今戸焼の土人形の中にもお雛様は色々な種類が作られていたと思われます。一文雛、古今風の雛、浅草雛、そしてそれに付随する三人官女や五人囃子、随臣もあったようです。しかし、今戸焼のお雛様で最もポピュラーであったと考えられるのが、この裃雛です。
都内の近世遺跡からの出土の量、伝世品の数を見ても膨大で、今戸焼で作られた人形の種類の中でも、稲荷の狐、恵比寿大黒と並んでベストスリーに並ぶものではないかとさえ考えられます。
裃雛は下総地方へ大量に鬻がれたことから別名「下総雛」とも土製の裃という意味で「ドガミシモ」とも呼ばれていたようです。人形の一大産地である埼玉県鴻巣では着付けの裃雛が大量に生産されていたのに対して、土の裃で「ドガミシモ」でしょうか?女雛は「今戸のあねさま」とも呼ばれていたようです。
伝世の裃雛としてよく知られているのは、群青色と洋紅またはスカーレット染料の2色で塗り分けられた配色のもので、天保年間以降明治中頃まで作られていたものが多いですが、画像のように植物のキハダと蘇芳(すおう)を煮出した汁によって塗られたものも存在します。
群青色(プルシャンブルー)が土人形に使用されるようになったのは、浅草橋にある老舗の人形問屋「吉徳」さんに遺されている天保年間の人形・玩具の配色見本の中に見出せるので、天保頃からかと考えられますが、画像のように植物の煮出し汁を使った彩色は、それより古いやり方ではないかと考えられます。しかし、新しい顔料が渡ってきたとしても、或る日一斉に全ての絵付け師たちが同じように彩色を一新するとは考えられないので、過渡期には植物染料で絵付けする人と新しい顔料を使う人とが共存する時期もあったことでしょう。
画像のお雛様はサイズが揃っていないので、本来の一対ではありませんが、植物染料の使い方、配色など時代としては同じくらいのものでしょう。キハダ汁の使い方を見ると、汁を塗って黄色く発色させたままの部分とその上から砂子(真鍮粉)を散らして変化をつけている部分と区別しています。
2体とも面描きの筆の穂先や、額の生え際のタッチが鋭く、丁寧です。また、顔の地肌を研ぎ出し(膠を多目に混ぜた胡粉地を乾いた紅絹布などでつややかに磨き出す)てあるなど、かなり手の込んだものなので、今戸焼の土人形の中でも、高級志向の仕上げのものと、普及品とのランクがあったのではないかと思いますがどうでしょうか?
港区三田の牧野家墓所から出土したという裃雛がありますが、その手の込んだ面描きに画像の人形も似ているような感じがします。
裃雛の女雛がその昔「今戸のあねさま」としていかにポピュラーだったかを示す「地口ゑ手本」があります。お時間ありましたら、どうぞ。
「ドガミシモ」の「ド」は「土」だという話で書きましたが、人によっては「ど根性」とか「度肝」の「ど」のように強調する「ど」だという意見も読んだか聞いたかした憶えがあります。
したっけ。
お墓から出てきたという話はこれまでも聞いたことがあります。亡くなられた方のために一緒に埋葬したというケースもあったことでしょう。時代や地域によってそういう風習もあったことかと考えられます。このお雛様自体は不祝儀専用のものではなく、一般的なお人形だったかた思われます。浅草橋の老舗の人形問屋である「吉徳」さんの本社ビルの改築の際にも地中から発見されたといいます。川柳「柳多留」の有名な句に「村の嫁 今戸の土偶で 雛祭り」というのがあり、下総地域に多く鬻がれたようです。昔聞いた話だと多古町あたりに今戸人形を取り扱う問屋さんがあったそうで、山武郡あたりにもたくさん渡っていったのではないでしょうか?飯岡で、今戸人形から型抜きして地元で作った「飯岡人形」というものがあったそうですし、上総地方に流れた今戸人形から型抜きして地元で作られた「芝原人形」というものもありました。私自身、佐原市内の神社の境内で雨さらしになった人形を見たことがありました。貴重なお話をありがとうございました。