ポポロ通信舎

(旧・ポポロの広場)姿勢は低く、理想は高く。真理は常に少数から・・

【中学下宿記】(18) 医学生たちと

2009年12月08日 | 中学生下宿放浪記
今度のI家は、旦那さんは勤め人、奥さんとお姑さんが副業的に経営する
下宿屋さんでした。部屋が5つほどあり全員、群馬大学の医学部の学生。
場所は才川町(現、若宮町)で私が長く住んでいた国領町とも近かった。

中学生の私はここでは半人前扱い。自分の部屋は無く、朝夕は食堂と
化する6畳の部屋で、お姑さんと一緒です。部屋が、ちょうど満室で
どこか空いたら私に与えるということでした。無理に押しかけたわけで、
それは当然のことでありました。

お婆さんとの“同棲暮らし”は、実家でも経験し2度目。
夜になると家族の居る隣りの部屋は、電気を消してさしずめ映画館だ。
今思えば、なんとも小さな画面の白黒テレビを囲んでの鑑賞会。
「ローハイド」を一緒に見たのを思い出します。「ヒャーッ、ピシッ!」
の鞭の音のテーマ曲とロディ役の若きクリント・イーストウッドの姿が
焼きついています。

大学生のお兄さんと親しくなりました。広島市出身の医進1年生。
名前は最初の文字しか思えだせない・・仮に「K兄」としておきます。
静かに勉強する館(やかた)でした。このK兄も毎晩、夜遅くまで勉強
していました。新入学生の名簿をみせてもらったことがあります。
群馬県内では、高女、前高、太高の出身者がいた。このころになると
東毛の「太田」の文字がなんとも懐かしさと親しみを感じるようになって
いました。
K兄に何の科目が一番大変か尋ねると、「ドイツ語」だという。いずれ
ラテン語も学ぶようなことも言っていました。ノートを使ってのドイツ語の
単語の暗記方法を教わった。私はこの時のK兄の影響でドイツ語は難しい
語学という先入観念を抱いてしまいました。

K兄と前橋の街を歩きました。
「広島より田舎でびっくりした。関東だというからもっと都会かと思った」と
とても残念そう。広島の高校入試は、成績1番がA高、2番がB高、3番C高
そして4番がまたA高と、均等に振り分けられるのだと聞き、なんだか広島の
方が進んだ方式だなと感心しました。とにかくK兄は、前橋の文化、民度の
低さなどにも失望しているようでした。このとき前橋と大泉しか知らない私には
K兄が文明の進んだ土地からやってきた人間にみえました。

ある時部屋の隅に、私がテストの答案用紙を不用意に落としてしまった。
それを拾い上げてくれたのが偶然K兄で「君は成績が悪いんだな」と暗く
しみじみと悲しい目でぽつんと。それは美術の教科、85点だった。K兄の
レベルの高さを改めて知る思いでした。

レベルの高さといえば、医学部生たちのガールフレンドたちが、時々下宿に
やって来る。どの女性も可愛らしく華麗でした。
まだ私は異性を意識しない時期でしたが、「美人の彼女が多い。医学生は
モテるな」と子供心に思いました。

お婆さんと私の部屋は、朝と晩は食堂を兼ねています。大きな円卓に
食事が用意され学生たちの会話も耳に入ります。
いつか産婦人科を専攻する学生の人物タイプが話題になった。居合わせた
学生たちは、別の科志望だったのでしょう。意外な学生が産婦人科に進む
のを驚いたというような話。何科に進むかは医学生たちの強い関心ごと
だったようです。
私なら内科がいいな、などと勝手な想像をして聞いていました。

広島に帰省したK兄に暑中見舞いハガキを出しましたが「暑」が「著」に
なっているなど誤字だらけの拙文をしっかり添削され、あとでこっぴどく
叱られたました。
私の下宿生活の中で、知的水準の高い環境という点では、このI家の経験が
一番だったように思います。(つづく)


【写真】修学旅行の列車の中で。中2の筆者。

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