な現象ではないですからね。

 

 

「堅い瓔珞はまっすぐに下に垂れます」という詩を見つけたが、文字変換に30分かかってしまった。

 


なぜかシュニトケ

2016-09-18 00:57:21 | 日記

 

今日朝起きると左足首が痛い。何をやったのかわからないが、ちょうど足の指への腱が集中しているあたりの下の骨のようだ。なので歩いても痛くはないのだが着地の高さが問題のようだ。

思い当たるのは、真夜中にシンゴジラの公式サイトに「あなたもゴジラになれる」というコーナーがあって、顔写真を合わせて野村萬斎のモーションキャプチャーと合わせて動かせられるというものだ。モーションキャプチャーは人体なのでゴジラに合わせて修正した動きではなく、どうも野村萬斎のモーションキャプチャーの全く無修正のもののようで、キャプチャー落と思われる部分を含んでいる。まあそれを真似したということかもしれない。結構吠えるところは難しい。中腰すり足で歩いて、両足揃えて止まってから腹筋に力を入れて少しかがんでから、両腿を少しビックッと震わせてその力を一気に腰から胸にあげて、顔をあげて吠えるという動きだ。結構難しい。肩の力はすべて抜いておいたほうがいいかもしれない。足の先は開いていないようだ。

考えられるのは多分これだけ。

 

 

先週は、この調子では来週はショスタコーヴィッチばかり聴いているだろうと言っていたが、なぜかシュニトケの交響曲ばかり聴いている。6番以降は似たようなところがあるが、まあ違う。なぜか4番をよく聞いている。

ポップスを芸術まで高めるという作業は、ある意味ショスタコーヴィッチのジャズ組曲に通づるものがあるのだろう。

 

 

響に行き熱田さんにシンゴジラのパンフレットを見せて、煽っておく。ネタバレ禁止となっているが、この場合はネタバレは上等だろう。なにしろ話の筋がわかっていても情報量の多さに圧倒されてしまうからだ。特に筋と全く関係ない部分、冒頭の「春と修羅」との関わり合いとか、映画監督の岡本喜八にオマージュらしきものがあるとか、ただそれ以上にゴジラファンだったようだ。CGでなければ絶対できないゴジラロングカットとかに、パンフレットからそそられたようだ。

そう、今回のゴジラ映画は秘密主義でどんな筋なのかはTVでは全く出さずに、映画用コマーシャルでゴジラが出てくる程度にしか情報がない。とても少ない情報では、見に行く動機にならない。正確に言えば現時点でネタバレ的に筋はいたるところで書かれている。でも届かないところには届かないのだ。

ただ、熱田さんに「ゴジラは皇居を壊さない」「初代ゴジラは東京大空襲の進路と一致している」。これはしばらくして、同意をもらった。そう初代ゴジラにこめられた怨念は凄まじいのです。

「春と修羅」を読み始めた。詩集はやっぱりめんどくさい。言葉にしなければいけない。字面では詩集を読んだとは言えないものがあるが、賢治の詩集は今でも難解だ。だがゴジラ以降は、なにかゴジラの心象風景に見えてしまうのだ。

 

侏羅や白堊の真っ暗な森林の中

爬虫がけわしく歯を鳴らして飛ぶ

その氾濫の水煙からのぼったのだ

たれも見ていないその地質時代の林の底を

水は濁ってどんどんながれた

いまこそおれはさびしくない

たつたほとりで生きてゆく

こんなきままなたましいひと

だれがいつしよにゆけようか

大ぴらにまっすぐ進んで

田舎ふうのダブルカラなど引き裂いてしまへ

それからさきがあんまり青黒くなってきたら…

そんなさきまでかんがへないでいい

ちからいっぱい口笛を吹け

 

宮沢賢治著「春と修羅」小岩井農場パート4断片

 

賢治の詩集は人間的でないところが大きい。言葉による世界の造形という側面もあり、断片的な言葉を寄せ集めた世界という側面もあり、中二病的な側面もあり、世界と個人の対峙する限界というのも感じる。その代表的な詩集が冒頭にあるということで、賢治ゴジラ化という現象が私に起こっている。

ただ、宮沢賢治の静六氏は賢治作品の猫化というのをえらく嫌っていた。ますむらひろし氏の「アタゴオル物語」は別作品だと考えていたようだが、「宮沢賢治童話集」は我慢できなかったようだ。ただますむら氏の影響は強く、静六氏の死後に作られた「銀河鉄道の夜」のアニメ化は、ネコ化した。

私も賢治作品のネコ化は嫌いだ。賢治の世界は決して自由ではない。ネコ好きが考えている自由な世界では全くない。

だが賢治ゴジラ化は、どうなんだろうな。静六氏は許してくれるのか。多分猫よりは嫌な顔をしないはずだ。でもやっぱりここは人に戻さないといけない。

人として「春と修羅」を読まなければいけない。賢治は人である。ただゴジラが「春と修羅」を読んだという可能性が捨てきれない。

 

 

よいちのアオゲラ農園では「シン・ゴーヤ」があった。実は先週第二形態から第三形態から作ったのだが、うまく行かなくて今回第4形態の展示になったという。よくできているよ。なおアオゲラ農園は野生動物の研究者がドロップアウトして作ったというところもあって、

卒業した岩大生たちとあった。身長185センチ体重110キロまで大きくなった。まだ第3形態とかゴジラネタで話をしていたのだが、ネタは理解していても、誰もシンゴジラを見ていない。多分理由は、彼らは忙しいからだ。ただもう一つ、別な理由があった。「ゴジラ」は映画館が子供のものだという考えがるのかも知れない。ハリウッド版がイマイチだったということもあったかもしれない。一関では上演されると思えないという、遅れてくるのだともいう。

情報格差というのは、どういったことかというのがわかったような気がした。


今日は絶好調だった

2016-09-17 00:58:42 | 日記

 

今日も泳ぎに行く。今日はよく腕が伸びた。おかげでタイムもよくサクサク泳げた。だがおかげでバテバテだ。

 

 

今日は面白いニュースがあった。ロシアのメディア監視局が、子供達に有害だという理由で11のポルノサイトを閲覧不能にしたのだ。これに対する反応が、なかなか面白い。

「PornHub」はメディア監視当局(連邦通信局)に対して、「もしプレミアムコンテンツを無料で提供すると言ったらまた閲覧を許可してくれる?」とツイートしてみたが、「我々は顧客ではないし、ロシア国民は商品ではない」と、つれない返事が返ってきた。」

公開で買収を持ちかけている。もちろんネタだろう。彼らはあっという間にサイトを替えて運営するからだ。当局とのイタチごっこには慣れている。

アメリカに「ポルノ難民」の認定を申請する者たちも表れた。」

『PornHub』をブロックしても俺様の想像力は抑えられないゼ!」

もちろんこれもネタでしょう。でも二つ目の想像力は〜という方、ポルノいらないんじゃないの?

別のネットユーザーは、「『PornHub』の代わりに政府は何を提供してくれるんだ?」とツイートしたところ、連邦通信局から「ポルノサイトの代わりは『現実』で見つけろ」と叱られたという。」

ということで、実はロシアの少子化対策なのではないのかと思われます。個人的に、ロシア人の保守的さというのはなかなかなもので、女性蔑視とかマッチョイズムというのが濃厚に感じられます。そういった方々はポルノ大好きだという気がしています。日本人だと、ポルノですらマニアックな方向に走っちゃいますけど、そのコソコソ感が女性恐怖症の男性という気がします。



上海で十五夜に合わせた月の形をした巨大な風船が、台風14号の風で飛ばされて市内をゴロゴロしていたらしい。CNNだ。平和なニュースだ。

だが不穏なニュースがある。日本はアメリカと南シナ海で共同巡行訓練を行うという。これは大変な発表だ。だがこの件で一番恩恵を被るであろうフィリピンはどうなのかといえば、ドゥテルデ大統領が支離滅裂すぎてお話にならない。

「麻薬犯罪の一掃を掲げたドゥテルテ政権発足後、フィリピンでは3000人以上が司法手続きを経ずに殺害された。その実態を調査するために上院が開いた公聴会で15日、暗殺部隊の元隊員が証言し、1993年にドゥテルテが法務省の職員をイスラエル製短機関銃ウジで射殺したとぶちまけた」

フィリピン政府はこの話を否定しているが、過去にも現在にも、たとえ麻薬組織だったとしてもそれを法的根拠なしに殺し続けるのはどうかと思う。公権力は、法の制限を受けるが故に警察権や治安維持のための権力や国防権、諸外国との戦闘権、そういった暴力装置を持つことが許される。だが憲法や法の歯止めがあってこそでの保持である。

ロシアのプーチンのほうがその意味ではまともだ。

 

 

シンゴジラの公開が延長された。いいことだ。「春と修羅」を読み直して、岡本喜八監督「日本のいちばん長い日」でも見てからにしようか。