今思うと、1年も満たない大泉町での生活でしたが、その間はとても
長く感じられ、変化に富んだものでした。そして、何よりも自分でも
驚いたのは、あれほど母が近くにいない生活は涙が止まらず、考えられ
なかったことなのに今度は自ら、母の元から離れて行くことになるとは。
12~3才頃の少年の自立への成長過程は、実にすごい速さです。
大泉でのひとり生活が、それをさらに促したのかもしれませんが。
生家でもある祖母、叔父の住む相生町(現、本町)に住所は置いたものの
そこには住まず、他人の家での下宿生活を選びました。
新しい住まいは芳町のK家。母の知人のツテでした。奥さんと娘さんが2人
旦那さんは、たまに訪ねてくる程度。玄関に大きなオスの洋犬がいました。
番犬にぴったりの容貌でしたが大人しく私にもすぐになつきました。
4月の2年1学期、始業式の日から、前橋一中に戻りました。
この日は、クラス替えで全員が校庭に集まり、新担任の下に再整列をする。
「あれ?桂じゃねーか!どうしたん」
顔見知りの友だちは、とても驚いた表情で私を見た。ただここは県下一の
マンモス校、ベビーブーム世代で1学年15組、1クラス50人、総勢約750人が
再編されるわけで、元級友の大半の生徒も一緒になる確率は少ない。
それだけに再転校の私の存在は目立たなく、誰もが自分のことでいっぱいで、
新しいクラスに関心が向けられている状態。その辺は私の計算どおりでした。
私は10組に入ることにほぼ決まっていた。担任はベテラン男性のN先生。
先生は偶然私の出身の小学校からこの日、転任し初めて中学生を受け持つ
ことに。
小学校では担任ではなかったものの、私のことをよく知っていてとても
好意的で、私も信頼できる先生と思っていました。もしかしたら事前に
組替え案で同じ組に入るようN先生の尽力があったのかもしれません。
新しい組の列に並んでいると、N先生が急にやってきました。「実は隣りの
9組の人数が足らないんだ。できたら誰か移ってくれないか」と私の方を
向いて申し訳なさそうにしている。断ることもできた雰囲気でした。
担任がN先生だと聞き、喜んでいた私には正直、とても迷いました。。
しかし困っているN先生を思い、小さくうなずいた。
N先生と私は同じ若宮小学校以来の再会を喜んでいた直後だっただけに、
N先生も本当に残念そうにしていました。こんな些細と思いえるクラス
編成の話なのですが、その後の私にとってはこれが少なからず禍根になる
とは、このときはまだ気付いていませんでした。
戻ってみても当時の一中はいじめや非行の話はまったく聞こえてこない。
雰囲気は都会的で、改めて見る生徒たちは、みな大人びているようでした。
学校生活の方はこれでやっと安住を得た心地でした。
部活は念願の剣道部に入りました。
前橋のキリスト教会にも久しぶりに通い始めました。
すべてが、リセットされ晴れ晴れしい気持ちの毎日がつづきます。
不思議と母恋しさの感情は、まったく消えていたのです。
下宿では大きな番犬とはすぐに仲良しになったのですが、犬に負けない?
大柄な市内の女子高に通うバレー選手の長女とはケンカをしてしまった。
どんな理由かは思い出せないのですが、口ゲンカでした。私が劣勢で
一方的にやられて小さくなっていた。その時、私より1歳年上の小柄で
可憐な次女さんが、姉に向かって「そんなに強く言わなくてもいいのに」
と制止してくれた。嬉しかったが、なぜ同じ姉妹でもこうも違うのかと
の思いでした。
「よし。引越しだ!」私は心の中で叫んだ。
前橋に戻ってからは、学区が異なり第四中学校に進んだ小学校時代の友人
たちとも交流が再開していました。
1年ぶりで会った才川町(現、若宮町)に住む四中生、H君が「近くに良い
下宿屋があるよ」と教えてくれた。
さっそくその家をH君と一緒に訪れた。すぐ承諾を得て、引っ越しが決定!
この転居は、母の手を借りず下宿探しから引越しまで自分で進めてしまった。
引越しはH君がリアカー(荷車)を借りてきてくれ、一緒に運んでもらった。
荷台には机と本と布団、それに宝物はカメラ(マミヤ)とラジオ(6石トラン
ジスタ東芝の一号機)だけ。もちろん三洋のメーター付き自転車もお供です。
なんとも身軽でわずかな“所帯道具”。
H君といえば、小学生のころから新聞配達や豆腐売りをして家計を支えていた。
私は、夕方の豆腐売りをよく手伝った。はにかみ屋の彼に代わって、独特の2音
ラッパをプープー吹いたり、豆腐がいっぱいで重い箱付自転車の後を押しました。
今度の引越しでは、すっかりH君に助けられました。リアカーで後押されている
のは私の方でした。 (つづく)
【写真】前橋市立第一中学校の徽章
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長く感じられ、変化に富んだものでした。そして、何よりも自分でも
驚いたのは、あれほど母が近くにいない生活は涙が止まらず、考えられ
なかったことなのに今度は自ら、母の元から離れて行くことになるとは。
12~3才頃の少年の自立への成長過程は、実にすごい速さです。
大泉でのひとり生活が、それをさらに促したのかもしれませんが。
生家でもある祖母、叔父の住む相生町(現、本町)に住所は置いたものの
そこには住まず、他人の家での下宿生活を選びました。
新しい住まいは芳町のK家。母の知人のツテでした。奥さんと娘さんが2人
旦那さんは、たまに訪ねてくる程度。玄関に大きなオスの洋犬がいました。
番犬にぴったりの容貌でしたが大人しく私にもすぐになつきました。
4月の2年1学期、始業式の日から、前橋一中に戻りました。
この日は、クラス替えで全員が校庭に集まり、新担任の下に再整列をする。
「あれ?桂じゃねーか!どうしたん」
顔見知りの友だちは、とても驚いた表情で私を見た。ただここは県下一の
マンモス校、ベビーブーム世代で1学年15組、1クラス50人、総勢約750人が
再編されるわけで、元級友の大半の生徒も一緒になる確率は少ない。
それだけに再転校の私の存在は目立たなく、誰もが自分のことでいっぱいで、
新しいクラスに関心が向けられている状態。その辺は私の計算どおりでした。
私は10組に入ることにほぼ決まっていた。担任はベテラン男性のN先生。
先生は偶然私の出身の小学校からこの日、転任し初めて中学生を受け持つ
ことに。
小学校では担任ではなかったものの、私のことをよく知っていてとても
好意的で、私も信頼できる先生と思っていました。もしかしたら事前に
組替え案で同じ組に入るようN先生の尽力があったのかもしれません。
新しい組の列に並んでいると、N先生が急にやってきました。「実は隣りの
9組の人数が足らないんだ。できたら誰か移ってくれないか」と私の方を
向いて申し訳なさそうにしている。断ることもできた雰囲気でした。
担任がN先生だと聞き、喜んでいた私には正直、とても迷いました。。
しかし困っているN先生を思い、小さくうなずいた。
N先生と私は同じ若宮小学校以来の再会を喜んでいた直後だっただけに、
N先生も本当に残念そうにしていました。こんな些細と思いえるクラス
編成の話なのですが、その後の私にとってはこれが少なからず禍根になる
とは、このときはまだ気付いていませんでした。
戻ってみても当時の一中はいじめや非行の話はまったく聞こえてこない。
雰囲気は都会的で、改めて見る生徒たちは、みな大人びているようでした。
学校生活の方はこれでやっと安住を得た心地でした。
部活は念願の剣道部に入りました。
前橋のキリスト教会にも久しぶりに通い始めました。
すべてが、リセットされ晴れ晴れしい気持ちの毎日がつづきます。
不思議と母恋しさの感情は、まったく消えていたのです。
下宿では大きな番犬とはすぐに仲良しになったのですが、犬に負けない?
大柄な市内の女子高に通うバレー選手の長女とはケンカをしてしまった。
どんな理由かは思い出せないのですが、口ゲンカでした。私が劣勢で
一方的にやられて小さくなっていた。その時、私より1歳年上の小柄で
可憐な次女さんが、姉に向かって「そんなに強く言わなくてもいいのに」
と制止してくれた。嬉しかったが、なぜ同じ姉妹でもこうも違うのかと
の思いでした。
「よし。引越しだ!」私は心の中で叫んだ。
前橋に戻ってからは、学区が異なり第四中学校に進んだ小学校時代の友人
たちとも交流が再開していました。
1年ぶりで会った才川町(現、若宮町)に住む四中生、H君が「近くに良い
下宿屋があるよ」と教えてくれた。
さっそくその家をH君と一緒に訪れた。すぐ承諾を得て、引っ越しが決定!
この転居は、母の手を借りず下宿探しから引越しまで自分で進めてしまった。
引越しはH君がリアカー(荷車)を借りてきてくれ、一緒に運んでもらった。
荷台には机と本と布団、それに宝物はカメラ(マミヤ)とラジオ(6石トラン
ジスタ東芝の一号機)だけ。もちろん三洋のメーター付き自転車もお供です。
なんとも身軽でわずかな“所帯道具”。
H君といえば、小学生のころから新聞配達や豆腐売りをして家計を支えていた。
私は、夕方の豆腐売りをよく手伝った。はにかみ屋の彼に代わって、独特の2音
ラッパをプープー吹いたり、豆腐がいっぱいで重い箱付自転車の後を押しました。
今度の引越しでは、すっかりH君に助けられました。リアカーで後押されている
のは私の方でした。 (つづく)
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