『インド独立の志士 朝子』(笠井亮平著 白水社)を読む。
英国の植民地だったインドから独立の戦いのため日本に亡命していた闘士を両親にもつ朝子(アシャ・バーラティ・チョードリー)。父、サーハイは自由インド仮政府書記官長、朝子は神戸で生まれる。その後東京に移動し日本女子高等学院(現・昭和女子大)に進む。しかし独立闘争に参加するためインド国民軍婦人部隊に志願し日本を離れ前線に向かう・・。今もインドのデリーにお住まいの実在の人の物語だ。
いろいろな人物のさまざまな人生があるものだと思いました。
日本はインドの独立を支援し協力したことは事実です。戦勝国にも敗戦国にもそれぞれ大義を主張する根拠や理由は十分にあります。戦争はそれぞれが正義と思い込んだ価値観と価値観のぶつかり合い、それを一方が完全に悪玉だったと言い切ることは不可能に近いことでしょう。
日本はインドの独立を支援し協力したことは事実です。戦勝国にも敗戦国にもそれぞれ大義を主張する根拠や理由は十分にあります。戦争はそれぞれが正義と思い込んだ価値観と価値観のぶつかり合い、それを一方が完全に悪玉だったと言い切ることは不可能に近いことでしょう。
中国軍とインド軍の対話
本書の中で、日本が降伏した直後、朝子の父、サーハイは一軍を率いてハノイ(現ベトナム)にいた。南部からは英国軍が迫っていた。植民地本国の英国に投降するなら残酷な扱いを受けるだろう。ならば一層のこと中国軍に投降すると決め自ら出向いた。この時の中国軍司令官、盧漢将軍とサーハイの会話が印象に残ります。
「我々は英国(イギリス)と戦ったのです」とサーハイ。
「しかしあなた方は我々の敵(日本)と協力しましたね。そうでしょう」
「はい、たしかに。これは悲劇です。我々はあなた方の敵(日本)と協力したが、あなた方は我々の敵(英国)と協力した。とはいえあなた方も我々も協力者のために戦ったのではない。違うでしょうか?」
中国司令官はしばらく沈黙した。やがて彼は微笑し「我が領土内ではいかなる英国人もあなた方インド軍に指一本触れさせません・・」
「しかしあなた方は我々の敵(日本)と協力しましたね。そうでしょう」
「はい、たしかに。これは悲劇です。我々はあなた方の敵(日本)と協力したが、あなた方は我々の敵(英国)と協力した。とはいえあなた方も我々も協力者のために戦ったのではない。違うでしょうか?」
中国司令官はしばらく沈黙した。やがて彼は微笑し「我が領土内ではいかなる英国人もあなた方インド軍に指一本触れさせません・・」
戦場でのいい話の一幕ではありますが、なんとも双方に義が認められる戦争の持つ2面性を感じないわけにはいきません。
戦時中の日本教育を受けた軍国少女・インド版ともいえる朝子の生き方。しかしこれが、あの時代の選択であったことを誰が今とやかく言うことができましょう。著者は、あとがきで「あの戦争」をめぐっては今も議論が続き見解の一致を見ない、と・・まこと、そう思います。
インドの独立までの歩みも詳しく理解でき、おもしろ本でした。
インドの独立までの歩みも詳しく理解でき、おもしろ本でした。
インド独立の志士「朝子」 | |
笠井亮平 著 | |
白水社 |