ブログで昔の今戸人形をご紹介するのも随分久しぶりです。季節に合ったものを、、と思いつつ、正月に合いそうなものをタイミングを逃してしまった、という感じです。初天神にも遅れてしましました。
今年は初午と節分が重なります。狐そのものではないのですが、狐つながりで「狐拳」をご紹介します。狐拳の今戸人形で有名なのは最後の生粋の今戸人形師であった尾張屋・金澤春吉翁(明治元年~昭和19年)のお作りになった狐・庄屋・猟人の三体一組のものだと思います。しかし尾張屋さんの型とは別の狐・庄屋・猟人も存在していますし、画像のように童子姿の拳打ちのものもあります。
この画像の人形は使われている顔料からして今戸人形の一番流行っていた江戸の後期、しかも群青色が使われていないので、配色としてはそれより古いものだと思います。両端の女性の着物は紫土べんがら、襟に鉛丹、狐手の童子の腹懸けや三味線のお福の帯には水緑青(酸化銅)、庄屋の手をする唐子頭の童子の頭部の青剃りや着物部分はベロ藍が使われています。三味線のお福と狐手の童子は都内の近世遺跡からの出土人形と型も同じです。
中央の2人が拳を打っているのは明らかですが、右端のお酌さんは単に襟を合わせて愛嬌を売っているだけのポーズなのか、猟人の手を打っているのかよくわかりません。或いはもう一人拳を打つポーズの童子がいたのかどうか、、しかし出土の人形からそれらしいものを見た憶えがありません。もちろん拳は2人いれば打てるのだから、中央の2人だけでも成立するのではないかと思います。拳をおわかりになる方に教えていただけるとありがたいです。
まず、モチーフとしての狐拳の面白さは「三すくみ」の関係にありますので、人形などを作る際には、まず間違いなく「三体で一組」にすると思います。
一対一でも狐拳の勝負はできますが、やはり一番絵になるのは、三人で勝負を行い、それぞれが違うポーズをとって引き分けになった瞬間であり、江戸時代の絵画資料などもほとんどが「三体で一組」として描かれています。
そのうえで今回の人形を見ると、まず真ん中の童子は間違いなく狐拳の「狐」のポーズであるといえます。両手を自分の耳の横に挙げ、少し指先を曲げて狐の耳を表したもので、「狐」の古い型です。尾張屋さんの「狐」も同じポーズですね。
向かって左隣の人形は、狐拳の「旦那(庄屋)」のポーズをしています。しかし、狐拳の「旦那」の型というものは、「正座して両手を膝の上に置いた型」なので、例えば、「月見兎」や「裃雛」なども、狐拳の「旦那」のポーズであると言えるのです。
そのため、果たしてこの人形の童子が「狐拳の旦那」を表しているのか、単に旦那の恰好をしているだけのか判定が難しいです。しかし、尾張屋さんの「旦那」と同様に黒い羽織を着ていることなどから、私はこの童子は狐拳の「旦那」を表していると考えていいのではないかと思います。
最後に、向かって右端の人形について。おっしゃるように、これが果たして本当に「鉄砲(猟師)」なのかどうか、これも判定が難しいです。
まず、この人形は右手を膝につけていますが、狐拳の「鉄砲」の型で手を膝につけることはありません。なぜなら、上記の様に膝に手をつけるのは「旦那」の型なので、片手を膝にをつけてしまうと、片手が「鉄砲」で片手が「旦那」という、「お化け」(どっちつかず)になってしまうからです。
ですので、この人形だけを見ると、狐拳の「鉄砲」だとは思えないのですが、尾張屋さんの「鉄砲」を見ると、やはり片手を膝につけています。もしかすると「鉄砲」の型で片手を膝につけるのは、今戸人形独特の表現なのかも知れません。
そう考えると、この人形が「鉄砲」を表している可能性もあるのですが、童子とお酌さんという組み合わせの意図もわかりにくく、なんとも言えません。個人的には、全体的なポーズの具合からして、違う可能性の方が高いと思います。
後日、この写真をプリントアウトしたものを、拳の師匠たちにも見てもらい、意見を聞いてみようと思います。
るん馬さんの謎解きも楽しみです。
ふと思うのですが、
作られた当時はこうした人形を買い求めたのは
やはり子どもたちだったのでしょうか。
昔の人形を見ると、どのように親しまれていたのか、
いつも想像を駈け巡らせています。
拳を打つ2人が童子姿になっているのとお酌さんとの組み合わせは大人と子供という面で写実を離れているのですが、、。猟人の童子が存在したのかどうか、、。お福と狐の童子は新宿区内から出ていますが、その仲間はまだ見ていないような、、、。話は変わりますが、明治出来のお酌さんのような人形でこのお酌さんによく似たポーズをとっているのがありますから、襟をおさえて「おほほ」と笑っている科なのかもしれないという気もします。詳しいことおわかりになりましたら、是非お教えくださいませ。
この人形たちに出会ったときには、既に新宿区内の出土品の記憶が頭の隅にあったのでビリビリっと来ました。藤八拳は歌舞伎の舞台で人気の役者が行った影響で大流行したという話を聞いていますしいろいろな種類の拳あそびの錦絵が残っているくらいですから、子供も真似していたのではないでしょうか?出土の土人形などにはかなりきわどいものもありますし、全てが子供向きであったかどうかはわかりませんね。あくまでイメージですが、昔の子供は早くから結構ませていたのではないでしょうか?清元の踊りに「うかれ坊主」というのがありますが、その歌詞に結構色っぽい内容が含まれているとか、それと樋口一葉の「たけくらべ」の登場人物の様子も結構ませていますよね。あくまで空想なので当時はどうだったのでしょうか?
また、三味線を弾いているお福さんも、直接狐拳と関係しているのかどうか。同じ場所からの出土例もあるとのことですし、一見しても同工の手によるものだとわかりますが。
なんにせよ、狐拳関連の資料にあたって、狐拳を描く際にどのようなモチーフが用いられたか、調べてみますね。
子どもと拳について。
三拳連取の東八拳はそれなりに難しく、またきれいに粋に打つためには稽古も必要(そのため私等は師匠に弟子入りして毎週稽古しているわけです)ですが、一拳勝負の狐拳は簡単なもので、江戸時代には子どもの間でもジャンケンと同じ感覚で打たれていたものと考えられます。しかも、江戸時代にはジャンケンよりも狐拳の方がはるかに一般的でした。
戦後になっても、面子の裏などに「狐」「鉄」「庄」などと書かれたものをご覧になった記憶がおありだと思いますが、あれは狐拳の名残りです。
なるほどなるほど、、、狐拳と藤八拳の違い。狐拳は一回で勝負するが藤八拳は三回続けて打っての勝負となる。藤八拳は二人で打つが、狐拳は三人ということで正しいのでしょうか。清元「申酉」の「三人それポンポン狐拳」然り、「鈴ヶ森」の雲助三人や「伊勢音頭」の「追っかけ」の三人然りということですね。ふたつの拳の違いというものをしっかりと認識していませんでした。この画像の四体について屁理屈で二人だけなら「藤八拳見立て」といえるのかどうかと思ったのですが、古い形だと仰っておられるので二人でも形は狐拳なのですね。お酌ですが、このあとの記事にアップした捻りの人形のお酌とお銚子を持っているかどうかの違いはありますがポーズは似ているのでお酌の仕草だと考えればいいですね。また童子とお酌との関係については製作者の意図のレベルかどうかわかりませんが、とりあえず旧蔵者のところでは「お座敷見立て」の括りで飾られていたと考えれば不自然ではないですね。
もともとは「鉄砲」の童子人形があったのではないかと思います。
とにかく、いまどきさんもおっしゃるように、旧蔵者は二体の狐拳人形を同工による他の人形と組み合わせて、「お座敷見立て」にしたのだろうと、私も思います。
捻り人形もそうですが、お座敷で三味線に合わせて拳を打つ姿というのは、明治期の古写真などにも見られるモチーフです。我々のように、江戸時代以来の家元制の元で拳の稽古をしている者にとっては、拳というとすぐにお座敷遊びだと思われるのは残念なことですが、実際拳はお座敷でよく打たれました。
ただ、勝負の際、相手に何を出すかばれてしまいそうなので、勝負と言うより、遊びの要素が強かったのでしょうか。
それが、こうして形として残っているのは素晴らしいことだと思います。