

私どもは、室町の子といえる。いま、「日本建築」というのも、要するに室町末期に起こった書院造りから出ている。床の間を置き、掛軸などを掛け、明り障子で外光を採り入れ、襖で各室を区切る。
こんにちでいう華道や茶道という素晴らしい文化も、この時代を源流にしている。能狂言、謡曲もこの時代に興り、さらにいえば日本流の行儀作法や婚礼の作法もこの時代から起こった。私どもの作法は室町幕府が定めた武家礼式が原典になっているのである。
とくに応仁の乱(1467-77年)以後は、無数の豪族による割拠が常態化し、日本中が百千の破片になった。百千の断片どもが、自分が破片であることに不安を抱いたのか、かえって文化の統一をまねいた。総合して、室町の世は後世への大きな光体であった。
大徳寺・大仙院の枯山水庭園


禅寺の方丈の枯山水がそうである。本来、日本庭園の命は「遣り水」だった。が、枯山水にあっては水を用いず、水をも象徴化した。滝も流れも海でさえ石組みと白砂で表現した。
「足軽」が登場する。正規の武士たちの前列にあって、いわば戦争を請け負う者たちだった。国人・地侍でさえなく、農民のあぶれ者というべき存在で、甲冑すら身に着けていなかった。
応仁の乱以後、百数十年乱世がつづく。秀吉が雑人から身を起こしそれが天下人になるのは、応仁の乱という中世秩序の崩壊をみていたからに相違ない。
平安朝のころはもとより、鎌倉・室町の世でも、地下人のくらしをあれこれ考えるような公家・武家貴族はいなかった。
その点、北条早雲は画期的な存在といっていい。好い歳になって伊豆に下り、「領国政治」というものを発明し、農民の世話を保母さんのように面倒をみた。
仮に早雲を野暮の代表とすれば、彼と同時代の将軍・足利義政は誠にいき(風流)なものであった。義政は統治者でありながら、応仁・文明の乱をよそに見、一切手を打とうとしなかった。
義政は東山の山荘・銀閣寺に超然として風流三昧の暮らしをつづけた。彼は、文化史上の「東山文化」はこの人物と感覚なくしては成り立たない。
彼は、宗教である禅や浄土思想さえ美学的なものに数式を変えた。その好みによって出来た東求堂とその庭園はそれらの思想を造形化したものといっていい。
日本の文化は、この時代を源にする。
⑤にもどる つづく


やはり「日本人に生まれて良かった」
そう思える心が 文化でしょうか
訳の分からんコメントですみません
「大徳寺」の記事
なんと 自分もコメント差し上げていましたね
ビックリでした
昔の自分に出会った気分になりました(^o^)
ヒゴタイだと、画面がすこし引き締まります。
つぎの雲海に浮かぶ 涅槃像も、なお一層好いです。
「衣食住」は生きていくために最低必要ですが、「文化」はなくても生きられます。しかし、豊かな生活を演出します。
> 「大徳寺」の記事・・・昔の自分に出会った気分になりました(^o^)
2012年のKさんのコメントが、いまも残っています。
あのときのコメント返信は、一括まとめて書いていたようです。
そのときの話題「青島太平洋マラソン」とは不連続ですから、どんな記事かは捉えようがありません。
そんなことから、いまは当該記事のアドレスを残すよう心掛けています。
栄西は、宋から本格的な禅を伝えてる
北条政子らの支援を得て建仁寺を創立
南宋に真似、足利義満が南禅寺を「五山の上」
京都五山と鎌倉五山を指定
室町時代に、宋・元・明の文化を禅を通じて
まとめて受け入れた
仏式の葬式の形は曹洞宗が編み出したもの
以上『最強の日本史』から抜粋です
小堀遠州へのコメント有難うございます
大胆にも、小堀遠州の庭園でゴルフしたいと
記載しましたが、難しくそうで、バンカー苦手の
私に遠慮します
そんなこともあって、小堀 遠州は、庭園作りの名手だけだと思っていました。備中松山藩第2代藩主でもあったのでしたか。φ(..)メモメモ
江戸時代は鎖国していましたが、長崎の出島にオランダを受け入れていたことで、アリの一穴ながら欧州の文化を覗いていました。
室町時代は乱れてましたから、意外なことですが、
司馬遼太郎は、足利義政が銀閣寺で風流三昧の暮らしが、いまの日本の文化の礎になっていると申します。
「日本建築」なるものは、室町末期に起こった此処の書院造りから出ているといいます。
板の間に畳を敷き床の間を置き、掛軸などを掛け、明り障子で外光を採り入れ、襖で各室を区切るということをはじめたのです。
こんにちでいう華道や茶道というも、この時代を源流にし、能狂言、謡曲や、日本流の行儀作法や婚礼の作法もこの時代から起こったといいます。
室町時代は、京都ではいまでも先の戦争というと、第二次世界大戦のことじゃなく応仁の乱のことをさすらしいですね。
そんな荒れた室町時代に、日本文化がはじまったなんて、とても思えないです。
「文化鍋」はアルミ製のガス調理台でご飯を炊く専用鍋らしく、まだ電気炊飯器は出来てないです。
「文化干し」は、魚の干物をセロファンで包み込んだものだそうです。
「文化住宅」はトイレや台所がそれぞれ独立した二階建てのアパートを指し、「文化包丁」は肉・魚・野菜など様ざまな食材が扱えるようにした万能包丁だとか。
明治初期には、「ザン切り頭を叩いてみれば文明開化の音がする」というざれ歌が流行り、ちょん髷を捨て去るのが近代化の波に乗った人と奨励されたようです。